わたくしごとながら,娘が沖縄に住むようになってかれこれ20年近くになる。それがきっかけとなって,わたしの眼もいつしか沖縄に向くことが多くなった。そして,沖縄を訪れるたびに新しい発見があって,かなりの情報通になったつもりでいた。しかし,それはとんでもない間違いであったことを知る。
その理由は,沖縄2紙,つまり,『琉球新報』と『沖縄タイムス』のネット購読者となってみたら,日々,新しい沖縄の日常を知ることになり,わたしの沖縄認識がまったく表面的なものでしかなかったことが明らかになったからである。昨年の4月から購読をはじめたので,ちょうど一年になる。その間に,沖縄という土地・文化のもつ懐の深さと人間性が,本土のそれとは相当に異なるものである,ということをじっくりと学ぶことになった。それは驚くべき経験でもあった。
ひとくちで言ってしまえば,沖縄には「人間が住んでいる」ということだ。つまり,生身の血も涙もある,人情味豊かな人間関係が,まだ生き生きと躍動している,という印象である。そして,その人間の生きざまを沖縄2紙はしっかりと報道している。それに引き換え,本土のわれわれは血も涙も枯れはてた「モノ化」してしまった人間があまりにも多くなってしまった,ということだ。その上,ジャーナリズムが形骸化してしまい,ことなかれ主義に逃避してしまったから,なおさらのことだ。この違いは天と地ほどもある。
たとえば,沖縄には,いわゆる「芸能」が人びとの日常生活のなかに深く根を下ろしている。その根幹に三線(さんしん)がある。ちょっとした宴会があれば,すぐに男が三線を弾き始め,みんなが立ち上がってカチャーシーを踊りはじめる。宴会でなくても,嬉しいことがあれば,即興でカチャーシーが飛び出す。そこでは大人も子どもも,男も女も,区別はない。みんな,渾然一体となって,その場でみずからの気持を表現し,楽しむ。つまり,歌と踊りが日常的に根づいている,ということだ。こうして,嫌なことは一刻も早く忘れ,明日への希望につないでいく。これがむかしからのウチナンチュの慣習行動であり,原動力となっていて,それがいまも息づいている。
この延長線上に,小さな居酒屋やカフェのわずかなスペースを利用してのささやかなライブがある。それも夕食後の午後8時とか,午後9時とかの開演だ。それがいたるところで行われている。それらの情報は,そのほとんどが口コミ情報だ。友だちから友だちへと伝えられ,都合のつく者だけが集まってくる。終わったあとも,演奏者とお客さんとで盛り上がる。つまり,みんな友だちなのだ。それで食べていかれるわけではないので,みんなそれぞれに仕事をもちながら,週末のライブに備えている。そんなライブがいたるところで行われている。
こういう広い意味での芸能に代表されるように,小中学生のスポーツ大会や,地域の小さな祭りにいたるまで,じつに熱心に行われていて,みんながそれぞれに楽しんでいる。それらが事細かに紙面を飾っている。だから,いま,沖縄のどこでどんなことが行われていて,盛り上がっているかが,その気になれば新聞で知ることができる。本土で暮らしているウチナンチュも,多くの人がこの沖縄2紙を愛読している理由がよくわかる。それだけで故郷情報は完璧なのだ。
こうした人間味あふれる情報もさることながら,それよりなにより,圧巻は,真のジャーナリズムが生きている,ということだ。つねに,ウチナンチュの目線から,政治・経済を論じ,是々非々の姿勢を貫いている。それを2紙が競い合うようにして論戦を展開しているのだ。だから,両紙ともおざなりの情報提供ではすまされない。なぜなら,激しい読者獲得競争がその背景にある。だから,そのジャーナリスティックな議論のポイントは,政治も経済も,みんなウチナンチュの日常生活にとっていかなる意味をもつのか,という点に絞られている。だから,その論旨はじつに明快であり,しかも日常生活の細部にまで伸びていく。
たとえば,米軍基地問題も,単に安全・騒音だけではなく,沖縄の経済を阻害している最大要因であることを,日々,詳細にデータを提示しながら論じている。そして,政府による沖縄振興予算などは,むしろ,ウチナンチュの経済的自立を阻害するばかりではなく,アイデンティティをも阻害するものであって,なんの役にも立たない,ということもきちんと説明している。そして,その目線の先は,基地を県外に移設したのちの,自律・自立した沖縄経済の活性化に向けられていて,着実にその基盤が構築されつつある。とりわけ,IT関連事業については確実にその基盤が整いつつある。そして,東南アジアや中国と本土とを結ぶ重要なハブ拠点となりつつある。しかもその成果は着実に上がっていて,経済も活性化の一途をたどっている。こういう情報・議論が毎日のように新聞紙上を賑わせている。だから,沖縄県民の意識は,本土のわれわれが知らないところで,はるか先に進んでおり,その実現に向かっている。
