1956年のメルボルン大会には日本のオリンピック代表選手たちが,その費用捻出のためにたいへん苦労していた話を書いたが,このときのIOC会長だったキラニンも同じように自費でこの大会にでかけている。もっとも,かれは自分の経営している会社の出張旅費で賄ったと,自著のなかで書いているが・・・。
このように考えると,メルボルン大会あたりまでは,まあまあ例外はあるものの,アマチュア精神に則った,地味で,まともな大会運営がなされていたと考えてよさそうである。しかし,そのつぎのローマ大会(1960年)には,初めてテレビ放映権が金融化されて取引されるようになる。精確にいうと,その年の2月にアメリカ・スコーバレーで開催されたオリンピック冬季大会で,テレビ放映権をアメリカのCBSが5万ドルで買ったのが嚆矢である。この前例に夏季大会がつづいたという次第である。(これらの情報は小川勝著『オリンピックと商業主義』,集英社新書,2012年,による。以下も同様。)
ちなみに,ローマ大会のときの放映権料は,IOCの公式資料によると総額120万ドルだったという。これを当時のレートで円に換算すると4億3200万円になる。1960年といえば,わたしが大学の4年生。当時の一ヶ月の生活費が約5000円前後(寮生活)。ラーメンが一杯15円。カツ丼が50円。ここから逆算するといまの値段は約20倍として,テレビの放映権料は約86億4000万円。この額は,ローマ大会総収入の22%だったという。
このテレビ・マネーが,その後,あれよあれよという間に高騰化し,オリンピックはマネー・ゲームのアリーナと化す。しかも,IOCは売り手市場だから,労することなく巨額のカネが転がり込んでくる。こうなると,もはや,歯止めがきかなくなる。IOCの会長を筆頭にIOC委員もみんなそろってカネの亡者となりはてる。もちろん,選手とて負けてはいない。まずは,なにがなんでも金メダルだ。そして,名が売れれば売れるほど,つまり,商品価値が上がれば上がるほど,高値がつく。こうして,アスリートもまた金融化の道をまっしぐら。ドーピングをして早く死んでしまってもいいから金メダルがほしい。こんなアスリートがあとを絶たない。
こうして,ついにはテレビ・マネーによってオリンピックは乗っ取られてしまうことになる。そして,ついには,その弊害が出はじめる。記憶している人も多いとおもうが,1988年のソウル大会で,とうとうテレビ放映側の都合による競技時間の変更ということが現実化したのである。
例のカール・ルイスとベン・ジョンソンとの100m対決が世界的な関心を呼んでいたために,決勝レースをアメリカのゴールデンタイムに合わせてテレビ中継するための措置だった。こんなことは前代未聞のできごとだった。どんなことがあろうと,現地時間のもっとも条件のいい時間帯に決勝レースを行うことは,なによりも優先されてきた。にもかかわらず,その鉄則がテレビ・マネーによって突き崩されることになった。
オリンピックの競技時間を決める権限は,各スポーツ競技種目の国際競技連盟がもっている。国際陸上競技連盟が最初に組んでいた大会スケジュールでは,男子100mの決勝レースは午後5時になっていた。しかし,ソウルの午後5時は,アメリカ西海岸の時間でいうと午前0時,東海岸でいえば午前3時になる。これでは最高のお客さんであるアメリカの放送局に高値で放映権を売ることができない。ここから,組織委員会と国際陸上競技連盟会長(ネビオロ)とIOC会長(サマランチ)の三つ巴の,血みどろのマネー・ゲームがはじまる。
こうして,ついに,「収入の最大化」をめざす論理が,100m決勝レースの最適条件下での実施を凌駕するという,とんでもないことが起きてしまったのである。つまり,カネの論理のためならスポーツの論理も引き下がる,という本末転倒が起きてしまったのだ。かくして,オリンピックはスポーツの祭典ではなく,マネー・ゲームの祭典と成り果ててしまった。
オリンピックが4年に一度の世界中が注目する最大のスポーツの祭典だ,などと思ってはいけない。オリンピックは,スポーツに名を借りた世界最大規模のマネー・ゲームの熾烈な戦いを繰り広げるためのアリーナなのだ。
しかも,困ったことに,ここでもアメリカン・スタンダードを押しつけてくる。世界の中心はアメリカであるということを,オリンピックまで支配下に置いて,いや,私物化して,世界にアピールしようというのである。アメリカのやりたい放題。だれも口出しもしない。
こうなってくると,2020年の東京オリンピックは,忠犬ポチが,飼い主のアメリカに忠誠をつくす証として開催されるものである,と断言しておこう。そして,大震災やフクシマの被災者を「勇気づける」とか,「元気づける」とか,真顔で訴えた能天気なアスリートたちに告ぐ。そんな気持ちがひとかけらでもあるのなら,たった一日でもいい,フクシマの作業員として,被曝線量とにらめっこしながら勤労奉仕でもしたらどうだ,と。オリンピックで活躍する前に,まずは,こちらが先決だ,と。
もはや,オリンピックのミッションは終った,としかいいようがない。この事実をしっかりと胸に刻んでおきたい。
