竹内敏晴さんが亡くなられて,もう4年が経過している。竹内さんの年譜によれば,2009年8月29日に東京・武蔵野芸術劇場で生涯最後の構成・演出作品「からだ2009 オープンレッスン八月の祝祭」を上演。9月7日,膀胱癌のため名古屋の病院で死去する,とある。ああ,もう,あれから4年も経過しているとはとても思えない。いまでも,にこやかな笑顔で「稲垣さん」と言って声をかけていただけそうな錯覚に陥る。
わたしは,8月29日の生涯最後の上演に誘ってくれる人がいて,一緒にでかけている。そして,幕開けの,車椅子に座ったままの竹内さんのご挨拶を,なんとも悔しい思いで聞いている。なぜなら,声に張りがなかったからだ。竹内さんの声は「生きて」いた。感情豊かに,おのずから声に強弱が表出し,心地よい間の取り方が,わたしたちのこころをとらえて,ぐいぐいとひきつけていく。しかし,残念ながら,その声ではなかった。すでに,違う声になっていた。ああ,これはいけない・・・・と直感した。
上演が終わったあと,ロビーで車椅子に座って竹内さんが,一人ひとり握手しながらことばを交わしていらっしゃる。いつか,長い列ができている。わたしたちもその列のうしろに並んで順番を待った。ずいぶん時間がかかったが,わたしも手を握りながら,例の「竹内さんを囲む会」をこれからもつづけたいので,お元気になられるのを待っています」と声をかけた。竹内さんは,にっこり笑って,「ぼくも楽しみにしているよ」と仰った。ああ,まだまだ大丈夫だ,とそのときは思った。
が,しかし,事態は急転直下。この上演から一週間後には他界されてしまった。あっけないお別れだった。お話をうかがいたいことは山ほどあった。竹内さんが見据えておられた「からだ」は,わたしが必死になって追っていた「からだ」とは,まったく次元の違うところにあった。だから,なぜ,そうなるのか,深いところのお話を伺いたかった。マルチン・ブーバー,メルロ・ポンティ,ジョルジュ・バタイユ,道元,禅,道教,などなど。話がかみ合いそうでいて,じつは,かみ合ってはいない,そのズレがもどかしかった。なぜ,そういうことになってしまうのか。もちろん,その原因はわたしの勉強不足と経験不足にある。
竹内さんは,つねに,現場を重視された。実践をとおしてみずからの思考を掘り下げ,その上でその思想・哲学的根拠を模索されていた。だから,いかなる思想・哲学であろうとも,みずからの「からだ」と共振・共鳴するところを,徹底してみずからのものとして咀嚼し,血肉化できたもののみを信じておられた。竹内さんにとって,他人の評価などはどうでもよかった。みずからの「からだ」をとおして,わがものとしたものに絶対的な「信」を置いていた。その意味で,不動の境地を切り開いておられた。だからこそ,その世界にもっともっと接近してみたかった。
が,それも叶わぬままのお別れだった。残念の極みである。
ことしの夏だったろうか,藤原書店から原稿の依頼が入った。全4巻のセレクション・竹内敏晴の「からだと思想」を刊行することになったので,それにともなって「月報」を発行したい。そこに短いエッセイを寄せてほしい,と。
竹内さんにはずいぶんお世話になっている(その詳細ははぶくが)。その上,セレクションの「月報」に原稿を書かせていただけるなんて,まことに光栄なこと。喜んで書かせていただいた。いま,書店に行けば並んでいるので,手にとっていただければと思う。セレクションの第2巻「したくない」という自由,にわたしの書いたエッセイが掲載された「月報2」が挟まっているはず。
エッセイのタイトルは,竹内さんの大音声「にんげんっ!」に震撼。
竹内さんが全体重をかけて追求された「からだ」論が,ひろく巷間に理解されるようになるには,まだ,しばらくの時間が必要だろうと思う。しかし,間違いなく,時代が追いつくときがくる,とわたしは確信している。そういうお仕事をなさった方だと,その程度にはわたしにも理解できる。
