朝起きたら,予報どおりの銀世界。今シーズン初の積雪をみました。東側の窓から多摩川と東京方面を眺め,西側の窓から富士山方面をとくと眺めてみました。と書くと,いかにも遠くまで見晴らしのきく素晴らしい眺望のようにおもわれるかも知れませんが,じつは,その眺望の半分は,いま住んでいる高層マンションの建物で占められています。でも,一応,9階ですので,見えるところは,かなり遠くまで見えます。晴れていれば富士山も見えます。まずは,ともかく,久しぶりの雪景色を堪能することができました。
寒いのは苦手ですので,今日は一日,家に籠りました。でも,一歩も外に出ないのはよくないと考え,大相撲の中継が終わってから散歩にでました。残り雪を踏みしめながら,若き日にスキーに熱中していたころのことを思い出していました。雪解けの冷たい空気を顔で感じながら,冬だなぁ,としみじみと。こんな散歩も悪くない,とおもいながら。
でも,途中で寒くなってきましたので,いつもの書店に身を滑り込ませて,いっときの暖をとることにしました。眺める書棚はきまっていて,順番に,渡り歩いていましたら,ひょいと『老子』が眼に飛び込んできました。こういうタイミングは,「買ってくれ」と本そのものがわたしに呼びかけているものです。ですから,無意識のうちに手が伸びて,ぱらぱらとめくっています。そして,直感的に,これはいい本だと判定。そのまま,カウンターへ。
家に帰ってから,すぐに,あちこちめくりながら本格的にチェックをはじめました。すると,どこか馴染みのある文章に出会い,はっとわれにかえりました。そして,老子関連の本が集めてあるコーナーをみやりますと,あるではありませんか。同じ本が。あっ,そうか,二冊目か。でも,これはいい本ですので,なんの後悔もしていません。いい本は二冊もつというのはわたしのポリシーでもあります。一冊は「書き込み用」,もう一冊は「まっさら用」です。
いい本は何回も何回も取り出してきては読むものです。そのときは,「まっさら用」を読みます。そして,おやっ?となにかが閃いて,書き込みをしたくなったら「書き込み用」を取り出して,その場所を確認します。そして,なにも書いてなかったら,いま,閃いたことをメモとして書き込んでおきます。が,たいていは,同じ閃きをするもので,新しい閃きだと興奮して確認してみると,すでに,同じことが書き込んである,ということはよくあることです。
でも,ときおり,素晴らしいアイディアが浮かんで,嬉しくなることがあります。そういうときは,わざわざ「赤」で線を引いて目立つようにしておきます。ですから,いい本は,その「赤」線がどんどん増えていくことになります。そして,余白は書き込みでいっぱいになってしまいます。そういう場合には,大きな余白のあるページをみつけて,そこに書き込みます。もちろん,⇒をつけてそこのページ数を書き込んでおきます。
こうして書き込みでいっぱいになった本は,わたしにとっては宝物も同然です。ですから,頭が惚けて,よく働かない日には,こういう書き込みでいっぱいになった本を取り出してきて読むことにしています。すると,驚くほど共感・共鳴・共振して,惚けていた頭が急に活性化することがしばしばあります。自分の書き込みですので,とてもよくわかるわけです。そして,ときには,その書き込みに反応して,また,新しいアイディアが飛び出したりすることもあります。こういうときは,まさに,至福のときでもあります。読書冥利につきます。
こんなことをしていると,半日くらいはあっという間にすぎてしまいます。場合によっては,食事も忘れて没頭していることも少なくありません。こういうときは空腹にも気がつきません。なんとも言えない充実感があって,大満足です。
二冊目を購入しましたので,この『老子』は,徹底的に「書き込み用」として活用することにします。といいつつ,すでに書き込みをはじめています。
道可道非常道。・・・・じっと睨む。もう,何冊もの解説本を読んでいますので,ふつうの解釈はわかっています。が,少し別の本で思考を練り込んだのちに,この冒頭のことばに向き合うと,あれっ?とおもうことがあります。これまで考えたこともない,まったく新しいアイディアが・・・。
どうかどうひじょうどう,とそのまま棒読みしてみます。経文を読むように,繰り返して,音声にしてみます。すると「どう」が3回もでてくるなぁ,と当たり前のことが気がかりになってきます。そのことは,眼で読むときも同じように「道」が三つもあるなぁ,と眼につきます。が,眼でみる「道」は視覚的に同じ文字としかみえません。しかし,声にし,耳で聞く「どう」は,全部違う,別物として響いてきます。発音の仕方もすべて違う「どう」です。その結果として聞こえてくる「どう」も全部違います。