翁長知事が中国や台湾に足を運ぶのは,こうした大きな流れの上に立ち,沖縄の経済的自立を視野に入れた上での政治活動だ。そのことを本土のメディアのほとんどは理解していない。のみならず,翁長知事の行動を疑問視するメディアも少なくない。それどころか,中国のスパイ呼ばわりさえする新聞も登場している。あきれ返ってものも言えない,とはこのことだ。自分たちの不勉強を棚に挙げて,自分たちに理解できない行動はすぐさま批判する。それも完全なる「上から目線」だ。しかも,劣悪なことばで。ここには悪意以外のなにも存在しない。ジャーナリズムの腐敗であり,死そのものだ。そのことに気づいている様子もない。最悪だ。
沖縄2紙を読んでいて,しみじみと感じるのは,両紙ともに沖縄県民の「生」をしっかりと見つめ,これを擁護する姿勢に貫かれているということだ。辺野古新基地建設に反対する沖縄県民の意識の根っこはここにある。この点は,みごとに沖縄2紙ともに徹底している。そして,しのぎを削っている。だから,論旨はますます冴え渡ってくる。読んでいて,じつによくわかる。沖縄県民が選挙行動で示した「反基地建設」は,こうした磐石な論旨に支えられてのものだ。しかも,一朝一夕のうちにできあがったものではない。深い歴史過程と連動している。しかも,すでに,沖縄県民はそのさきを見据えている。
日本政府はもはや当てにはならない。沖縄県として自立した立場で,直接,アメリカと折衝をするしかない,と。翁長知事はこうした県民の圧倒的な支持を受けて,いよいよアメリカ政府との直接交渉に向かう。83%の県民の支持を受けて。
一昨日のブログにも紹介した『沖縄タイムス』の記事も,そうした流れの上に立つ,堂々たる論陣の張り方である。本土のメディアはとても太刀打ちはできないだろう。なぜか。ジャーナリズムの精神を放棄してしまっているから。すなわち,人間の「生」を肯定し,擁護する,人間として生きる原点をどこかに置き忘れてきてしまったから。
わたしたちは「沖縄についてほとんどなにも知らないに等しい」と表題に掲げた。その理由は本土のジャーナリズムの腐敗・死にある。だから,わたしたちは沖縄のほんとうの姿をほとんどなにも知らないままなのだ。しかも,そこに政府自民党の圧力がかかっている。これから,ますます,沖縄情報は本土では忌避されてしまいかねない。これから最大のピークを迎えるというのに。
わたしたちは,いまや,沖縄県民を師と仰ぎ,教えを請わなくてはならないところに立たされている。このことだけは,声を大にして叫びたい。われら「茹でガエル」たる同胞に向けて。
その理由は,沖縄2紙,つまり,『琉球新報』と『沖縄タイムス』のネット購読者となってみたら,日々,新しい沖縄の日常を知ることになり,わたしの沖縄認識がまったく表面的なものでしかなかったことが明らかになったからである。昨年の4月から購読をはじめたので,ちょうど一年になる。その間に,沖縄という土地・文化のもつ懐の深さと人間性が,本土のそれとは相当に異なるものである,ということをじっくりと学ぶことになった。それは驚くべき経験でもあった。
ひとくちで言ってしまえば,沖縄には「人間が住んでいる」ということだ。つまり,生身の血も涙もある,人情味豊かな人間関係が,まだ生き生きと躍動している,という印象である。そして,その人間の生きざまを沖縄2紙はしっかりと報道している。それに引き換え,本土のわれわれは血も涙も枯れはてた「モノ化」してしまった人間があまりにも多くなってしまった,ということだ。その上,ジャーナリズムが形骸化してしまい,ことなかれ主義に逃避してしまったから,なおさらのことだ。この違いは天と地ほどもある。
たとえば,沖縄には,いわゆる「芸能」が人びとの日常生活のなかに深く根を下ろしている。その根幹に三線(さんしん)がある。ちょっとした宴会があれば,すぐに男が三線を弾き始め,みんなが立ち上がってカチャーシーを踊りはじめる。宴会でなくても,嬉しいことがあれば,即興でカチャーシーが飛び出す。そこでは大人も子どもも,男も女も,区別はない。みんな,渾然一体となって,その場でみずからの気持を表現し,楽しむ。つまり,歌と踊りが日常的に根づいている,ということだ。こうして,嫌なことは一刻も早く忘れ,明日への希望につないでいく。これがむかしからのウチナンチュの慣習行動であり,原動力となっていて,それがいまも息づいている。
この延長線上に,小さな居酒屋やカフェのわずかなスペースを利用してのささやかなライブがある。それも夕食後の午後8時とか,午後9時とかの開演だ。それがいたるところで行われている。それらの情報は,そのほとんどが口コミ情報だ。友だちから友だちへと伝えられ,都合のつく者だけが集まってくる。終わったあとも,演奏者とお客さんとで盛り上がる。つまり,みんな友だちなのだ。それで食べていかれるわけではないので,みんなそれぞれに仕事をもちながら,週末のライブに備えている。そんなライブがいたるところで行われている。
