2013年9月13日金曜日

自律しないトップ・アスリートたち。その多くは思考を停止したスポーツ・ロボットにすぎないのか?

  トップ・アスリートと呼ばれる人たちはふつうの人間とはいささか違う人種のようだ。むかしからトップに躍り出てくる選手は,ふつうとは少し違う人が多かった。それもそのはずで,ふつうの人がふつうの努力をすればふつうの選手で終る。そこに一工夫を加えて,日々精進し,それをやりとおす意志の力が必要となる。その分,ふつうの人がもっているもの以上のなにかが加わると同時に,ふつうの人が備えているなにかがそちらに奪われていくことになる。たとえば,付き合いが悪いとか,他者の意志を無視するとか。つまり,自分のペースを守り抜く,そういう意志の力が必要だ。しかし,それは自分で考え,自分でコントロールしながら,自分の意志で実行していく。そこから生まれてくるものは個性の範疇に収まるものだ。

 しかし,近頃のトップ・アスリートと呼ばれる人たちは個性の範疇を越えているのではないか,と思われることが多い。思い切って言ってしまえば,人間というよりはモノに近いのではないか,ということだ。もっと言ってしまえば,ロボット。そう,スポーツをするロポット。だから,スポーツ・ロボット。略して「スポロボ」。わたしの眼にはそんな風に写るトップ・アスリートが多い。

 その大きな特徴は,自分の頭では考えない。考えようともしない。自分より目上の人から言われたことにはまことに従順で素直。というより,言われるがまま。言われたことをそのまま順守し,実行する。それでなんの疑問もいだくことはない。素直そのもの。というか,無知。言われたことに対して,条件反射的に「ハイ」と答えて,平気でいられる。無理なことを言われても,すべて「イエス」で答える。いわゆる体育会的性格。絶対服従。

 われわれの眼に触れる場面でいえば,試合が終った直後のインタヴューの受け答え。マニュアルに書いてあるとおりのワン・パターンの応答。聞いていてなにも面白くない。インタヴューをする方もマニュアルどおり。こちらもインタヴューアーとしての職業的な自覚がない。だから,間違いのないように,とマニュアルにしがみつく。そこには,なにかを問い質して,その選手独特の個性を引き出そう,などという意志はない。つまり,インタヴューアーも自分で考えるということを放棄してしまっている。そして,そつなくこなせばいい,というただそれだけ。だから,わたしのような人間には退屈この上ない。単なるとおりいっぺんのやりとりがあるだけ。なにも面白くもなんともない。そこには,ロボットとロボットの,入力されたとおりの会話があるだけ。

 そこには,人間らしさはなにも感じられない。つまり,人間としての喜怒哀楽や,素朴な疑問とそれへの応答というものがなにもないからだ。だから,おやっ?なぜ?という素朴な疑問すらいだかない,モノ的な人間,機械的な人間,すなわと,ロポット。マニュアルとして入力されたこと以外のことはなにも問わないし,なにも答えない。

 しかし,優れたインタヴューアーは違う。まず,基本的に人間的魅力というものに強い関心をもっている。だから,相手選手の人間的魅力はどこにあるのだろうか,というところから会話がはじまる。その上で,その選手が取り組んでいる競技種目の特性に関心を示す。だから,その競技種目の面白さはどこにあるのか,どこがむつかしいところなのか,という問いを発する。こうなると,ロボット選手はことばに詰まる。しかし,自律している選手であれば,ことばを絞り出すようにして自分の考えを語りはじめる。それはとても味のあるものが多い。

 言ってしまえば,インタヴューアーの方に,スポーツとはなにか,という根源的な問いをもっていて,つねにその答えを模索しているかどうか,そうすれば必ずその答えを求めるような問いが飛び出してくる。そこがポイントとなる。つまり,まずは,選手としての魅力,つぎに競技種目の魅力,さいごにスポーツとはなにかというもっとも基本的な問いをもっているかどうか。それに対してどこまで応答できるかどうかは,アスリートとしての自律の度合による。

 ところが,競技者たちには,人間として自律するというプログラムがほとんどない。これが最近の競技者を取り囲む環境の大きな特徴でもある。競技者としての練習のプログラムは,すべて上級生が用意しているか,監督・コーチが用意している。初心者のときから,この練習パターンは変わらない。だから,考える必要はないのだ。かえって考えたりすると衝突が起きてしまう。考えないで,黙々と練習プログラムをこなしていく競技者がいい競技者と評価される。

 これが習い性となり,いつしかなにも考えないモノ的な人間,すなわち,スポーツ・ロボットが誕生する。マニュアルはだれかが考えて,与えてくれる。それにおとなしく従っていれば,なにごともそつなくこなすことができる。ただし,自律とはほどとおい人間になってしまう。

 スポーツ界にはこういう人が多すぎる。ただし,組織で出世するには,この方が無難である。人の顔色をうかがいながら,つねに,多数派に身を寄せる。そして,余分な発言はいっさい控える。会議が終ってから主流派の人にすり寄っていって胡麻をする。あとでプレゼントでもしておけば,万全である。そうして,仲良しクラブの一員として,忠節をつくす。

 なにをイメージしているのか,おわかりのとおり全日本柔道連盟の理事会,評議員会のメンバーのことだ。

 思い切って言っておけば,IOCの委員たちもまた大同小異だ。
 こちらは国際的な関係があるので,いささか複雑ではあるが,基本的には変わらない。
 なにせ,王族・貴族が主導権を握っている団体なのだから。
 このことについても,このブログで考えてみたいとおもっている。

 このブログの結論は,「自律しないトップ・アスリートたち」が多すぎる,ということ。ここに,こんにちの日本のスポーツ界の根源的な問題が潜んでいる。だから,「スポーツとはなにか」などという不毛なことは,だれも考えようともしないし,そんなことは自明のことであり,熟知している,と勘違いしている。そんな人たちがスポーツ界の圧倒的多数を占めている。そして,メディアにいたっては,もっと酷い。

 じつは,スポーツ界は問題が山積みのままなのだ。つまり,古い体質のまま,なんの矛盾も感じてはいない。そういう人たち,時代の大きな転換期に,うまく対応できないままでいる,すべてはそこからはじまる。

 考えれば考えるほど,どうしようもない泥沼のなかに入り込んでいく。
 これから少しずつ問題をほぐしながら,問題の所在を明らかにしていきたい。

 トップ・アスリートたちがモノ化していくのは,哲学的に考えてみても,人間の文化の必然である,ということが可能なのだ。そこから,いかにして脱出をはかるか,というじつは遠大な課題がこのさきに待ち構えている。このことも,いつか,書いてみたいと思う。

 とりあえず,今回はここまで。

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