となると,眼でみる「道」と,声・耳に響く「どう」とは,どこが,どう違うのか,ということが問題になってきます。これは,とんでもないことに気づいたな,と自分でびっくりしてしまいます。それっ,というので「書き込み」がはじまります。
すると,すぐ,このあとにつづく章句「名可名非常名」も,同じことの繰り返しをしていて,「道」が「名」に変わっただけです。そして,最後の章句「玄之又玄衆妙之門」とも響き合っていることに気づきます。この繰り返しに,じつは,深い意味がある,と気づきます。つまり,三つの「道」も,三つの「名」も,そして二つの「玄」も,それぞれみんな違う意味をもっているのだ・・・・と。
さて,ここからさきの「遊び」は,わたしひとりの世界になっていきます。こんな経験は,なんと,今日,衝動買いをした,この『老子』が初めてです。やはり,衝動買いをさせる,なにかが,そのとき働いていたんだなぁ,とおもわずにはいられません。
これもまた,ありがたい(ありえない)ことだ,としみじみおもいます。こんな「遊び」がたくさんできたら,人生は楽しいだろうに・・・。あと,どれくらい,こんな「遊び」ができるのだろう・・・と。
そう,この『老子』は,蜂屋邦夫訳注,岩波文庫,2008年12月16日第1刷,2015年10月26日第13刷,です。詳しいことは省略しますが,全体の構成といい,訳文といい,読みくだし文といい,原文といい,注釈といい,解説といい,索引といい,すべて申し分ありません。あとは,手にとってご覧ください。
こんな本にどんどん惹かれていくのは,西谷修さんの書かれた「<破局>に向き合う」を読み,感銘を受けたからに違いありません。そして,こんどの23日(土)の奈良例会のことが頭にあることも間違いありません。
なぜか,わたしが,いま,いい本だなぁと感ずる本は,すべて,ある「一点」に向かっていきます。どうも,そこらあたりが,「玄之又玄」であり,「衆妙之門」であるらしい,とわかってきました。こうして,奈良例会がまたまた楽しみになってきました。
素晴らしい降雪・積雪がもたらした贈与(おみやげ)。こうした気づきも,この贈与があってのもので,これもまた,無縁とはいえません。いい雪の日でした。
寒いのは苦手ですので,今日は一日,家に籠りました。でも,一歩も外に出ないのはよくないと考え,大相撲の中継が終わってから散歩にでました。残り雪を踏みしめながら,若き日にスキーに熱中していたころのことを思い出していました。雪解けの冷たい空気を顔で感じながら,冬だなぁ,としみじみと。こんな散歩も悪くない,とおもいながら。
でも,途中で寒くなってきましたので,いつもの書店に身を滑り込ませて,いっときの暖をとることにしました。眺める書棚はきまっていて,順番に,渡り歩いていましたら,ひょいと『老子』が眼に飛び込んできました。こういうタイミングは,「買ってくれ」と本そのものがわたしに呼びかけているものです。ですから,無意識のうちに手が伸びて,ぱらぱらとめくっています。そして,直感的に,これはいい本だと判定。そのまま,カウンターへ。
家に帰ってから,すぐに,あちこちめくりながら本格的にチェックをはじめました。すると,どこか馴染みのある文章に出会い,はっとわれにかえりました。そして,老子関連の本が集めてあるコーナーをみやりますと,あるではありませんか。同じ本が。あっ,そうか,二冊目か。でも,これはいい本ですので,なんの後悔もしていません。いい本は二冊もつというのはわたしのポリシーでもあります。一冊は「書き込み用」,もう一冊は「まっさら用」です。
いい本は何回も何回も取り出してきては読むものです。そのときは,「まっさら用」を読みます。そして,おやっ?となにかが閃いて,書き込みをしたくなったら「書き込み用」を取り出して,その場所を確認します。そして,なにも書いてなかったら,いま,閃いたことをメモとして書き込んでおきます。が,たいていは,同じ閃きをするもので,新しい閃きだと興奮して確認してみると,すでに,同じことが書き込んである,ということはよくあることです。
