然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔(ざんげ)すべし,〇〇(いんも)するとき前仏(ぜんぶつ)懺悔(ざんげ)の功徳力(くどくりき)我(われ)を〇(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ,此(この)功徳(くどく)能(よ)く無〇(むげ)の浄信(じょうしん)精進(しょうじん)を生長(しょうちょう)せしむるなり,浄信(じょうしん)一現(いちげん)するとき,自〇(じた)同(おなじ)く転(てん)ぜらるるなり,其(その)利益(りやく)普(あま)ねく情非情(じょうひじょう)に蒙(こう)ぶらしむ。
〇印のところは下の経文の写真でご確認ください。〇印だらけで申し訳ありません。ワープロソフトのレベルを上げればいいのですが,ふだんの文章を書くには必要がないので,ついつい,さきのばしにしています。ご寛容のほどを。
さて,しばらくお休みしていましたが,第8節の読解を試みてみたいとおもいます。
ところが,この第8節はことのほか難解なことばがいくつも並んでいて(〇印のところ),いまのわたしの力量では読解ができません。そこで,「修証義」の解説本の助けを借りることにします。何種類も解説本は出ていますので,自分に一番合っている本を選ぶといいとおもいます。わたしにとっては,一番わかりやすい解説をしてくれているとおもわれる『道元禅師のことば「修証義」入門』(有福孝岳著,法蔵館,2010年刊)が,とてもありがたい導師の役割をはたしてくれています。ので,このテクストに助けてもらいながらの私的読解に挑戦してみたいとおもいます。
誠心(じょうしん)とは,わたしたちがふつうに誠心誠意と言うときの「誠心」のことです。嘘偽りのないまことのこころのことです。あるいは,構えたところのないあるがままのまっさらなこころのことです。このまことのこころをそのままさらけ出して,一心不乱に仏の前で(前仏に)懺悔しなさい,と説いています。「いんもするとき」とは,まことのこころで懺悔することができたとき,というほどの意味と理解しておきましょう。
そういう懺悔がきちんとできたときには,「前仏懺悔(ぜんぶつざんげ)」がもっている功徳の力が,わたしの中に入り込んできて,わたしのこころをさらに「清浄(しょうじょう)」にしてくれます。
この功徳の力は素晴らしいはたらきをするものですので,「浄信精進」をますます生長させてくれるのです,とつづきます。ここでいう「浄信精進」については,さきの参考書を頼ることにしましょう。そこには,つぎのような解説がなされています。
「浄信」の「信」とは,仏教では「心澄浄」のことを意味するのだそうです。つまり,「山奥の清らかな水が澄みきっていて川の底まで見えるように,心が清浄で汚れないことを意味します」,と。そして,さらに,『大智度論』では「仏法の大海は信を能入となす」といわれていて,「禅門では,信は仏道入門の要心であり,また究極的な悟りの境地(証心)ともいわれます」とのことです。
ということは,「信」を浄らかにすることが,まずは仏道に入るための大前提であり,それがそのまま究極的な「悟り」の境地につながっていく,と考えられているようです。だとすると,「浄信精進」とは仏道に入る者にとっては,なにものにも代えがたい,もっとも重要なポイントになるというわけです。つまり,澄みきった浄らかな心を片時も忘れることなく「精進」する,そのこころを「前仏懺悔」が導き出してくれ,さらに生長させてくれるのだ,というわけです。
そうして「浄信一現」(じょうしんいちげん)するとき,つまり「浄信」が立ち現れるとき,自他の区別がなくなり,他者をも同じ「浄信」に導き入れることになるのだ,と説いています。そして,そのご利益はありとあらゆるものに波及していく,というわけです。ここにいたったとき,お釈迦さまが悟りを開いたときと同じ情況ができあがるのだ,といいます。ここでいう「情非情」とは,情のあるもの(有情)=動植物と情のないもの(非情)=鉱物をふくめた「世界の万物」のことを意味します。ですから,ひとたび「浄信」が立ち現れるやいなや,自己と自己をとりまく環境世界(世界の万物=情非情)とがひとつになって,「法喜禅悦」(ほっきぜんえつ・仏道禅法に対して喜悦の信心をもつこと)に浸り,その恩恵に浴することができるようになる,というわけです。
では,最後に,この第8節の私的読みくだし文を提示しておくことにしましょう。
