2013年9月14日土曜日

なぜ,アスリートたちは自律しないで事物化(モノ化,ロボット化)していくのか。その哲学(バタイユ)的アナロジーについて。

 昨日のブログのつづきです。昨日は,アスリートたちの多くが自律することなくモノ化していくのはなぜか,その理由をアスリートたちが育つこんにちのスポーツ界の環境条件に絞って,考えてみました。その最後のところで,じつは哲学的にもアスリートたちが「モノ化」(事物化)してしまう道筋が考えられる,と書きました。今日は,そのつづきを,すなわち,アスリートたちが事物化してしまう哲学的(主としてバタイユの哲学に依拠しつつ)アナロジーについて書いてみたいとおもいます。

 ちなみに,バタイユの思想・哲学については,このブログでも数年前から折あるごとに,かなり詳細に論じていますので,そちらを参照してみてください。全部でいうと相当のボリュームになります。また,そこで書かれたバタイユ論は『スポートロジイ』創刊号(21世紀スポーツ文化研究所<ISC・21>紀要,2012年,みやび出版,「スポーツ学」(Sportology)構築のための思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)解読・私論,P.148~274.),『スポートロジイ』第2号(2013年,スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして,P.190~279.)にも掲載しておきましたので,併せてご確認いただければ,とおもいます。これからコンパクトに書くことになる内容をより深く理解していただけるとおもいます。

 さて,本題に入ります。
 ジョルジュ・バタイユは『宗教の理論』のなかで,つぎのような論を展開しています。
 サルがヒトになるとき<横滑り>現象が起きて,動物性(内在性)の世界から人間性の世界に飛び出してたこのとき,ヒトは理性を獲得する,と。どういうことかといいますと,ヒトが動物性の世界にいたときには内在性を生きているわけですので,自他の区別なく「水のなかに水があるように」生きていたのですが,その動物性の世界から飛び出すということは,動物性の世界が他者になることを意味します。この動物性の世界を他者として意識したとき,驚きとともにヒトは理性に目覚め,他者ではない自己をはじめて意識するようになります。

 そうして,たとえば,目の前にある「石」を他者としてじっと見つめたとしましょう。このとき,はじめてヒトはオブジェ(対象)として「石」をとらえることになります。そうして,どういう経過をたどったかについては諸説がありますが,ヒトは「石」のなかに自己とは異なる特性を見いだします。たとえば,その「石」が道具としてヒトの役に立つということを知ったとき,その「石」はたんなる石ではなくヒトにとって役に立つ石器となります。そうして,ヒトはその石器を自己の所有物として大事に取り扱うようになります。このとき石器はヒトにとってのショーズ(事物)となります。もはや,石器はたんなる石ではなく,ヒトにとって不可欠の宝物になります。つまり,たんなる他者としてのオブジェ(対象)から,自己の所有物であるショーズ(事物)になります。

 このようにして,ヒトは自己の役に立つと思われるオブジェ(対象)をつぎつぎにショーズ(事物)にして,自己の所有物にしていきます。ここからは一足飛びで話をしていきます。たんなるオブジェにすぎなかった動物も,捕獲して飼育し,食糧にしたり,労働力として利用したりして,人間の役に立つショーズ(事物)にしていきます。こうしてショーズ(事物)を所有するという観念が生まれてきます。まったく同じようにして,植物を栽培して,たとえば,米や小麦を人間の事物と化していきます。
 
 こうして人間は自然存在をつぎつぎに自分の役に立つ事物にしていきます。このとき働いている原理は「有用性」です。しかし,この有用性には限界があるということをバタイユは見抜いているのですが,ヒトから人間になった生き物は,この有用性を無限に信じてしまいます。有用性を軸にして働く理性はますます進化・深化していき,ついには「科学神話」を生み出し,こんにちの文明社会を築き上げてしまいます。

 ところが,ここに大きな落とし穴が待ち受けていたことに,いまも多くの人間が気づいていません。それは,生き物としての人間の役に立つべき理性が,いつのまにか狂気と化し,生き物としての人間を攻撃するという逆転現象が起きているという事実です。

 その萌芽が,じつは,オブジェ(対象)をショーズ(事物)にし,それを所有し,私財を蓄えることを考え出したときにみてとることができます。ここからはじっくりと話を進める必要があるところですが,あまりに長くなりますので,さきを急ぐことにします。

 なお,表記が長くなりますので,以下,オブジェ(対象)を対象と,ショーズ(事物)を事物と表記することにします。生き物としての人間が動物や植物をたんなる対象から事物にしたのは,生き延びるための最小必要限の手段としてでした。詳しいことははぶきますが,原初の人間は動物や植物に対する畏敬の念をつよくもっていました。ですから,神に祈りをささげながら,必要最小限の動物や植物の命を「いただく」というのが基本でした。ですから,無闇にたくさん動物を捕獲したり,植物を栽培したりはしていませんでした。

