五月雨式につぎからつぎへと重大な事態が明るみにでてくるフクイチ(福島第一原発)。そして,後手後手にまわる対策。しかも,その対策が遅すぎる。とうとうフクイチの高濃度汚染水は地下水に達してしまい,「垂れ流し」状態に。
このごに及んでもなお「フクシマは安全」と嘯き,五輪招致に盲進する日本のトップ(首相,都知事,など)の姿勢を,IOC委員はもとより,国際社会はどうみているのだろうか。少なくとも,わたしが感知しているかぎりでは,もはや日本の信用は地に堕ちた,としかいいようがない。にもかかわらず,日本のメディアは能天気に,国際社会の声を無視してドメスティックな情報しか流さない。だから,圧倒的多数の日本人は,メディアの「垂れ流す」情報をそのまま受け止め,あらぬ方向に意識が操作されていても気づかない。
なにより恐ろしいのは,どれだけの放射性物質が太平洋に流れでているのかというその実態が,いまだにわかっていないということだ。あるいは,実際にはわかっていても公表していないだけかもしれない。だとしたら,もっと恐ろしい。
なぜなら,これまで公表されてきた情報も,つねに「小出し」にして,その間隔を開け,その実態をさきのばしにしてきたからだ。そして,のちになってから,じつはそれらの事実はずっと以前からキャッチされていた,ということが多すぎる。
「地下水」ということばの使い方にも,わたしは違和感を覚える。
フクイチの原発があるところは,そのむかしは川だった,となにかの本で読んだ記憶がある。その川は水が枯渇して,涸れた沢になっていた,と。その上に近くの丘陵をけずって,その土をかぶせた敷地なのだ,と。その実態は,涸れた沢の下は伏流水が流れていて,いまもそれがつづいているというのだ。たしかに,伏流水は地下水の一種ではあるものの,その内実は大きく異なる。地下水なら仕方がないというあきらめもつくが,伏流水と聞けば,ちょっと待てということになる。この事実を知っていてフクイチが建造されたとしたら,ことは重大だ。
もっとも,活断層の上に原発を建造して平気でいたという無神経さからすれば,伏流水の上に原発を建造するくらいのことは,なんでもないことなのかもしれない。こういう事前の調査からして,まことに杜撰であったとしかいいようがない。原発建造の当初から流れている無責任体質。いわゆる認可制度の盲点。官僚と企業の癒着体質。
フクイチのタンク漏水が,伏流水に達して,そのまま海に流れていると想像しただけで気がとおくなってしまう。やはり,地下水と伏流水とでは大違いだ。
国は500億円ほどの税金を投じて,高濃度汚染水の流出を防止するとか。それも素人にはその効果のほどが想像しにくい「凍土」作戦だという。こんな程度の「場当たり」的な手当てで地下水(伏流水)の流れを食い止めることができるのだろうか。わたしにはまったく理解できない。
もはや,東電が悪いとか,国が悪いとか,言ってる場合ではない。国も企業もフクイチの,ことばの正しい意味での「収束」に向けて,なりふりかまわず全力を傾けるべきときだ。なのに,他方では大飯には活断層がないという判定をくだして,再稼働のための審査に入るという(これを八百長といわずしてなんというか)。とんでもない話だ。原発がなくてもこの国の電力は足りるということは,この夏の猛暑を乗り切ったという事実が証明している。
再稼働をさせた場合の原発の最終的な収束に要する費用がどれほどになるのか,その試算もできない情況で,なにがなんでも再稼働ありきの思考しかできない頭の固さにはあきれるばかりだ。原発に依存する考え方が,いずれ行き詰まることが分かり切っているのに,なぜ,いまだに再稼働なのか,きちんと国民に対して説明してほしいものだ。
再稼働などという邪道に走る前に,まずは,フクイチという「国家の一大事」に真っ正面から取り組んでほしい。このことの重大さをまだわかっていないのだとしたら,日本という国はまさに「破局」への道をまっしぐらということになってしまう。日本という国が,まことに無責任な国とみなされ,世界の邪魔者扱いにされてしまうことは必定だ。
いまこそ,国内にあるすべての原発を廃絶させる方向に舵を切って,再生可能エネルギーの開発に取り組む姿勢を示すことだけが,国際社会に対する「誠意」というものではないのか。ドイツはフクイチの事故に対して素早く反応し,すべての原発を停止させて,再生可能エネルギーの開発に国を挙げて(官民一体となって)取り組んでいる。そして,もののみごとなシステムを構築しつつある。まもなく,電力輸出国になれる,という情報もある。
五輪招致の最後のプレゼンテーションで,日本は五輪招致を辞退する,と高らかに宣言し,フクイチの収束に向けて全力で取り組むので,世界中の支援をお願いしたい,くらいのことをやってみたらどうか。世界中が拍手喝采を送ってくれるだろう。そういう,とてつもない,いささか常軌を逸していると言われるかもしれないが,それほどの決断がいま求められている。しかも,そのための最高の「舞台」が用意されているのだから。
