このブログで,しつこく東京五輪招致運動をめぐる不満を書きつづけていたら,岩波の雑誌『世界』の編集者の目にとまり,原稿依頼がありました。いろいろの予定がびっしり詰まっているときでしたので,ほとんど時間がとれないまま,大急ぎで書きなぐって送りました。
そうしたら,枚数オーバーになるので,この話はやめておこうと思ってカットしたところを,ピン・ポイントで「これこれの内容のものがほしい」とみごとに指摘されてしまいました。さすがに切れ味鋭い編集者はすごいなぁ,と感心してしまいました。追加分の字数は「650字」でした。
しかし,いざ,書こうとしてパソコンに向かったら,わたしの頭の中では「6枚半」(400字)に切り替わっていて,せっせと書きつらねていました。書き終わって,やれやれと思ったら,なんと「650字」だったという記憶がよみがえり,唖然としてしまいました。まあ,いいや,ひとまずこのままの原稿を担当編集者に送信して,「なんとか圧縮して,指定枚数に収める努力をします」と書き加えておきました。すると,この追加部分が欲しかったので,このままでページ数を増やします,という返信。思わず飛び上がって喜びました。
よしっ,これでいい,と。この追加分が入ることによって,ちょうど,全体のバランスがよくなる。もし,あちこち圧縮するとなると,話がややこしくなってしまう・・・と危惧していたからです。このままが一番いい。それがわかってくれる担当編集者はすごい,と二度びっくり。その日の夜はすっかり安心して,熟睡することができました。
いまはもう,最終ゲラのチェックも終わり,あとは,10月8日発売を待つのみとなりました。
この原稿の下書き段階でチェックを入れてもらった友人たちも,とても面白い,と言ってくれていますので(しかも,追加原稿のない段階で),ぜひ,書店で手にしてみてください。
書いた内容は,ブログで書いたことの焼き直しはいやでしたので,少しだけ視点をずらして,『世界』の読者に読んでもらえるように頑張りました。タイトルは「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」──「魂ふり」から「商品」へ 変転するスポーツ,です。メイン・タイトルはわたしのつけたもの,サブ・タイトルは編集者の工夫。なるほど,このサブ・タイトルのつけ方もうまいものだ,とわたしが感心。いい編集者に出会うと,駄目な原稿も一味違ったものに化けてくれます。まことにもって,ありがたいかぎりです。
タイトルと,わたしがこのブログで書いてきたこととを重ね合わせれば,だいたいは推測していただけるのではないかと思います。オリンピック憲章からアマチュア規定が消えたあたりから,アスリートたちの金融化が急速に進み,同時に,IOC会長がサマランチに代わったあたりから,オリンピックもまたマネーゲームに狂奔することになり,もはやオリンピック・ムーブメントの理想はどこかに消えてしまったのではないか,という趣旨のことを書きました。
そして,担当編集者の求めた「スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか」を書き足しました。短い文章のなかに,わたしの言いたいことを凝縮して書いておきました。もし,まったく新しい思考を見いだすことができるとすれば,この部分です。この部分は,長年かけてジョルジュ・バタイユを読み込んできた,その成果(精華)がようやく実ったところでもあります。
スポーツの感動は「魂ふり」にある。アスリートたちはもとより,それを見ているわたしたちをも「魂ふり」を体験させる源泉は,サルがヒトに,そして,ヒトが人間にと進化してくる過程で,失ってきた動物性に「触れる」ところにある。そのためには,近代的合理主義や理性中心主義(科学的合理主義)から離脱して,マルセル・モースのいう「贈与」(ポトラッチ)を可能とする世界へと移行することが必要である。そのことが無意識のうちにできるアスリートとサポーターが出会うとき,至福のとき,すなわち「魂ふり」=「感動」に出会うことができる。100mのウサイン・ボルトや大相撲の朝青龍はそういう存在であった。だから,この人たちが絶好調で,最高のパフォーマンスを実現したときには,じつに多くの人が「魂ふり」に遭遇し,「感動」に打ち震えることになる。
この「魂ふり」,すなわち「感動」の場であるはずのスポーツや,オリンピックを金融化してしまい,切り売りをはじめるとき(サマランチ会長以後,とみに顕著),もはやそれはスポーツでも,オリンピックでもなくなってしまう。もはや,オリンピックのミッションは終わった,としかいいようがない。だから,東京五輪開催を機会に,スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか,原点に立ち返って,みんなで智恵を出し合うことを願ってやまない。
同時に,東京五輪開催によって,いま,日本が抱え込んでいる非常事態=フクシマを筆頭に,難題が山積しているその実態が隠蔽されることを危惧する,と。以下,省略。
というようなことを縷々,書きつらねてみました。
どうぞ,10月8日には書店に並ぶことになっていますので,『世界』11月号を手にとってご覧になってください。
なお,マルセル・モースやジョルジュ・バタイユについては,このブログでも扱っていますので,以前からの読者にはすでにおなじみの話になっているはずです。詳しくは,検索をかけて調べてみてください。とりわけ,バタイユについては,膨大な論考を積み上げてきていますので,ぜひ,参照してみてください。さらには,『スポートロジイ』(みやび出版,創刊号・2012年,第2号・2013年)にもブログからの転載したものがありますので,ご確認ください。
