<破局>。カタストロフ。世界が根底から壊れてしまうような大惨事。この世の終わり。そんな,いつか,遠い未来にやってくるであろうとおもわれていた<破局>が,いま,すでに,わたしたちの目の前にやってきてしまった。わたしたちは,もはや,この<破局>と無縁では生きられない。この<破局>という現実を避けて通ることはできない。
フクシマ。
このフクシマと,どのように折り合いをつけながら,生き延びる方途を見出すべきか。このことのために全知全能を傾け,ありとあらゆる努力をしなくてはならない時代,それが<いま>だ。つまり,<破局>を迎えてしまった<いま>という時代だ。
なのに,アベ政権は背を向けたまま無視だ。そして,放置したままだ。しかも,<破局>の事態はますます悪化の一途をたどっているというのに。世の識者たちの多くもまた,この事実を語ろうとはしない。メディアも忌避しているかのように,触れたがらない。むしろ,積極的に蓋をしてしまっている。まるで,なにもなかったかのように・・・・。
しかし,ジャン=ピエール・デュピュイは,多くの著作をとおして,フクシマだけではなく,経済の問題をも包括した世界全体の<破局>問題を取り上げ,重視し,警鐘を鳴らしつづけている。このデュピュイの論考にいちはやく反応した,西谷修さんを筆頭とするグループの人たちは,この問題こそこんにちの思想・哲学上の喫緊の課題であるとして,真っ正面から向き合い,熱心に発言を展開している。
その中核ともいうべき西谷さんの論文「<破局>に向き合う」(『カタストロフからの哲学』──ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって,渡名喜庸哲・森元庸介編著,以文社,2015年10月刊に収められた巻頭論文)を,新しい年を迎えた年頭に当たって,気持ちも新たに再読してみた。案の定,ずっしりと重いものがわたしのからだを駆け抜けていく。しばらくの間は震えが止まらないほど興奮する。読むたびに,それまでになかっか,なにか新しい共感が立ち現れてくる。この感覚はいったいなんだろう,と考える。
ひとつには,まことに個人的な事情と直接,深く,重くかかわっている,と正直に告白しておこう。言うまでもなく,わたしはいま末期癌のステージ4を生きている。しかも,決め手となる治療の方法が見つからないまま,残りの「生」と向き合う日常を生きている。個人的な,まことに個人的な<破局>が目の前にきてしまった,というのが実感である。それでも,自助努力としてできることはやってみようとあらゆる智恵を絞り,よさそうだと納得できるところから始めている。そして,少しでも<破局>を向こう側に押しやるべく,ささやかな実践をこころがけている。
こんな個人的な事情もあって,デュピュイのいう<破局>は,わたしにとっては切実な「生」の問題となって跳ね返ってくる。そして,西谷さんの説く「<破局>に向き合う」という論考が,きわめて深いところでわたしのこころに響いてくる。驚くほどの現実味を帯びて・・・・。それでいて,どことなくわたしのこころを癒してもくれる。
それはなんと仏教的な世界観をわたしに想起させてくれるからだ。西谷さんは,この論考のどこにも仏教にかかわるような言説はしていないのだが,それでもなお,わたしの想像力は仏教的コスモロジーをつぎからつぎへと引き寄せてくる。仏教とはなんの関係もない西谷さんの言説にもかかわらず,わたしは勝手に仏教の世界に遊んでいる。これはいったいどういうことなのだろうか,と考えてしまう。しかし,そんなことはどちらでもいいことだ,と自分に言い聞かせる。
詳しいことは割愛するが,西谷さんは,<破局>を回避するためには,発想の出発点を180度,転換させるほかはない,と断言する。つまり,人が「生きる」ということを第一優先として擁護することだ,と。「生きる」ということを肯定する思想こそが「善」なのだ,と。西田幾多郎の『善の研究』も,人が「生きる」ということを擁護している論考として読むと理解が深まる,と以前に聞いたことがある。つまり,与えられた「生」を生き切ること,あるいは,まっとうすること,そのことのためにわたしたちがなすべきことはなにか,そこから考え直すこと,これが<破局>を目の前にした<いま>,わたしたちがやるべきことだ,と。
こうした西谷さんの言説が,わたしには,いま与えられている「生」をまっとうすること,と響いてくる。では,<破局>と向き合う<いま>を,わたしが「生きる」とはどういうことなのか,という命題がくっきりとみえてくる。すると,おのずからなる答えがみえてくる。そこに救済が透けてみえてくる。ああ,この「道」を行けばいい,と。それが,わたしには子どものころから馴染んできた仏教的世界観であり,その後も読み続けてきた仏典の解釈から得た知識であり,智恵である。その中に,その「道」を考えるヒントの多くが秘められている。
と,そんな風にわたしは考えはじめている。
やはり,再読をしてよかった,としみじみおもう。
断っておくが,ここに書くことができたことがらは,わたしの思考のほんの概略にすぎない。曖昧模糊とした,いまなお言説化できない思考の部分にも,もっともっと重要なテーマが潜んでいる。これから思考が深まってきたら,また,言説化してみたいとおもう。たぶん,可能だとおもう。それを楽しみたいともおもう。あるいは,それがいまわたしが「生きる」ということの内実なのかもしれない。そんなことも含めて「生きる」とはどういうことなのか,を考えてみたい。そんなところにまで,西谷さんの論考の触手は伸びているようにおもうから。
