安倍首相はIOC総会の五輪招致の最後のプレゼンテーションで,フロアからの質問に対して,「フクシマは完全にコントロールされている」「フクシマ近海の海洋汚染もレベル以下である」「日本は世界一きびしい基準で安全につとめている」と数字まで挙げて,「フクシマはまったく問題ない」と言い切った。この首相プレゼンが五輪招致を決定づける要因のひとつだったとメディアはなんの臆面もなくつたえている。
安倍首相のこの発言は,わたしには,どう考えてみても「正気の沙汰」とは思えない。では,なぜ,福島の漁業は停止されたままなのか。なぜ,福島の農産物が・・・・,と多くの日本人は疑問をいだいたに違いない。『世界』10月号が特集を組んだように「イチエフ 未収束の危機──汚染水・高線量との苦闘」がいまもつづいているのである。イチエフで働いている作業員の人たちは,まさに,線量とにらめっこしながら,からだを張っているというのに・・・・。
安倍首相は国際社会に向かって,かくも堂々と,詭弁・虚言を並べ立てたのだ。そして,その発言をIOC委員たちの多くが信じた結果が「東京五輪」の決定だった。国内向けの選挙演説ではないのだ。それは選挙民が責任を負えばいい。しかし,IOC委員を誑(たぶら)かしたのだ。(※「誑かす」とはこんな漢字なのだ,と自分で変換してみて驚いた。)これから7年間,日本は「未収束のイチエフ」を,どのようにして「まったく問題ない」ことにしていくのか,とんでもなく大きな負債を背負うことになった。
こんな「正気の沙汰とも思えない」狂想曲が演奏されている現実を前にして,絶望の思いに打ちひしがれていたら,ふと思い当たることがあって,辺見庸の『しのびよる破局』を読みなおしてみた。この本がでたのが2009年。その内容は,わたしたちの多くが失見当識患者になりはててしまっていて,<わたし>を見失い,どこに向って進んでいけばいいのかもわからないまま,ただ,目の前のものに押し流されながら,さまよいつづけているのではないか,というもの。つまり,「わたしたちは狂っている」,と。しかも,その狂っていることに気づいていない。ここにこそ底知れない,恐るべき「破局」がしのびよっているのだ,と辺見庸は嘆く。
少しだけ,辺見のことばに耳を傾けてみよう。
かくして私たちは狂っている。そんな大それたことはだれも大声ではいったことがない。だから,そっと小声でいわなくてはならない。私たちはじつは狂(たぶ)れているのである。「私たち」といわれるのが迷惑なら,いいなおそう。この私は,かなり狂っている。自信をもって正気とはいいかねるのだ。私のばあい,傾向は,つらつらおもうに,統合失調よりも”失見当識”というのに近いようだ。見当識は,時間や場所など現在自身がおかれている状態をしっかり認識する能力で,いわば,オリエンテーションであり,体内の羅針盤みたいなもの。それをなくしたり,機能不全におちいったりすることが失見当識(ディスオリエンテーション)である。時間,空間,人物や周囲の状況,関係性をただしく認識する機能が,なんらかの原因で障害された状態だ。私は「いま」の時空間をただしく理解できていない。ディスオリエンテーションに,だからこそ,私はつよい関心をもっている。(P.209~210.)
辺見のことばは,わたしのこころに痛く突き刺さってくる。引用をはじめると,つぎからつぎへと書き写したくなってくる。が,そうもいかないので,最後の決めのことばを引いて終わりにしよう。
・・・・今日ただいまの破局とは,じつのところ,資本主義経済のそれだけではなく,私たち総員の内面におけるかつてないディスオリエンテーションと,深まる一方の荒(すさ)みの状態をもいうのだと私は確信している。(P.212.)
──中略。
テレビという,なにより資本主義の統合失調性を象徴する装置は,ごくまれに魂にひびく番組も流せば,同時にそれをあざ笑うような番組もたれ流すことにより,視聴者とともに陽気に荒みつつ,総員のディスオリエンテーション化をなんらの犯意もなく実現するのだ。(P.214.)
