最高裁の存在がぐらついているのでは?・・・,と今日(21日)の新聞をみて心配になってきた。「三権分立」ということの重要性とその意味について,戦後民主主義教育のはじまったばかりの中学生のとき(1950年~52年)に教えられた。そして,司法の独立ということがいかに重要であるかということを,そのときの社会科の先生は情熱をこめて語ってくれた。鈴木栄二先生。その姿がいまも彷彿とする。
一票の不平等について,高裁判決では「違憲」「選挙無効」の判断が続出して,いよいよわたしたちの望む「一票の不平等」が解消される方向に進むのだと確信していたのに,最高裁では一転して「違憲状態」に後退してしまった。昨年の衆院選の「一票の不平等」をこのまま持続させてはならない,と「選挙無効」を訴えた二つの弁護士グループの最高裁での判断の結果に,わたしは愕然としてしまった。まさか,の後退である。これでは,またまた「一票の不平等」の解消が遠のいてしまったと,わたしだけではなく多くの国民が失望したに違いない。とうとう,最後の砦として期待していた司法まで・・・・,地に堕ちたものだ・・・・と。
ショックである。昨年の衆院選が,これで正当化されてしまった。そうなると,ずるずるとこのままの状態がつづくことになってしまうのか,と思うと気が遠くなってしまう。一票の不平等は,もう,ずいぶん前から指摘され,議論され,裁判でも,何回も奇怪しいのではないかと訴えられ,その判断が求められてきた。しかし,「違憲状態」という判断が長くつづき,ようやく昨年になって,国会の無責任を業を煮やした高裁が「違憲」「無効」という判断をくだすようになってきた。それだけに,今回の最高裁の判断ですべての決着がつく,とわたしは楽しみにしてきた。しかし,そうはならなかった。残念。というより,情けない。最高裁の良識というのは,この程度のものでしかなっかたのか,と知って。
もとをたどれば,国会の怠慢,以外のなにものでもない。国会議員の利害だけが最優先されて,国民の意志は無視されてきた。つまり,国会議員によって国民の基本的人権が無視されてきたのである。もっと言ってしまえば,わたしたち国民は一人の人間とは認められない,と国会議員に宣告されてきたのだ。こんな馬鹿げたことが,もう,何年もつづいているのである。都会に住むわたしたちは,一人前の人間として扱われてはいないのである。
今日の新聞によれば,つぎのようである。
「昨年衆院選の一票の最大格差は,千葉4区と高知3区の2.43倍で,09年選挙の2.30倍から拡大。今年3月の高裁判決は,違憲・無効2件,違憲12件,違憲状態2件と判断が分かれた。」
わたしの1票が,千葉4区と高知3区では「2.43票」になる,という。そんなバカな話があってたまるか,とふつうの神経の持ち主なら必ずそう思うに違いない。しかし,これが現実に昨年の衆院選では行われたのである。にもかかわらず,最高裁は,これを「違憲」とは判断せず,「違憲状態」としてはぐらかした。
小学生でもわかるのに・・・・。なぜ? 最高裁の「14裁判官」は小学生以下の判断しかできなかった,というこの事実をわたしたちは重く受け止めなくてはならない。それでも救いがまったくないわけではない。14裁判官のうち,3人の裁判官は「違憲」であると判断している。わかる人にはわかるのだ。にもかかわらず,わからない人にはわからないのだ。あるいは,わからないふりをしているだけかも。こんな単純な理屈がわからないはずはない。どこかで裁判官としての判断がゆがめられる力学がはたらいているに違いない。そして,そういう「力学」(「圧力」ともいう)に屈してしまう裁判官が最高裁に存在しているということは,われわれ国民にとっては不幸である。ならば,われわれの手で糺さなくてはならない。
したがって,次回の選挙では,最高裁裁判官の信任投票で,わたしたちの意志をしっかりと表明することだ。適当な,無責任な妥協をしたと思われる裁判官には「×」をつけるべく,今日の新聞に載っている「大法廷14裁判官の判断」という一覧表を切り抜いて保存しておこう。そして,つぎの選挙のときには,きちんとわたしたちの意志を表明することにしよう。
このことをわたしたちはあまりにないがしろにしてきたのではなかったか。
最後のよりどころである最高裁裁判官の良識がぐらついてしまっては困る。われわれ国民がその姿勢を糾すべく,きびしく投票行動で示す以外にはない。わたしたちは「主権在民」という憲法のもとに生きているという自覚をもっともっと強くもつべきであるし,その責任をまっとうすべきではないか,と自省を兼ねて表明しておきたい。
やはり,最後はわたしたち自身の問題なのだ。
こういう,わたしたちの意に反する最高裁判決を導き出したのも,国会議員がてきとうに問題を「先送り」して平気でいるのも,すべてはわたしたちの責任なのだ。その責任をまっとうできる唯一のチャンスが選挙なのだ。選挙をとおしてわたしたちの意志表明をする以外には方法はないのである。そのことを肝に銘ずべし。