平和運動を標榜するオリンピック・ムーブメントの歴史に燦然と輝く「乾坤一擲」をいまこそ。
このごに及んでもなお「フクシマは安全」と嘯き,五輪招致に盲進する日本のトップ(首相,都知事,など)の姿勢を,IOC委員はもとより,国際社会はどうみているのだろうか。少なくとも,わたしが感知しているかぎりでは,もはや日本の信用は地に堕ちた,としかいいようがない。にもかかわらず,日本のメディアは能天気に,国際社会の声を無視してドメスティックな情報しか流さない。だから,圧倒的多数の日本人は,メディアの「垂れ流す」情報をそのまま受け止め,あらぬ方向に意識が操作されていても気づかない。
なにより恐ろしいのは,どれだけの放射性物質が太平洋に流れでているのかというその実態が,いまだにわかっていないということだ。あるいは,実際にはわかっていても公表していないだけかもしれない。だとしたら,もっと恐ろしい。
なぜなら,これまで公表されてきた情報も,つねに「小出し」にして,その間隔を開け,その実態をさきのばしにしてきたからだ。そして,のちになってから,じつはそれらの事実はずっと以前からキャッチされていた,ということが多すぎる。
「地下水」ということばの使い方にも,わたしは違和感を覚える。
フクイチの原発があるところは,そのむかしは川だった,となにかの本で読んだ記憶がある。その川は水が枯渇して,涸れた沢になっていた,と。その上に近くの丘陵をけずって,その土をかぶせた敷地なのだ,と。その実態は,涸れた沢の下は伏流水が流れていて,いまもそれがつづいているというのだ。たしかに,伏流水は地下水の一種ではあるものの,その内実は大きく異なる。地下水なら仕方がないというあきらめもつくが,伏流水と聞けば,ちょっと待てということになる。この事実を知っていてフクイチが建造されたとしたら,ことは重大だ。
もっとも,活断層の上に原発を建造して平気でいたという無神経さからすれば,伏流水の上に原発を建造するくらいのことは,なんでもないことなのかもしれない。こういう事前の調査からして,まことに杜撰であったとしかいいようがない。原発建造の当初から流れている無責任体質。いわゆる認可制度の盲点。官僚と企業の癒着体質。
フクイチのタンク漏水が,伏流水に達して,そのまま海に流れていると想像しただけで気がとおくなってしまう。やはり,地下水と伏流水とでは大違いだ。
国は500億円ほどの税金を投じて,高濃度汚染水の流出を防止するとか。それも素人にはその効果のほどが想像しにくい「凍土」作戦だという。こんな程度の「場当たり」的な手当てで地下水(伏流水)の流れを食い止めることができるのだろうか。わたしにはまったく理解できない。
もはや,東電が悪いとか,国が悪いとか,言ってる場合ではない。国も企業もフクイチの,ことばの正しい意味での「収束」に向けて,なりふりかまわず全力を傾けるべきときだ。なのに,他方では大飯には活断層がないという判定をくだして,再稼働のための審査に入るという(これを八百長といわずしてなんというか)。とんでもない話だ。原発がなくてもこの国の電力は足りるということは,この夏の猛暑を乗り切ったという事実が証明している。
再稼働をさせた場合の原発の最終的な収束に要する費用がどれほどになるのか,その試算もできない情況で,なにがなんでも再稼働ありきの思考しかできない頭の固さにはあきれるばかりだ。原発に依存する考え方が,いずれ行き詰まることが分かり切っているのに,なぜ,いまだに再稼働なのか,きちんと国民に対して説明してほしいものだ。
再稼働などという邪道に走る前に,まずは,フクイチという「国家の一大事」に真っ正面から取り組んでほしい。このことの重大さをまだわかっていないのだとしたら,日本という国はまさに「破局」への道をまっしぐらということになってしまう。日本という国が,まことに無責任な国とみなされ,世界の邪魔者扱いにされてしまうことは必定だ。
いまこそ,国内にあるすべての原発を廃絶させる方向に舵を切って,再生可能エネルギーの開発に取り組む姿勢を示すことだけが,国際社会に対する「誠意」というものではないのか。ドイツはフクイチの事故に対して素早く反応し,すべての原発を停止させて,再生可能エネルギーの開発に国を挙げて(官民一体となって)取り組んでいる。そして,もののみごとなシステムを構築しつつある。まもなく,電力輸出国になれる,という情報もある。
五輪招致の最後のプレゼンテーションで,日本は五輪招致を辞退する,と高らかに宣言し,フクイチの収束に向けて全力で取り組むので,世界中の支援をお願いしたい,くらいのことをやってみたらどうか。世界中が拍手喝采を送ってくれるだろう。そういう,とてつもない,いささか常軌を逸していると言われるかもしれないが,それほどの決断がいま求められている。しかも,そのための最高の「舞台」が用意されているのだから。
平和運動を標榜するオリンピック・ムーブメントの歴史に燦然と輝く「乾坤一擲」をいまこそ。
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