1945年8月15日。わたしは愛知県渥美郡杉山村(現・豊橋市杉山町)の宝林寺というお寺の広庭にいた。そこは母の実家で,わたしたち一家は豊橋市の空襲で焼け出され,疎開していた。大伯父のお世話になり,二家族が一緒に食事をし,仲良く暮らしていた。夏休みだったので,従姉妹たちと一緒に大きな楠の日陰にむしろを敷いて遊んでいた。昼近くになって,突然,寺の庫裡の中から大きな声で,みんな集まるように,と呼び込まれた。なにごとか,とおもって庫裡の中に入ると,大黒柱の周囲に大人たちがみんな真剣な顔をして座っている。ザーザーという雑音だらけのラジオが鳴っている。
しばらくすると,突然,大人たちが立ち上がって直立する。お前たちも立ちなさい,といわれる。ザーザーという雑音にまじって,なにやら人の声がする。なにを言っているのかは,わたしにはよく聞き取れなかった。ずいぶん,長い間,立ったままでいたようにおもう。みんな真剣な顔をしているので,動くこともできなかった。
これが,のちに知ることになる「玉音放送」だった。そして,その後も何回も,折あるごとに編集されて放送されたようで,わたしの頭には「耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍び」というフレーズだけが強く印象に残った。天皇の声と,あのなんともいえない抑揚のある読み方を面白がって,よく,物真似をしたり,ジョークにもこのフレーズは用いられた。
ラジオの放送が終わったところで,大伯父がひとこと「終わったな」と言った。みんな肩を落としたまま,黙り込んでいる。子どもたちのだれかが,「ほんとうに終わったの?」と聞く。そして,これもだれが答えたのか記憶にないが,「戦争は終わった」と言った。すると,子どもたちが一斉に声を挙げる。「じゃあ,もう,空襲警報はでないの?」「艦載機の攻撃はなくなるの?」「艦砲射撃はなくなるの?」「学校は始まるの?」と矢継ぎ早に問いがつづく。
わたしは子どもたちの中でも小さい方だったので,みんなの会話を黙って聞いていた。そして,もう戦争は終わったのだ,B29も飛んでくることもなくなるんだ,ということだけがほんやりとわかったにすぎなかった。しかし,それで十分だった。なんだかこころの底から安堵した記憶だけは鮮明に残っている。もう,鬼畜米英に攻撃されて殺されることはないのだ,と。これが国民学校2年生(いまの小学校)の夏休みの最大のできごとだった。
この日は朝から真っ青な空がひろがり,強い日差しが朝から照りつけていた。だから,子どもたちは広庭の木陰を選んでむしろを敷いて,そこで遊んでいた。あまりの空の青さが,なぜか強く印象に残っている。そして,むしろの上に仰向けにころがり,じっと空を見つめたことも覚えている。それ以外はなにをして遊んでいたのかも,昼食になにを食べたのかも記憶がない。
それまでに,子どもごころを震え上がらせる,戦争の恐ろしい体験をいくつもしていたので,いつも怯えながら日々を送っていた。一般の国民に向けての艦載機の攻撃が頻繁に起こるようになり,子どもたちもしばしばそのターゲットにされた。登下校も危険だということになり,とうとう学校での授業は中断された。そして,字ごとの集会所に集まり,上級生がリーダーになって自習をしていた。先生が時折,巡回してきて,勉強をみてくれた。それ以外は「自習」とはいえ,みんなで遊んでいるのも同然だった。
そんな,恐ろしい記憶のいくつかを取り出して,このブログで公表してみたいとおもう。そして,戦争だけはどんなことがあっても忌避すべきだ,と一人でも多くの人びとにわかってもらいたい。それは戦争の恐ろしさを肌で感じた人間に残された,いまもっとも大事な使命だ,とおもうから。
しばらくすると,突然,大人たちが立ち上がって直立する。お前たちも立ちなさい,といわれる。ザーザーという雑音にまじって,なにやら人の声がする。なにを言っているのかは,わたしにはよく聞き取れなかった。ずいぶん,長い間,立ったままでいたようにおもう。みんな真剣な顔をしているので,動くこともできなかった。
これが,のちに知ることになる「玉音放送」だった。そして,その後も何回も,折あるごとに編集されて放送されたようで,わたしの頭には「耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍び」というフレーズだけが強く印象に残った。天皇の声と,あのなんともいえない抑揚のある読み方を面白がって,よく,物真似をしたり,ジョークにもこのフレーズは用いられた。
ラジオの放送が終わったところで,大伯父がひとこと「終わったな」と言った。みんな肩を落としたまま,黙り込んでいる。子どもたちのだれかが,「ほんとうに終わったの?」と聞く。そして,これもだれが答えたのか記憶にないが,「戦争は終わった」と言った。すると,子どもたちが一斉に声を挙げる。「じゃあ,もう,空襲警報はでないの?」「艦載機の攻撃はなくなるの?」「艦砲射撃はなくなるの?」「学校は始まるの?」と矢継ぎ早に問いがつづく。
わたしは子どもたちの中でも小さい方だったので,みんなの会話を黙って聞いていた。そして,もう戦争は終わったのだ,B29も飛んでくることもなくなるんだ,ということだけがほんやりとわかったにすぎなかった。しかし,それで十分だった。なんだかこころの底から安堵した記憶だけは鮮明に残っている。もう,鬼畜米英に攻撃されて殺されることはないのだ,と。これが国民学校2年生(いまの小学校)の夏休みの最大のできごとだった。
この日は朝から真っ青な空がひろがり,強い日差しが朝から照りつけていた。だから,子どもたちは広庭の木陰を選んでむしろを敷いて,そこで遊んでいた。あまりの空の青さが,なぜか強く印象に残っている。そして,むしろの上に仰向けにころがり,じっと空を見つめたことも覚えている。それ以外はなにをして遊んでいたのかも,昼食になにを食べたのかも記憶がない。
それまでに,子どもごころを震え上がらせる,戦争の恐ろしい体験をいくつもしていたので,いつも怯えながら日々を送っていた。一般の国民に向けての艦載機の攻撃が頻繁に起こるようになり,子どもたちもしばしばそのターゲットにされた。登下校も危険だということになり,とうとう学校での授業は中断された。そして,字ごとの集会所に集まり,上級生がリーダーになって自習をしていた。先生が時折,巡回してきて,勉強をみてくれた。それ以外は「自習」とはいえ,みんなで遊んでいるのも同然だった。
そんな,恐ろしい記憶のいくつかを取り出して,このブログで公表してみたいとおもう。そして,戦争だけはどんなことがあっても忌避すべきだ,と一人でも多くの人びとにわかってもらいたい。それは戦争の恐ろしさを肌で感じた人間に残された,いまもっとも大事な使命だ,とおもうから。
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