ああ,またも過激になってしまった。溜まりにたまった鬱憤晴らしだと思って,どうぞ,ご海容のほどを。
このように考えると,メルボルン大会あたりまでは,まあまあ例外はあるものの,アマチュア精神に則った,地味で,まともな大会運営がなされていたと考えてよさそうである。しかし,そのつぎのローマ大会(1960年)には,初めてテレビ放映権が金融化されて取引されるようになる。精確にいうと,その年の2月にアメリカ・スコーバレーで開催されたオリンピック冬季大会で,テレビ放映権をアメリカのCBSが5万ドルで買ったのが嚆矢である。この前例に夏季大会がつづいたという次第である。(これらの情報は小川勝著『オリンピックと商業主義』,集英社新書,2012年,による。以下も同様。)
ちなみに,ローマ大会のときの放映権料は,IOCの公式資料によると総額120万ドルだったという。これを当時のレートで円に換算すると4億3200万円になる。1960年といえば,わたしが大学の4年生。当時の一ヶ月の生活費が約5000円前後(寮生活)。ラーメンが一杯15円。カツ丼が50円。ここから逆算するといまの値段は約20倍として,テレビの放映権料は約86億4000万円。この額は,ローマ大会総収入の22%だったという。
このテレビ・マネーが,その後,あれよあれよという間に高騰化し,オリンピックはマネー・ゲームのアリーナと化す。しかも,IOCは売り手市場だから,労することなく巨額のカネが転がり込んでくる。こうなると,もはや,歯止めがきかなくなる。IOCの会長を筆頭にIOC委員もみんなそろってカネの亡者となりはてる。もちろん,選手とて負けてはいない。まずは,なにがなんでも金メダルだ。そして,名が売れれば売れるほど,つまり,商品価値が上がれば上がるほど,高値がつく。こうして,アスリートもまた金融化の道をまっしぐら。ドーピングをして早く死んでしまってもいいから金メダルがほしい。こんなアスリートがあとを絶たない。
こうして,ついにはテレビ・マネーによってオリンピックは乗っ取られてしまうことになる。そして,ついには,その弊害が出はじめる。記憶している人も多いとおもうが,1988年のソウル大会で,とうとうテレビ放映側の都合による競技時間の変更ということが現実化したのである。
例のカール・ルイスとベン・ジョンソンとの100m対決が世界的な関心を呼んでいたために,決勝レースをアメリカのゴールデンタイムに合わせてテレビ中継するための措置だった。こんなことは前代未聞のできごとだった。どんなことがあろうと,現地時間のもっとも条件のいい時間帯に決勝レースを行うことは,なによりも優先されてきた。にもかかわらず,その鉄則がテレビ・マネーによって突き崩されることになった。
オリンピックの競技時間を決める権限は,各スポーツ競技種目の国際競技連盟がもっている。国際陸上競技連盟が最初に組んでいた大会スケジュールでは,男子100mの決勝レースは午後5時になっていた。しかし,ソウルの午後5時は,アメリカ西海岸の時間でいうと午前0時,東海岸でいえば午前3時になる。これでは最高のお客さんであるアメリカの放送局に高値で放映権を売ることができない。ここから,組織委員会と国際陸上競技連盟会長(ネビオロ)とIOC会長(サマランチ)の三つ巴の,血みどろのマネー・ゲームがはじまる。
こうして,ついに,「収入の最大化」をめざす論理が,100m決勝レースの最適条件下での実施を凌駕するという,とんでもないことが起きてしまったのである。つまり,カネの論理のためならスポーツの論理も引き下がる,という本末転倒が起きてしまったのだ。かくして,オリンピックはスポーツの祭典ではなく,マネー・ゲームの祭典と成り果ててしまった。
オリンピックが4年に一度の世界中が注目する最大のスポーツの祭典だ,などと思ってはいけない。オリンピックは,スポーツに名を借りた世界最大規模のマネー・ゲームの熾烈な戦いを繰り広げるためのアリーナなのだ。
しかも,困ったことに,ここでもアメリカン・スタンダードを押しつけてくる。世界の中心はアメリカであるということを,オリンピックまで支配下に置いて,いや,私物化して,世界にアピールしようというのである。アメリカのやりたい放題。だれも口出しもしない。
こうなってくると,2020年の東京オリンピックは,忠犬ポチが,飼い主のアメリカに忠誠をつくす証として開催されるものである,と断言しておこう。そして,大震災やフクシマの被災者を「勇気づける」とか,「元気づける」とか,真顔で訴えた能天気なアスリートたちに告ぐ。そんな気持ちがひとかけらでもあるのなら,たった一日でもいい,フクシマの作業員として,被曝線量とにらめっこしながら勤労奉仕でもしたらどうだ,と。オリンピックで活躍する前に,まずは,こちらが先決だ,と。
もはや,オリンピックのミッションは終った,としかいいようがない。この事実をしっかりと胸に刻んでおきたい。
ああ,またも過激になってしまった。溜まりにたまった鬱憤晴らしだと思って,どうぞ,ご海容のほどを。
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