セレクション・竹内敏晴の「からだと思想」全4巻が刊行された暁には,わたしたちの研究会でも「竹内敏晴さんをしのぶ会」をもちたいと思う。そのときにはちょっとした趣向をこらしてみたいと思う。
わたしは,8月29日の生涯最後の上演に誘ってくれる人がいて,一緒にでかけている。そして,幕開けの,車椅子に座ったままの竹内さんのご挨拶を,なんとも悔しい思いで聞いている。なぜなら,声に張りがなかったからだ。竹内さんの声は「生きて」いた。感情豊かに,おのずから声に強弱が表出し,心地よい間の取り方が,わたしたちのこころをとらえて,ぐいぐいとひきつけていく。しかし,残念ながら,その声ではなかった。すでに,違う声になっていた。ああ,これはいけない・・・・と直感した。
上演が終わったあと,ロビーで車椅子に座って竹内さんが,一人ひとり握手しながらことばを交わしていらっしゃる。いつか,長い列ができている。わたしたちもその列のうしろに並んで順番を待った。ずいぶん時間がかかったが,わたしも手を握りながら,例の「竹内さんを囲む会」をこれからもつづけたいので,お元気になられるのを待っています」と声をかけた。竹内さんは,にっこり笑って,「ぼくも楽しみにしているよ」と仰った。ああ,まだまだ大丈夫だ,とそのときは思った。
が,しかし,事態は急転直下。この上演から一週間後には他界されてしまった。あっけないお別れだった。お話をうかがいたいことは山ほどあった。竹内さんが見据えておられた「からだ」は,わたしが必死になって追っていた「からだ」とは,まったく次元の違うところにあった。だから,なぜ,そうなるのか,深いところのお話を伺いたかった。マルチン・ブーバー,メルロ・ポンティ,ジョルジュ・バタイユ,道元,禅,道教,などなど。話がかみ合いそうでいて,じつは,かみ合ってはいない,そのズレがもどかしかった。なぜ,そういうことになってしまうのか。もちろん,その原因はわたしの勉強不足と経験不足にある。
竹内さんは,つねに,現場を重視された。実践をとおしてみずからの思考を掘り下げ,その上でその思想・哲学的根拠を模索されていた。だから,いかなる思想・哲学であろうとも,みずからの「からだ」と共振・共鳴するところを,徹底してみずからのものとして咀嚼し,血肉化できたもののみを信じておられた。竹内さんにとって,他人の評価などはどうでもよかった。みずからの「からだ」をとおして,わがものとしたものに絶対的な「信」を置いていた。その意味で,不動の境地を切り開いておられた。だからこそ,その世界にもっともっと接近してみたかった。
が,それも叶わぬままのお別れだった。残念の極みである。
ことしの夏だったろうか,藤原書店から原稿の依頼が入った。全4巻のセレクション・竹内敏晴の「からだと思想」を刊行することになったので,それにともなって「月報」を発行したい。そこに短いエッセイを寄せてほしい,と。
竹内さんにはずいぶんお世話になっている(その詳細ははぶくが)。その上,セレクションの「月報」に原稿を書かせていただけるなんて,まことに光栄なこと。喜んで書かせていただいた。いま,書店に行けば並んでいるので,手にとっていただければと思う。セレクションの第2巻「したくない」という自由,にわたしの書いたエッセイが掲載された「月報2」が挟まっているはず。
エッセイのタイトルは,竹内さんの大音声「にんげんっ!」に震撼。
竹内さんが全体重をかけて追求された「からだ」論が,ひろく巷間に理解されるようになるには,まだ,しばらくの時間が必要だろうと思う。しかし,間違いなく,時代が追いつくときがくる,とわたしは確信している。そういうお仕事をなさった方だと,その程度にはわたしにも理解できる。
セレクション・竹内敏晴の「からだと思想」全4巻が刊行された暁には,わたしたちの研究会でも「竹内敏晴さんをしのぶ会」をもちたいと思う。そのときにはちょっとした趣向をこらしてみたいと思う。
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