ということで,今日はここまで。
一票の不平等について,高裁判決では「違憲」「選挙無効」の判断が続出して,いよいよわたしたちの望む「一票の不平等」が解消される方向に進むのだと確信していたのに,最高裁では一転して「違憲状態」に後退してしまった。昨年の衆院選の「一票の不平等」をこのまま持続させてはならない,と「選挙無効」を訴えた二つの弁護士グループの最高裁での判断の結果に,わたしは愕然としてしまった。まさか,の後退である。これでは,またまた「一票の不平等」の解消が遠のいてしまったと,わたしだけではなく多くの国民が失望したに違いない。とうとう,最後の砦として期待していた司法まで・・・・,地に堕ちたものだ・・・・と。
ショックである。昨年の衆院選が,これで正当化されてしまった。そうなると,ずるずるとこのままの状態がつづくことになってしまうのか,と思うと気が遠くなってしまう。一票の不平等は,もう,ずいぶん前から指摘され,議論され,裁判でも,何回も奇怪しいのではないかと訴えられ,その判断が求められてきた。しかし,「違憲状態」という判断が長くつづき,ようやく昨年になって,国会の無責任を業を煮やした高裁が「違憲」「無効」という判断をくだすようになってきた。それだけに,今回の最高裁の判断ですべての決着がつく,とわたしは楽しみにしてきた。しかし,そうはならなかった。残念。というより,情けない。最高裁の良識というのは,この程度のものでしかなっかたのか,と知って。
もとをたどれば,国会の怠慢,以外のなにものでもない。国会議員の利害だけが最優先されて,国民の意志は無視されてきた。つまり,国会議員によって国民の基本的人権が無視されてきたのである。もっと言ってしまえば,わたしたち国民は一人の人間とは認められない,と国会議員に宣告されてきたのだ。こんな馬鹿げたことが,もう,何年もつづいているのである。都会に住むわたしたちは,一人前の人間として扱われてはいないのである。
今日の新聞によれば,つぎのようである。
「昨年衆院選の一票の最大格差は,千葉4区と高知3区の2.43倍で,09年選挙の2.30倍から拡大。今年3月の高裁判決は,違憲・無効2件,違憲12件,違憲状態2件と判断が分かれた。」
わたしの1票が,千葉4区と高知3区では「2.43票」になる,という。そんなバカな話があってたまるか,とふつうの神経の持ち主なら必ずそう思うに違いない。しかし,これが現実に昨年の衆院選では行われたのである。にもかかわらず,最高裁は,これを「違憲」とは判断せず,「違憲状態」としてはぐらかした。
小学生でもわかるのに・・・・。なぜ? 最高裁の「14裁判官」は小学生以下の判断しかできなかった,というこの事実をわたしたちは重く受け止めなくてはならない。それでも救いがまったくないわけではない。14裁判官のうち,3人の裁判官は「違憲」であると判断している。わかる人にはわかるのだ。にもかかわらず,わからない人にはわからないのだ。あるいは,わからないふりをしているだけかも。こんな単純な理屈がわからないはずはない。どこかで裁判官としての判断がゆがめられる力学がはたらいているに違いない。そして,そういう「力学」(「圧力」ともいう)に屈してしまう裁判官が最高裁に存在しているということは,われわれ国民にとっては不幸である。ならば,われわれの手で糺さなくてはならない。
したがって,次回の選挙では,最高裁裁判官の信任投票で,わたしたちの意志をしっかりと表明することだ。適当な,無責任な妥協をしたと思われる裁判官には「×」をつけるべく,今日の新聞に載っている「大法廷14裁判官の判断」という一覧表を切り抜いて保存しておこう。そして,つぎの選挙のときには,きちんとわたしたちの意志を表明することにしよう。
このことをわたしたちはあまりにないがしろにしてきたのではなかったか。
最後のよりどころである最高裁裁判官の良識がぐらついてしまっては困る。われわれ国民がその姿勢を糾すべく,きびしく投票行動で示す以外にはない。わたしたちは「主権在民」という憲法のもとに生きているという自覚をもっともっと強くもつべきであるし,その責任をまっとうすべきではないか,と自省を兼ねて表明しておきたい。
やはり,最後はわたしたち自身の問題なのだ。
こういう,わたしたちの意に反する最高裁判決を導き出したのも,国会議員がてきとうに問題を「先送り」して平気でいるのも,すべてはわたしたちの責任なのだ。その責任をまっとうできる唯一のチャンスが選挙なのだ。選挙をとおしてわたしたちの意志表明をする以外には方法はないのである。そのことを肝に銘ずべし。
ということで,今日はここまで。
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