でも,ときおり,素晴らしいアイディアが浮かんで,嬉しくなることがあります。そういうときは,わざわざ「赤」で線を引いて目立つようにしておきます。ですから,いい本は,その「赤」線がどんどん増えていくことになります。そして,余白は書き込みでいっぱいになってしまいます。そういう場合には,大きな余白のあるページをみつけて,そこに書き込みます。もちろん,⇒をつけてそこのページ数を書き込んでおきます。
こうして書き込みでいっぱいになった本は,わたしにとっては宝物も同然です。ですから,頭が惚けて,よく働かない日には,こういう書き込みでいっぱいになった本を取り出してきて読むことにしています。すると,驚くほど共感・共鳴・共振して,惚けていた頭が急に活性化することがしばしばあります。自分の書き込みですので,とてもよくわかるわけです。そして,ときには,その書き込みに反応して,また,新しいアイディアが飛び出したりすることもあります。こういうときは,まさに,至福のときでもあります。読書冥利につきます。
こんなことをしていると,半日くらいはあっという間にすぎてしまいます。場合によっては,食事も忘れて没頭していることも少なくありません。こういうときは空腹にも気がつきません。なんとも言えない充実感があって,大満足です。
二冊目を購入しましたので,この『老子』は,徹底的に「書き込み用」として活用することにします。といいつつ,すでに書き込みをはじめています。
道可道非常道。・・・・じっと睨む。もう,何冊もの解説本を読んでいますので,ふつうの解釈はわかっています。が,少し別の本で思考を練り込んだのちに,この冒頭のことばに向き合うと,あれっ?とおもうことがあります。これまで考えたこともない,まったく新しいアイディアが・・・。
どうかどうひじょうどう,とそのまま棒読みしてみます。経文を読むように,繰り返して,音声にしてみます。すると「どう」が3回もでてくるなぁ,と当たり前のことが気がかりになってきます。そのことは,眼で読むときも同じように「道」が三つもあるなぁ,と眼につきます。が,眼でみる「道」は視覚的に同じ文字としかみえません。しかし,声にし,耳で聞く「どう」は,全部違う,別物として響いてきます。発音の仕方もすべて違う「どう」です。その結果として聞こえてくる「どう」も全部違います。
となると,眼でみる「道」と,声・耳に響く「どう」とは,どこが,どう違うのか,ということが問題になってきます。これは,とんでもないことに気づいたな,と自分でびっくりしてしまいます。それっ,というので「書き込み」がはじまります。
すると,すぐ,このあとにつづく章句「名可名非常名」も,同じことの繰り返しをしていて,「道」が「名」に変わっただけです。そして,最後の章句「玄之又玄衆妙之門」とも響き合っていることに気づきます。この繰り返しに,じつは,深い意味がある,と気づきます。つまり,三つの「道」も,三つの「名」も,そして二つの「玄」も,それぞれみんな違う意味をもっているのだ・・・・と。
さて,ここからさきの「遊び」は,わたしひとりの世界になっていきます。こんな経験は,なんと,今日,衝動買いをした,この『老子』が初めてです。やはり,衝動買いをさせる,なにかが,そのとき働いていたんだなぁ,とおもわずにはいられません。
これもまた,ありがたい(ありえない)ことだ,としみじみおもいます。こんな「遊び」がたくさんできたら,人生は楽しいだろうに・・・。あと,どれくらい,こんな「遊び」ができるのだろう・・・と。
そう,この『老子』は,蜂屋邦夫訳注,岩波文庫,2008年12月16日第1刷,2015年10月26日第13刷,です。詳しいことは省略しますが,全体の構成といい,訳文といい,読みくだし文といい,原文といい,注釈といい,解説といい,索引といい,すべて申し分ありません。あとは,手にとってご覧ください。
こんな本にどんどん惹かれていくのは,西谷修さんの書かれた「<破局>に向き合う」を読み,感銘を受けたからに違いありません。そして,こんどの23日(土)の奈良例会のことが頭にあることも間違いありません。
なぜか,わたしが,いま,いい本だなぁと感ずる本は,すべて,ある「一点」に向かっていきます。どうも,そこらあたりが,「玄之又玄」であり,「衆妙之門」であるらしい,とわかってきました。こうして,奈良例会がまたまた楽しみになってきました。
素晴らしい降雪・積雪がもたらした贈与(おみやげ)。こうした気づきも,この贈与があってのもので,これもまた,無縁とはいえません。いい雪の日でした。
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