2013年9月17日火曜日

オリンピックとマネー・ゲーム。スポーツの金融化。その3.テレビ・マネー に群がるハイエナ?

  たった一度でも,その匂いを嗅ぎ,汁を吸い,注射をしたりして,心ゆくばかりのお接待を受け,天国にも昇るようなエクスタシーの快感を味わってしまったが最後,もうそこから足を洗うことのできない,まるで麻薬の世界のようなもの,それがテレビ・マネーの世界。その恐るべき舞台裏を,きわめて冷静に,やや遠慮がちに描いてみせた『オリンピックと商業主義』(小川勝著,集英社新書)を再度,通読してみました。

 今日(16日),予定されていた名古屋での研究会に行かれなくなり(東海道新幹線の一部運休により),ならば,というわけで再度,このテクストを読みなおすことにしました。細切れに拾い読みしかしてなかったテクストですが,通読してみると,著者が書き切らないで言い残した部分が,もののみごとに浮かび上がってきて,いまさらのように考え込んでしまいました。

 それが冒頭に書いた,テレビ・マネーという麻薬の世界。1960年のローマ大会の折にアメリカのCBSが120万ドルでテレビ放映権を買い上げたときには,驚きのできごとではありましたが,それでもなお大会運営のための総収入の22%を占めるにすぎませんでした。しかし,テレビの普及と宇宙衛星放送によるテクノロジーのお蔭で,世界にむけてビッグ・イベントの同時生中継が可能となってきますと,テレビ局側が黙ってはいませんでした。放映権料は大会を重ねるごとに鰻登りに高額化していきました。組織委員会は売り手市場でだまって待っていれば,向こうから買い出しにやってきてくれるのですから,ただ,高値のところと契約をすればそれで済むことでした。だからこそ,一度,味をしめてしまったら最後,もう,やめられない麻薬づけの体質そのものになってしまいました。

 聖火リレーを金融化して,世間をあっと言わせ,なおかつ税金をいっさい使わないでオリンピックを開催し,大きな黒字を出してその名をとどろかせたロサンゼルス大会の組織委員会委員長ピーター・ユベロスは,このテレビ放映権に入札制を初めて導入した男でもありました。しかも,放映権料の額を一気につり上げることに成功します。さすがに,大実業家だなぁ,と感心してしまいます。しかし,このときからテレビ放映権料の額は,まったく異次元の世界に突入していきます。しかも,これ以後,その,とんでもない異次元世界がオリンピックの世界では,ごくごく当たり前となってしまいます。こうして,IOCは情けないことに「より速く,より高く,より強く」値段をつり上げることに狂奔していくことになります。その姿は,まるでハイエナのように放映権料の甘い汁になりふり構わずむしゃぶりつくことになってしまいます。

 その実態の一部を知るために,IOCが公表したファイルによるテレビ放映権料が紹介されていますので,それを引いておこうとおもいます。

 1976年・モントリオール   3490万ドル
 1980年・モスクワ       8800万ドル
 1984年・ロサンゼルス 2億8690万ドル  ◎
 1988年・ソウル     4億2600万ドル
 1992年・バルセロナ  6億3610万ドル
 1996年・アトランタ   8億9830万ドル
 2000年・シドニー   13億3160万ドル  ◎
 2004年・アテネ    14億9400万ドル
 2008年・北京     17億3900万ドル

 この数字をどのように読み取るかは,レートとの関係もあっていささか複雑ではありますが,ここでは単純比較でお許しいただこうとおもいます。それでも充分に理解していただけるとおもうからです。しかも,そんなに大きな間違いではないとおもうからです。

 そこで,際立って大きな変化を起こしたと考えられるところに◎をつけておきました。そうです。1984年のロサンゼルス大会と,2000年のシドニー大会です。ここで契約額が大きく飛躍しています。ロサンゼルス大会のときのことはすでに書きましたように「入札制」を取り入れたことによる高騰です。それまで,入札すら行われていなかったということ事態が,わたしには異常にみえてしまいます。そんなことが,なんの違和感もなく行われていたということ自体が,やはり,IOCという特殊な組織の,世間の常識とはかなりかけ離れた,逸脱した特権的な異質性が,ここに表出しているのではないか,とわたしにはみえてきます。

 では,シドニー大会のときにはなにが起きたのでしょうか。

 これはもう,ここに書くことすら憚られるような,わが眼を覆いたくなるような恐るべきことが,ごく当たり前のことのように平然と行われていたのです。言ってしまえば,このときを境に,IOCと放映権をめぐる取引は狂気の沙汰としかいいようのない,この世にはありえない別世界と化してしまいました。しかも,困ったことに,そのことにだれも歯止めをかけることができなかった,という事実です。こうして,ますます,IOCという特権的な団体は狂気の世界に突入していくことになります。

