2012年1月19日木曜日

文部省(現文部科学省)の審議会委員をしたときの経験と「自発的隷従」ということについて。

毎日,毎日,憂鬱で仕方がない。朝の新聞からはじまって,テレビ,ラジオ,それにインターネットを流れてくる「ニュース」に触れるたびに,日本の国に未来はない,と絶望的になってしまう。ほんのひとかたまりのある特定のムラの住人たちの利害だけで,この国の意思決定がなされてしまう,その実態が透けてみえてくる。それも,じつに巧妙な仕組みを用いて。そのひとつは「第三者機関」と称する学識経験者による審議機関(ふつうは〇〇〇委員会という)。この機関のほとんどは官僚が設定をし,官僚のシナリオどおりに「承認」されることが前提となっている。

わたしの憂鬱の一因は,かつて,わたしも文部科学省になる前の文部省時代の審議会の委員を勤めたことがあり,多数決による「お手打ち式」に加担した経験が,いまごろになって慙愧の思いとともに鮮やかに脳裏に浮かんでくるからだ。もちろん,わたしは官僚作成の原案に反対意見を述べたのだが,圧倒的少数意見(だれも支持してくれなかった)で否決された。なんともやるせない気分だった。この一件以後,文部省からは,なんの声もかからなくなったことは当然だ。

このとき,堂々と原案に対して賛成意見を述べたわたしの後輩は,いまもその世界で大活躍である。それでいて,わたしに逢うと弁解ばかりする。まことに困った御仁である。本人に言わせれば,だれとも仲良くするための方途だ,という。しかし,それは違うだろう。類は類を呼ぶという。そのとおりで,かれをとりまく人種はみんな似た者同士ばかりである。こういう人種が,日本という国家の意思決定の背後で蠢いているのだから。困ったものだ。

わたしの,たった一回だけの経験がすべてだとは断定しない。しかし,最近の省庁の抱えている〇〇委員会とか〇〇審議会などの様子を,メディアをとおして眺めていると,基本的にはまったく変わってはいない,ということが手にとるようにわかる。そのひとつが「ストレス・テスト」だ。どのような基準で,なにが「テスト」されたのか,そして,どういう理由で「合格」となったのかは,なにも明らかにはされていない。極秘裏に決定されている。つまり,最初に「結論ありき」の「お手打ち式」でしかないのだ。(今朝の新聞でも同じことが報じられている)。

このことが疑われると,さらに,IAEAによるチェックをしてもらう,という。このIAEAこそ,原発推進のために設置された国際機関であり,その片側で「安全」をチェックする,という「お手盛り」機関なのだ。要するに,みんなグルになって「お手打ち式」をやっているにすぎない。ただし,このグルに対して反抗する国家は,徹底的に叩かれてしまう。たとえば,イラクのように。「正義」という名のアメリカの武力によって,国家はボロボロにされてしまう。しかも,一方的な誤認だったことが明らかになったにもかかわらず,だれひとりとして責任をとろうともしない。みんな「仲良しクラブ」のグルだから。日本の〇〇安全委員会も同じようなことをして,平気でいられるのはこういうお手本があるからだ。そのためには,日頃から「自発的隷従」の姿勢を貫かなくてはならない。ムラの一員となるために。

これを阻止できるのは,地元住民の「反対」という意思表示しかない。それでも,沖縄県のように,住民の頭越しに,アメリカとの盟約を盾にして押し切ろうとする政府与党の魂胆も明々白々だ。それを,また,見殺しにするヤマトンチューが圧倒的多数を構成しているのだから,始末が悪い。しかし,いつまでもこんなことを繰り返していてはならない。

その意味で,ことし一年は,まさに「正念場」だ。アメリカや国際社会に「自発的隷従」の姿勢を貫くことだけに熱心で,国民ひとりひとりの「命」など犠牲にしてもいいと平気で考えているムラの住人に対して,こんどこそ声を挙げなくてはならない。これをしも放棄してしまうとしたら,これこそ,日本の国に未来はない。どんなに小さなことでもいい。身のまわりの,できることから行動を起こし,声を発して,自分たちの「命」を守ることを実行に移すことだ。それしか方法はないのだから。

まずは原発を阻止しよう。沖縄の米軍基地を県外へ,そして,国外へ。TPPの阻止を・・・・。課題は多い。が,その原点は「自発的隷従」からの脱却だ。つまり,「事物」と化してしまった日本人から,もう一度,生身の血のかよう人間としての日本人を取り戻すことだ。いつのまにか,わたしたちは「事物」と化してしまったのだ,という自覚をしっかりともつこと。ここから,すべてがはじまる。「自発的隷従」という生き方が,いかに賤しい根性のもとに成り立っていることか,と。

遅きに失した感もなきにしもあらずだが,気づいたときが吉日。そこからスタートを切るしかないのだから。わたしたちの眼に見えないところで,メディアが報道しないところで,すでに,ささやかな自覚に支えられた行動を起こしている人たちが,あちこちにいる,ように思う。いや,そうに違いない,と信じたい。いまは,それしか明日への希望を支えてくれるものはないのだから。

だから,わたしも,「自発的隷従」の軛から離脱して,もっと自由な言動のとれる時空間のもとへと移動していくことにしよう。

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