2015年4月11日土曜日

小六児童が蹴ったボールによる交通事故に親の賠償責任はあるか。

 昨夜のNHKニュースで,「小六児童が蹴ったサッカーボールによる交通事故に親の賠償責任」が問われた裁判に対して,最高裁はその責任はないと判断した,と報じられた。短いニュースだったので,ことの真相がよくわからないまま,変な話だなぁとおもっていた。今日になって,新聞やネットに流れている情報を集めてみたら,こんな馬鹿げた事件が,10年以上も争われていたということがわかり,呆気にとられてしまった。日本の司法も穴だらけだと知って・・・・。

 その理由はいくつもある。

 まずは,事件の全体像を明らかにしておこう。小六児童が学校の校庭で,放課後,サッカーのゴールに向かってシュートを打つ練習をしていたら,そのボールが校庭の柵を超えて道路に飛び出し,たまたまバイクで通りがかった80歳の男性がそれを避けようとして転倒し,骨折。それが原因で,惚けがでて,1年半後に肺炎を起こして死亡した,という。この経過について,NHKは手抜きをしたために,さも,小六児童の一方的な過失であるかのように聞こえ,だから親の監督責任が問われた,と聞こえてきてしまった。だから,変な話だなぁ,と。しかも,こんなことが10年余も争われてきた,というのだからなおさらである。

 もう少し踏み込んで考えてみよう。
 まずは,学校の校庭でサッカーのゴールに向かってシュートの練習をしていた,という事実を飛び越えて,いきなり親の監視責任が問われることの不思議だ。シュートの練習をしていれば,そのボールが大きく外れて,遠くまで飛ぶことはだれにも予測ができたはずである。そのボールが校庭の外の道路まで転がり出た・・・それが引き金になって死亡事故につながった。これが親の責任だ,と問われたのである。

 ここには三つの要素がある。
 一つは,学校の校庭という場所の問題。
 二つには,骨折事故。
 三つには,親の監視責任。

 サッカー・ゴールの後ろには1.3mの高さの門扉につながるフェンスがあっただけだという。だとしたら,ボールが校庭の外に飛び出すのは日常茶飯のことだった,と考えられる。それでも事故もなくこれまできていたはず。つまり,あまり交通量の多くない,田舎の道路だったのだろう。テレビでちらっと写った映像の印象では,校庭の外側には小さな排水路があって,その外側に道路が平行していたようにおもう。だから,学校も教育委員会も,これといった対策を必要としないと判断し,そのままになっていたのだろう。

 しかし,ここにサッカー・ゴールをセットするのであれば,やはり,ボールが外にでないように防護柵が必要なのはだれの眼にも明らかだ。子どもたちは,いちいち,外に出てしまったボールを拾いに,門扉をとおってでていった・・・これが日常だった。

 この情況のなかで起きた事故。これを子どもの過失と決めつけ,親の責任だ,と訴えた遺族の発想に,わたしは著しい違和感を覚える。訴えるべきは,学校の管理責任ではないのか。しかも,何年にもわたって事故が起きていないところで起きた事故。それを裁判にまで持ち込むことになった経緯が,たぶん,その裏にはあるのだろう。でなければ,学校ではなく,親を訴えるという異常性が理解できない。

 それにしても,変な話である。こういうご時世になってしまったんだなぁ,とあらためて考えこんでしまう。のどかな田舎の風景がいっぺんに殺伐とした砂漠にみえてくる。人のこころの崩壊,家族間の関係の崩壊,社会の崩壊・・・・日本国の崩壊。その根がこんなところにも見え隠れしているようにおもう。

 こんな「できごと」が,10年余も裁判所で争われていた,という事実。しかも,これまでの判例では,この種の事件はほとんど無条件に親の責任とされてきた,というのだ。だから,「親の責任なし」とされた最高裁の判決は画期的なできごとだった,という。いささか,あきれてしまう。

 最高裁は「日常的な行為のなかで起きた,予想できない事故については賠償責任はない」と言い渡した。これが「画期的だ」というのだから,司法とはいったいどういことなのだろう,と大いに首をひねってしまう。その背景には,被害者擁護の精神が法の建て前になっていて,この事件にかかわる民法にも,その精神に則った法律が規定されているのだ,という。

 しかし,それにしても,事件の内実を少し考えてみれば,だれの眼にもかんたんに理解できることではないのか。それを無視して,定められた法律の枠のなかでのみ判断がくだされる。この民法が定められた時代といまとではまったく異なる時代に突入しているというのに・・・・。なのに,法律はそのまま・・・・。こういう生身の,血のかよった人間の生き方を無視した法の形式主義こそが,もう一度,検討されなくてはならない問題ではないのか。

 訴えられて少年(6歳)は,それから10年余の間,どんな思いで生きてきたのだろうか。いまは高校生になっているはず。この予期せざる「加害者」というレッテルを貼られ,そのレッテルといかに葛藤しながら生きてきたのだろうか,と想像するとわたしはむしろこちらの側に立ってしまう。そして,よくぞ最高裁まで持ち込んだ,その精神力に敬意を表したい。これで晴れて少年は「加害者」のレッテルをはがすことができる。しかし,この10年余という時間は帰ってはこない。そして思うことは,「被害者」遺族の「こころ」の有りようや人生観に疑問を感じてしまう。

 80歳を越えた老人の骨折は命取りになる,とはむかしから言われてきたことだ。その老人がバイクに乗って移動していた(田舎では仕方のないことかもしれない),ということもいささか疑問ではある。しかも,骨折がきっかけになって「惚け」が発症した,という経過を考えてみても・・・・。

 これから,スポーツにかかわる事故は増え続けるだろう。そして,それにかかわる係争事件もますます多くなるだろう。若年性痴呆症も増えているという。しかも,責任はとらない。すべて他人のせいにする。それで当たり前だとおもっている人間が増えている。そういうご時世に,だれがしてしまったのか,そういう新人類をだれが生みだしてしまったのか。その思いは際限なく広がっていく。いま,わたしたちは,そういう時代を生きているのだ,ということを再認識させる事件であり,判決であった。

 不思議な時代になったものである。まさか,こんな時代を生きることになるとは夢にもおもっていなかった・・・・。人心の乱れは政治の腐敗に由来する。いまこそ政治家の責任を問うときだ。厳しいまなざしで,政治家の言動をチェックしていくこと,そして,それを選挙につなげること。そこからはじめるしか方法はないのだ。残念ながら・・・・。

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