 なにがあったのか。それは簡単に言ってしまえば,「複数大会の同時契約」という鬼の手でした。つまり,二つの大会を一緒にして,同時に契約して利権を確保してしまおうという,企業側の要求を「利益が増大」するのであればという,まさに稚拙な資本主義的な発想のもとにIOCが認めてしまったということです。このアイディアを生み出したのは,オーストラリアのテレビ局「チャンネル7」でした。

 1996年のアトランタ大会のオーストラリア向け放映権料の入札に際して,自国で開催される2000年シドニー大会とセットにして契約すれば,これまでとは比較にならない高額を提示できるとして,IOCの放映権交渉委員会委員長ディック・バウンドと交渉し,契約を成立させていまいます。これが新しいテレビ放映権契約のモデルとなって,以後,継承されることになります。

 この契約を見届けたアメリカのNBCは,すぐに行動を起こします。2000年のシドニー大会と2002年の冬季ソルトレークシティ大会の放映権を同時に獲得することをめざして交渉に入ります。くわしいことは省略しますが,NBCは,まず,スウェーデンのイエテボリにいたIOC会長のサラマンチに会って了承をとりつけ,すぐに,モントリオールに飛んでIOC放映権交渉委員会委員長ディック・パウンドに会って基本契約を交わします。その間,たった三日間だったといいます。

 このことはなにを意味しているのでしょうか。まるで抜け駆けの闇の中での交渉です。しかも,IOC会長とIOC放映権交渉委員会委員長の,たった二人の合意だけでテレビ放映権の契約がなされてしまう,という事実です。つまり,IOCという組織は,わたしたちが考えているような近代的な,合理的な組織ではない,ということです。もっと言ってしまえば,IOC会長がOKといえば,それがそのまま認められてしまう組織だということです。ですから,放映権交渉委員会委員長もまた,IOC会長のお墨付きのことであれば,独断で契約を結ぶことも可能だ,ということです。IOCという組織はそういう組織であるということを,わたしたちはしっかりと認識しておく必要があります。

 つぎなる問題は,なぜ,会長と委員長の合意だけで,放映権の契約ができてしまうのか,ということです。そこにも,やはり,それなりの根拠がありました。入札なしでIOC側が納得するだけの額,つまり,入札をしてもそれ以上にはならないだろうとだれもが納得するだけの桁外れの額を提示すれば,だれも文句はないだろう,という条件を契約者側が提示した,ということです。こうして,即時契約という,通常の社会の契約ではありえないことが,IOCでは行われたというわけです。

 条件さえよければ,IOC会長と放映権交渉委員会委員長の,たった二人だけの合意で契約ができてしまうという,これがIOCという組織体の実態であるということです。

 こういうことが,なんの違和感もなく,正々堂々と行われている,しかも,これらの契約を承認する組織体,それがIOC理事会であり,IOC総会である,ということです。

 こういう組織体が,オリンピック東京招致を,多数決で承認した,ということです。このテレビ・マネーに群がるハイエナのようなIOC委員に承認された,ということの内実を考えていきますと・・・・。もう,これ以上のことをここに書くことはできません。4500億円もの備蓄があると宣言した東京都です。これ以外の機密費がどのように使われたのかと考えると,今回のIOC総会の決定が,なんとダーティな決定であったことか,と茫然自失してしまいます。

 人格・識見ともに優れたIOC委員さんがたくさんいらっしゃるにもかかわらず,あえて,ハイエナのような,と言わせていただきます。なぜなら,圧倒的多数がハイエナだからです。ロビー活動などといえは聞こえはいいのですが,なにを隠そう圧倒的多数のハイエナに餌づけをしているだけの話です。

 考えれば考えるほどに,情けなくなってきてしまいます。でも,これが現実なのだ,ということを忘れてはなりません。そして,この現実を踏まえて,つぎなる行動を起こすしか方法はありません。

 わたしは,きびしくIOCを批判しつつ,この現実を現前にして,では,お前はどうするのか,と自問自答を繰り返しています。でも,その答えはなかなか見つかりません。なぜなら,わたし自身が優柔不断な生き方をしてきたからだ,とこんどは自分を苛むことになっています。

 他者を批判することは容易ではあっても,それをわが身に引き受けるとなると,ことは容易ではありません。でも,言うべきことは言って,みずからを他者化して,その正当性を問い返す以外にはなさそうです。批評するという行為は,なんと厳しい現実を生きることを,その結果として要求してくることなのでしょう。

 じっと,わが手を眺めてみる。

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