こういう広い意味での芸能に代表されるように,小中学生のスポーツ大会や,地域の小さな祭りにいたるまで,じつに熱心に行われていて,みんながそれぞれに楽しんでいる。それらが事細かに紙面を飾っている。だから,いま,沖縄のどこでどんなことが行われていて,盛り上がっているかが,その気になれば新聞で知ることができる。本土で暮らしているウチナンチュも,多くの人がこの沖縄2紙を愛読している理由がよくわかる。それだけで故郷情報は完璧なのだ。
こうした人間味あふれる情報もさることながら,それよりなにより,圧巻は,真のジャーナリズムが生きている,ということだ。つねに,ウチナンチュの目線から,政治・経済を論じ,是々非々の姿勢を貫いている。それを2紙が競い合うようにして論戦を展開しているのだ。だから,両紙ともおざなりの情報提供ではすまされない。なぜなら,激しい読者獲得競争がその背景にある。だから,そのジャーナリスティックな議論のポイントは,政治も経済も,みんなウチナンチュの日常生活にとっていかなる意味をもつのか,という点に絞られている。だから,その論旨はじつに明快であり,しかも日常生活の細部にまで伸びていく。
たとえば,米軍基地問題も,単に安全・騒音だけではなく,沖縄の経済を阻害している最大要因であることを,日々,詳細にデータを提示しながら論じている。そして,政府による沖縄振興予算などは,むしろ,ウチナンチュの経済的自立を阻害するばかりではなく,アイデンティティをも阻害するものであって,なんの役にも立たない,ということもきちんと説明している。そして,その目線の先は,基地を県外に移設したのちの,自律・自立した沖縄経済の活性化に向けられていて,着実にその基盤が構築されつつある。とりわけ,IT関連事業については確実にその基盤が整いつつある。そして,東南アジアや中国と本土とを結ぶ重要なハブ拠点となりつつある。しかもその成果は着実に上がっていて,経済も活性化の一途をたどっている。こういう情報・議論が毎日のように新聞紙上を賑わせている。だから,沖縄県民の意識は,本土のわれわれが知らないところで,はるか先に進んでおり,その実現に向かっている。
翁長知事が中国や台湾に足を運ぶのは,こうした大きな流れの上に立ち,沖縄の経済的自立を視野に入れた上での政治活動だ。そのことを本土のメディアのほとんどは理解していない。のみならず,翁長知事の行動を疑問視するメディアも少なくない。それどころか,中国のスパイ呼ばわりさえする新聞も登場している。あきれ返ってものも言えない,とはこのことだ。自分たちの不勉強を棚に挙げて,自分たちに理解できない行動はすぐさま批判する。それも完全なる「上から目線」だ。しかも,劣悪なことばで。ここには悪意以外のなにも存在しない。ジャーナリズムの腐敗であり,死そのものだ。そのことに気づいている様子もない。最悪だ。
沖縄2紙を読んでいて,しみじみと感じるのは,両紙ともに沖縄県民の「生」をしっかりと見つめ,これを擁護する姿勢に貫かれているということだ。辺野古新基地建設に反対する沖縄県民の意識の根っこはここにある。この点は,みごとに沖縄2紙ともに徹底している。そして,しのぎを削っている。だから,論旨はますます冴え渡ってくる。読んでいて,じつによくわかる。沖縄県民が選挙行動で示した「反基地建設」は,こうした磐石な論旨に支えられてのものだ。しかも,一朝一夕のうちにできあがったものではない。深い歴史過程と連動している。しかも,すでに,沖縄県民はそのさきを見据えている。
日本政府はもはや当てにはならない。沖縄県として自立した立場で,直接,アメリカと折衝をするしかない,と。翁長知事はこうした県民の圧倒的な支持を受けて,いよいよアメリカ政府との直接交渉に向かう。83%の県民の支持を受けて。
一昨日のブログにも紹介した『沖縄タイムス』の記事も,そうした流れの上に立つ,堂々たる論陣の張り方である。本土のメディアはとても太刀打ちはできないだろう。なぜか。ジャーナリズムの精神を放棄してしまっているから。すなわち,人間の「生」を肯定し,擁護する,人間として生きる原点をどこかに置き忘れてきてしまったから。
わたしたちは「沖縄についてほとんどなにも知らないに等しい」と表題に掲げた。その理由は本土のジャーナリズムの腐敗・死にある。だから,わたしたちは沖縄のほんとうの姿をほとんどなにも知らないままなのだ。しかも,そこに政府自民党の圧力がかかっている。これから,ますます,沖縄情報は本土では忌避されてしまいかねない。これから最大のピークを迎えるというのに。
わたしたちは,いまや,沖縄県民を師と仰ぎ,教えを請わなくてはならないところに立たされている。このことだけは,声を大にして叫びたい。われら「茹でガエル」たる同胞に向けて。
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