 しかし,そこに動物や植物を私財として蓄えようとする人間が出現します。このときから人間の歴史はややこしくなってきます。貧富の差や争いごとや戦争は,ここからはじまります。それを回避するための智慧として人間は,祝祭の時空間をさまざまに工夫し,定期的に私財を不特定多数の人びとに贈与し,消尽することを考え出しました。こうして,できるだけみんなが平等に,そしてなにより諍いを起こすことなく生き延びていくための文化装置が工夫されました。それが,マルセル・モースの『贈与論』に展開されている世界の心象風景です。

 ところが,この贈与経済に風穴を開ける,とんでもない経済の考え方が登場します。乱暴な言い方になりますが,それが,資本主義経済というわけです。つまり,価値観がすっかり変わってしまいます。贈与経済の社会にあっては余分な備蓄は悪,資本主義経済にあっては備蓄は多いほど善にと,逆転してしまいます。ですから,人びとは競って備蓄をはじめます。その成れの果てが,こんにちのこの社会です。

 この資本主義の考え方こそ,人間の理性が狂気と化す第一歩だったのではないか,とわたしは考えています。

 ここでもう一度,事物の話に立ち返って考えてみたいとおもいます。
 たとえば,小麦の栽培について。自然存在であった小麦が事物と化すプロセスを考えてみましょう。自然存在としての小麦は,こぼれ落ちたタネが春には芽を出し,葉を繁らせ,花を咲かせ,稔ります。そして,やがてタネとなって地に落ちる,これが小麦の一生であり,世代から世代へとバトン・タッチをしていく,この繰り返しです。しかし,事物と化した小麦はそうではありません。人間が手をかけて生育させ,小麦が稔るとそれを収穫し,保存します。保存された小麦は必要に応じて取り出され,粉にされ,いろいろに加工されて,火で焼かれて(じつは,このことに重大な意味があるのですが,ここでは割愛),パンにされ,人間に食べられてしまいます。このプロセスは小麦の一生にとっては,まことに不本意なものです(この問題を解消するためにいろいろの儀礼が生まれますが,これも割愛)。つまり,自然存在の小麦が,人間の食糧としてパンにされてしまうこと,これが小麦の事物化ということの意味です。

 もうひとつの小麦の事物化についても考えておきましょう。小麦はやがて過剰に生産され,私財として備蓄されるようになります。この小麦はやがて商品として取引されるようになります。つまり,小麦がお金に替えられてしまうわけです。お金に替えられてしまった小麦は,こんどはお金としての運命をたどることになります。つまり,小麦の金融化です。このことを銘記しておいてください。

 小麦がお金になるということになりますと,こんどはもっと多くの小麦を生産しようということになります。こうして,生き延びるための小麦生産から,より多くのお金を得るために働くという事態が起こります。

 このとき,小麦栽培の意味の逆転が起こります。なぜか? 自分で満足すればいいだけの小麦の栽培は自分のコントロール下にあります。しかし,金儲けのための小麦の栽培となりますと,もはや主客が転倒してしまいます。つまり,小麦を事物として支配し,小麦の主人であったはずの人間が,より多くの小麦生産のために働かされる,つまり,小麦の奴隷と化してしまうということです。ということは,小麦を事物と化したつもりが,いつのまにか人間が小麦の事物になってしまっている,という奇妙なことが起こります。つまり,人間は小麦を事物にしたつもりでいたのに,いつのまにか人間もまた事物と化してしまっていた,というわけです。

 ここで想起してほしいことは,贈与経済です。贈与経済は,この事物化の悪循環を断ち切るための,まことに優れた文化装置だったのです。こうして人間は,一年に一回(あるいは数回),過剰となった事物を祝祭時空間をとおして贈与することによってみずからの事物化の問題を解消すると同時に,みんなが同じスタート・ラインに立って再出発する,という智慧を生み出していたのです。

 しかし,資本主義経済はこの人間の長年にわたる智慧の集積を破棄してしまい,まったく新しい経済の仕組みを編み出しました。しかも,それは「家政の賄い」に起源をもつ経済という語源からも大きく逸脱してしまうものでした。言ってしまえば,経済が勝手に一人歩きを始めてしまい,もはや人間によるコントロールはおろか,人間そのものが資本主義経済の事物と化してしまう,というとんでもない事態が出現してしまいました。つまり,資本家と労働者という階級分離の問題です。原則的には,いまも,この構造は少しも変わってはいません。しかも,資本家も労働者も,気がつけばみんな資本主義の事物と化してしまっている,というのが現状です。

 さて,いよいよ結論のところにさしかかってきました。
 ここまで書けば,もう,勘のいい人はピンときていることでしょう。
 アスリートの多くが事物化するのは,それは必然だ,と。

 さて,このさきを詳細に書く必要があるでしょうか。
 もう,すでに,相当に長くなってしまっていますので,この稿はこのあたりでひとまず終ることにしたいとおもいます。

 ただ,ひとことだけ。この資本主義社会にあっては,アスリートは事物と化して,金融化され,だれかに所有される以外には,ほとんど生きる術はない,ということです。そして,そのさきに待っているものは,たとえば,オリンピックはマネー・ゲームのアリーナにすぎない,ということです。

 これらのテーマについて,どのように書くか,またまた,宿題ができてしまいました。
 今回は,取り急ぎ,ここまで。(未完)。

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