とりあえず,今日のところは,ここまで。
そうしたら,枚数オーバーになるので,この話はやめておこうと思ってカットしたところを,ピン・ポイントで「これこれの内容のものがほしい」とみごとに指摘されてしまいました。さすがに切れ味鋭い編集者はすごいなぁ,と感心してしまいました。追加分の字数は「650字」でした。
しかし,いざ,書こうとしてパソコンに向かったら,わたしの頭の中では「6枚半」(400字)に切り替わっていて,せっせと書きつらねていました。書き終わって,やれやれと思ったら,なんと「650字」だったという記憶がよみがえり,唖然としてしまいました。まあ,いいや,ひとまずこのままの原稿を担当編集者に送信して,「なんとか圧縮して,指定枚数に収める努力をします」と書き加えておきました。すると,この追加部分が欲しかったので,このままでページ数を増やします,という返信。思わず飛び上がって喜びました。
よしっ,これでいい,と。この追加分が入ることによって,ちょうど,全体のバランスがよくなる。もし,あちこち圧縮するとなると,話がややこしくなってしまう・・・と危惧していたからです。このままが一番いい。それがわかってくれる担当編集者はすごい,と二度びっくり。その日の夜はすっかり安心して,熟睡することができました。
いまはもう,最終ゲラのチェックも終わり,あとは,10月8日発売を待つのみとなりました。
この原稿の下書き段階でチェックを入れてもらった友人たちも,とても面白い,と言ってくれていますので(しかも,追加原稿のない段階で),ぜひ,書店で手にしてみてください。
書いた内容は,ブログで書いたことの焼き直しはいやでしたので,少しだけ視点をずらして,『世界』の読者に読んでもらえるように頑張りました。タイトルは「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」──「魂ふり」から「商品」へ 変転するスポーツ,です。メイン・タイトルはわたしのつけたもの,サブ・タイトルは編集者の工夫。なるほど,このサブ・タイトルのつけ方もうまいものだ,とわたしが感心。いい編集者に出会うと,駄目な原稿も一味違ったものに化けてくれます。まことにもって,ありがたいかぎりです。
タイトルと,わたしがこのブログで書いてきたこととを重ね合わせれば,だいたいは推測していただけるのではないかと思います。オリンピック憲章からアマチュア規定が消えたあたりから,アスリートたちの金融化が急速に進み,同時に,IOC会長がサマランチに代わったあたりから,オリンピックもまたマネーゲームに狂奔することになり,もはやオリンピック・ムーブメントの理想はどこかに消えてしまったのではないか,という趣旨のことを書きました。
そして,担当編集者の求めた「スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか」を書き足しました。短い文章のなかに,わたしの言いたいことを凝縮して書いておきました。もし,まったく新しい思考を見いだすことができるとすれば,この部分です。この部分は,長年かけてジョルジュ・バタイユを読み込んできた,その成果(精華)がようやく実ったところでもあります。
スポーツの感動は「魂ふり」にある。アスリートたちはもとより,それを見ているわたしたちをも「魂ふり」を体験させる源泉は,サルがヒトに,そして,ヒトが人間にと進化してくる過程で,失ってきた動物性に「触れる」ところにある。そのためには,近代的合理主義や理性中心主義(科学的合理主義)から離脱して,マルセル・モースのいう「贈与」(ポトラッチ)を可能とする世界へと移行することが必要である。そのことが無意識のうちにできるアスリートとサポーターが出会うとき,至福のとき,すなわち「魂ふり」=「感動」に出会うことができる。100mのウサイン・ボルトや大相撲の朝青龍はそういう存在であった。だから,この人たちが絶好調で,最高のパフォーマンスを実現したときには,じつに多くの人が「魂ふり」に遭遇し,「感動」に打ち震えることになる。
この「魂ふり」,すなわち「感動」の場であるはずのスポーツや,オリンピックを金融化してしまい,切り売りをはじめるとき(サマランチ会長以後,とみに顕著),もはやそれはスポーツでも,オリンピックでもなくなってしまう。もはや,オリンピックのミッションは終わった,としかいいようがない。だから,東京五輪開催を機会に,スポーツとはなにか,オリンピックとはなにか,原点に立ち返って,みんなで智恵を出し合うことを願ってやまない。
同時に,東京五輪開催によって,いま,日本が抱え込んでいる非常事態=フクシマを筆頭に,難題が山積しているその実態が隠蔽されることを危惧する,と。以下,省略。
というようなことを縷々,書きつらねてみました。
どうぞ,10月8日には書店に並ぶことになっていますので,『世界』11月号を手にとってご覧になってください。
なお,マルセル・モースやジョルジュ・バタイユについては,このブログでも扱っていますので,以前からの読者にはすでにおなじみの話になっているはずです。詳しくは,検索をかけて調べてみてください。とりわけ,バタイユについては,膨大な論考を積み上げてきていますので,ぜひ,参照してみてください。さらには,『スポートロジイ』(みやび出版,創刊号・2012年,第2号・2013年)にもブログからの転載したものがありますので,ご確認ください。
とりあえず,今日のところは,ここまで。
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