辺見庸に,ここまで現代の病根の核心部分をえぐり出されてしまうと,安倍首相に対して「正気の沙汰」とは思えない,などということはできなくなってしまう。辺見庸が,みずから「狂っている」と宣言するからには,このわたしも立派に狂っているとしかいいようがない。じゃあ,みんな狂っているのだから,みんな同じではないか,という議論になる。
しかし,そうではない。狂っていると自覚している狂者と,狂っていることを自覚していない狂者とは,まったく次元が異なる。かつて,ソクラテスが言った「無知の知」だ。賢者は,みずから無知であることを知っている。
辺見庸と安倍首相の違いはここにある。
失見当識(ディスオリエンテーション)ということを自覚しつつ,そこからの脱出の方法を模索する人と,失見当識などということを考えたこともないほんもののディスオリエンテーション患者との違いである。
突然,スポーツに興味をもったディスオリエンテーション患者が,オリエンテーリングというゲームに参加したような,とんでもないことが,これからはじまろうとしている。だれかが「あなたは狂っている」と教えなくてはならない。「裸の王様」のように。やはり,少年の純粋無垢のこころをわたしたち自身がとりもどす以外にないのだろうか。
安倍首相のこの発言は,わたしには,どう考えてみても「正気の沙汰」とは思えない。では,なぜ,福島の漁業は停止されたままなのか。なぜ,福島の農産物が・・・・,と多くの日本人は疑問をいだいたに違いない。『世界』10月号が特集を組んだように「イチエフ 未収束の危機──汚染水・高線量との苦闘」がいまもつづいているのである。イチエフで働いている作業員の人たちは,まさに,線量とにらめっこしながら,からだを張っているというのに・・・・。
安倍首相は国際社会に向かって,かくも堂々と,詭弁・虚言を並べ立てたのだ。そして,その発言をIOC委員たちの多くが信じた結果が「東京五輪」の決定だった。国内向けの選挙演説ではないのだ。それは選挙民が責任を負えばいい。しかし,IOC委員を誑(たぶら)かしたのだ。(※「誑かす」とはこんな漢字なのだ,と自分で変換してみて驚いた。)これから7年間,日本は「未収束のイチエフ」を,どのようにして「まったく問題ない」ことにしていくのか,とんでもなく大きな負債を背負うことになった。
こんな「正気の沙汰とも思えない」狂想曲が演奏されている現実を前にして,絶望の思いに打ちひしがれていたら,ふと思い当たることがあって,辺見庸の『しのびよる破局』を読みなおしてみた。この本がでたのが2009年。その内容は,わたしたちの多くが失見当識患者になりはててしまっていて,<わたし>を見失い,どこに向って進んでいけばいいのかもわからないまま,ただ,目の前のものに押し流されながら,さまよいつづけているのではないか,というもの。つまり,「わたしたちは狂っている」,と。しかも,その狂っていることに気づいていない。ここにこそ底知れない,恐るべき「破局」がしのびよっているのだ,と辺見庸は嘆く。
少しだけ,辺見のことばに耳を傾けてみよう。
かくして私たちは狂っている。そんな大それたことはだれも大声ではいったことがない。だから,そっと小声でいわなくてはならない。私たちはじつは狂(たぶ)れているのである。「私たち」といわれるのが迷惑なら,いいなおそう。この私は,かなり狂っている。自信をもって正気とはいいかねるのだ。私のばあい,傾向は,つらつらおもうに,統合失調よりも”失見当識”というのに近いようだ。見当識は,時間や場所など現在自身がおかれている状態をしっかり認識する能力で,いわば,オリエンテーションであり,体内の羅針盤みたいなもの。それをなくしたり,機能不全におちいったりすることが失見当識(ディスオリエンテーション)である。時間,空間,人物や周囲の状況,関係性をただしく認識する機能が,なんらかの原因で障害された状態だ。私は「いま」の時空間をただしく理解できていない。ディスオリエンテーションに,だからこそ,私はつよい関心をもっている。(P.209~210.)
辺見のことばは,わたしのこころに痛く突き刺さってくる。引用をはじめると,つぎからつぎへと書き写したくなってくる。が,そうもいかないので,最後の決めのことばを引いて終わりにしよう。
・・・・今日ただいまの破局とは,じつのところ,資本主義経済のそれだけではなく,私たち総員の内面におけるかつてないディスオリエンテーションと,深まる一方の荒(すさ)みの状態をもいうのだと私は確信している。(P.212.)
──中略。
テレビという,なにより資本主義の統合失調性を象徴する装置は,ごくまれに魂にひびく番組も流せば,同時にそれをあざ笑うような番組もたれ流すことにより,視聴者とともに陽気に荒みつつ,総員のディスオリエンテーション化をなんらの犯意もなく実現するのだ。(P.214.)
辺見庸に,ここまで現代の病根の核心部分をえぐり出されてしまうと,安倍首相に対して「正気の沙汰」とは思えない,などということはできなくなってしまう。辺見庸が,みずから「狂っている」と宣言するからには,このわたしも立派に狂っているとしかいいようがない。じゃあ,みんな狂っているのだから,みんな同じではないか,という議論になる。
しかし,そうではない。狂っていると自覚している狂者と,狂っていることを自覚していない狂者とは,まったく次元が異なる。かつて,ソクラテスが言った「無知の知」だ。賢者は,みずから無知であることを知っている。
辺見庸と安倍首相の違いはここにある。
失見当識(ディスオリエンテーション)ということを自覚しつつ,そこからの脱出の方法を模索する人と,失見当識などということを考えたこともないほんもののディスオリエンテーション患者との違いである。
突然,スポーツに興味をもったディスオリエンテーション患者が,オリエンテーリングというゲームに参加したような,とんでもないことが,これからはじまろうとしている。だれかが「あなたは狂っている」と教えなくてはならない。「裸の王様」のように。やはり,少年の純粋無垢のこころをわたしたち自身がとりもどす以外にないのだろうか。
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