だから,これからも何回でも再読しながら,思考を深めていきたいとおもう。わたしが真に「生きる」ために。
フクシマ。
このフクシマと,どのように折り合いをつけながら,生き延びる方途を見出すべきか。このことのために全知全能を傾け,ありとあらゆる努力をしなくてはならない時代,それが<いま>だ。つまり,<破局>を迎えてしまった<いま>という時代だ。
なのに,アベ政権は背を向けたまま無視だ。そして,放置したままだ。しかも,<破局>の事態はますます悪化の一途をたどっているというのに。世の識者たちの多くもまた,この事実を語ろうとはしない。メディアも忌避しているかのように,触れたがらない。むしろ,積極的に蓋をしてしまっている。まるで,なにもなかったかのように・・・・。
しかし,ジャン=ピエール・デュピュイは,多くの著作をとおして,フクシマだけではなく,経済の問題をも包括した世界全体の<破局>問題を取り上げ,重視し,警鐘を鳴らしつづけている。このデュピュイの論考にいちはやく反応した,西谷修さんを筆頭とするグループの人たちは,この問題こそこんにちの思想・哲学上の喫緊の課題であるとして,真っ正面から向き合い,熱心に発言を展開している。
その中核ともいうべき西谷さんの論文「<破局>に向き合う」(『カタストロフからの哲学』──ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって,渡名喜庸哲・森元庸介編著,以文社,2015年10月刊に収められた巻頭論文)を,新しい年を迎えた年頭に当たって,気持ちも新たに再読してみた。案の定,ずっしりと重いものがわたしのからだを駆け抜けていく。しばらくの間は震えが止まらないほど興奮する。読むたびに,それまでになかっか,なにか新しい共感が立ち現れてくる。この感覚はいったいなんだろう,と考える。
ひとつには,まことに個人的な事情と直接,深く,重くかかわっている,と正直に告白しておこう。言うまでもなく,わたしはいま末期癌のステージ4を生きている。しかも,決め手となる治療の方法が見つからないまま,残りの「生」と向き合う日常を生きている。個人的な,まことに個人的な<破局>が目の前にきてしまった,というのが実感である。それでも,自助努力としてできることはやってみようとあらゆる智恵を絞り,よさそうだと納得できるところから始めている。そして,少しでも<破局>を向こう側に押しやるべく,ささやかな実践をこころがけている。
こんな個人的な事情もあって,デュピュイのいう<破局>は,わたしにとっては切実な「生」の問題となって跳ね返ってくる。そして,西谷さんの説く「<破局>に向き合う」という論考が,きわめて深いところでわたしのこころに響いてくる。驚くほどの現実味を帯びて・・・・。それでいて,どことなくわたしのこころを癒してもくれる。
それはなんと仏教的な世界観をわたしに想起させてくれるからだ。西谷さんは,この論考のどこにも仏教にかかわるような言説はしていないのだが,それでもなお,わたしの想像力は仏教的コスモロジーをつぎからつぎへと引き寄せてくる。仏教とはなんの関係もない西谷さんの言説にもかかわらず,わたしは勝手に仏教の世界に遊んでいる。これはいったいどういうことなのだろうか,と考えてしまう。しかし,そんなことはどちらでもいいことだ,と自分に言い聞かせる。
詳しいことは割愛するが,西谷さんは,<破局>を回避するためには,発想の出発点を180度,転換させるほかはない,と断言する。つまり,人が「生きる」ということを第一優先として擁護することだ,と。「生きる」ということを肯定する思想こそが「善」なのだ,と。西田幾多郎の『善の研究』も,人が「生きる」ということを擁護している論考として読むと理解が深まる,と以前に聞いたことがある。つまり,与えられた「生」を生き切ること,あるいは,まっとうすること,そのことのためにわたしたちがなすべきことはなにか,そこから考え直すこと,これが<破局>を目の前にした<いま>,わたしたちがやるべきことだ,と。
こうした西谷さんの言説が,わたしには,いま与えられている「生」をまっとうすること,と響いてくる。では,<破局>と向き合う<いま>を,わたしが「生きる」とはどういうことなのか,という命題がくっきりとみえてくる。すると,おのずからなる答えがみえてくる。そこに救済が透けてみえてくる。ああ,この「道」を行けばいい,と。それが,わたしには子どものころから馴染んできた仏教的世界観であり,その後も読み続けてきた仏典の解釈から得た知識であり,智恵である。その中に,その「道」を考えるヒントの多くが秘められている。
と,そんな風にわたしは考えはじめている。
やはり,再読をしてよかった,としみじみおもう。
断っておくが,ここに書くことができたことがらは,わたしの思考のほんの概略にすぎない。曖昧模糊とした,いまなお言説化できない思考の部分にも,もっともっと重要なテーマが潜んでいる。これから思考が深まってきたら,また,言説化してみたいとおもう。たぶん,可能だとおもう。それを楽しみたいともおもう。あるいは,それがいまわたしが「生きる」ということの内実なのかもしれない。そんなことも含めて「生きる」とはどういうことなのか,を考えてみたい。そんなところにまで,西谷さんの論考の触手は伸びているようにおもうから。
だから,これからも何回でも再読しながら,思考を深めていきたいとおもう。わたしが真に「生きる」ために。
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