そういうことですので(第7節までの教え),まっさらなまことのこころ(誠心)になって,仏の前で懺悔をしなさい。それがうまくできれば,その功徳が現れて,自己のこころがさらに清浄になっていきますよ。この功徳の恩恵に浴しながらさらに精進を重ねていけば,なにものにも遮られることのない「浄信」を生長させることができますよ。そして,ひとたび「浄信」が立ち現れると,自他の区別がなくなり,世界の万物がみんなひとつになり,共振・共鳴する「法喜禅悦」の境地に達することができますよ。そこは,もう,お釈迦さまが悟りの境地に達したときと同じ世界ですよ。
〇印のところは下の経文の写真でご確認ください。〇印だらけで申し訳ありません。ワープロソフトのレベルを上げればいいのですが,ふだんの文章を書くには必要がないので,ついつい,さきのばしにしています。ご寛容のほどを。
ところが,この第8節はことのほか難解なことばがいくつも並んでいて(〇印のところ),いまのわたしの力量では読解ができません。そこで,「修証義」の解説本の助けを借りることにします。何種類も解説本は出ていますので,自分に一番合っている本を選ぶといいとおもいます。わたしにとっては,一番わかりやすい解説をしてくれているとおもわれる『道元禅師のことば「修証義」入門』(有福孝岳著,法蔵館,2010年刊)が,とてもありがたい導師の役割をはたしてくれています。ので,このテクストに助けてもらいながらの私的読解に挑戦してみたいとおもいます。
誠心(じょうしん)とは,わたしたちがふつうに誠心誠意と言うときの「誠心」のことです。嘘偽りのないまことのこころのことです。あるいは,構えたところのないあるがままのまっさらなこころのことです。このまことのこころをそのままさらけ出して,一心不乱に仏の前で(前仏に)懺悔しなさい,と説いています。「いんもするとき」とは,まことのこころで懺悔することができたとき,というほどの意味と理解しておきましょう。
そういう懺悔がきちんとできたときには,「前仏懺悔(ぜんぶつざんげ)」がもっている功徳の力が,わたしの中に入り込んできて,わたしのこころをさらに「清浄(しょうじょう)」にしてくれます。
この功徳の力は素晴らしいはたらきをするものですので,「浄信精進」をますます生長させてくれるのです,とつづきます。ここでいう「浄信精進」については,さきの参考書を頼ることにしましょう。そこには,つぎのような解説がなされています。
「浄信」の「信」とは,仏教では「心澄浄」のことを意味するのだそうです。つまり,「山奥の清らかな水が澄みきっていて川の底まで見えるように,心が清浄で汚れないことを意味します」,と。そして,さらに,『大智度論』では「仏法の大海は信を能入となす」といわれていて,「禅門では,信は仏道入門の要心であり,また究極的な悟りの境地(証心)ともいわれます」とのことです。
ということは,「信」を浄らかにすることが,まずは仏道に入るための大前提であり,それがそのまま究極的な「悟り」の境地につながっていく,と考えられているようです。だとすると,「浄信精進」とは仏道に入る者にとっては,なにものにも代えがたい,もっとも重要なポイントになるというわけです。つまり,澄みきった浄らかな心を片時も忘れることなく「精進」する,そのこころを「前仏懺悔」が導き出してくれ,さらに生長させてくれるのだ,というわけです。
そうして「浄信一現」(じょうしんいちげん)するとき,つまり「浄信」が立ち現れるとき,自他の区別がなくなり,他者をも同じ「浄信」に導き入れることになるのだ,と説いています。そして,そのご利益はありとあらゆるものに波及していく,というわけです。ここにいたったとき,お釈迦さまが悟りを開いたときと同じ情況ができあがるのだ,といいます。ここでいう「情非情」とは,情のあるもの(有情)=動植物と情のないもの(非情)=鉱物をふくめた「世界の万物」のことを意味します。ですから,ひとたび「浄信」が立ち現れるやいなや,自己と自己をとりまく環境世界(世界の万物=情非情)とがひとつになって,「法喜禅悦」(ほっきぜんえつ・仏道禅法に対して喜悦の信心をもつこと)に浸り,その恩恵に浴することができるようになる,というわけです。
では,最後に,この第8節の私的読みくだし文を提示しておくことにしましょう。
そういうことですので(第7節までの教え),まっさらなまことのこころ(誠心)になって,仏の前で懺悔をしなさい。それがうまくできれば,その功徳が現れて,自己のこころがさらに清浄になっていきますよ。この功徳の恩恵に浴しながらさらに精進を重ねていけば,なにものにも遮られることのない「浄信」を生長させることができますよ。そして,ひとたび「浄信」が立ち現れると,自他の区別がなくなり,世界の万物がみんなひとつになり,共振・共鳴する「法喜禅悦」の境地に達することができますよ。そこは,もう,お釈迦さまが悟りの境地に達したときと同じ世界ですよ。
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