2012年1月29日日曜日

『ボクシングの文化史』(東洋書林)の書評が載る・日経新聞。

昨年末に刊行されたばかりの『ボクシングの文化史』(東洋書林,稲垣監訳,松浪・月嶋訳)の書評が「日経新聞」にでた。書評してくださったのは,川成洋さん。まだ,刊行されたから一カ月に満たない,このタイミングのよさはありがたい。

おまけに,訳者の松浪さんと一緒に奈良から京都に向かう列車のなかで,まもなく京都駅に到着する寸前のところで,この情報を知ったからだ。それも,松浪さんの携帯にメールが入り,友人から書評がでたよ,という知らせだった。そのあと,すぐに別れて,別々の新幹線に乗ることになっていた。これはとてもいいお知らせだった,と二人で喜び,さよならをした。

早速,新幹線に乗る前に駅の売店で「日経新聞」を買った。列車の到着を待っている間に,なにはともあれ,書評を読んだ。新聞で書評されるのは,これで何回目だろうか。もう,精確な記憶はないが,いつも思うことは,不思議な違和感である。取り上げてくれたこと事態はとても嬉しいのだが,その内容を読むと,どこか,なにかが違うなぁ,と思う。

もともと書評というものはそういうものなのかも知れない。著者としての,こちらの立場は「俎の上の鯉」のようなものだ。どのように裁かれようと,板前さんのなすがままだ。この鯉は小さいなぁと板前さんが思えば,小さいと書く。立派だなぁと板前さんが思えば,立派だと書く。評者の感じたことがそのまま文章になる。それを,著者(訳者)は受け取るだけでしかない。

だから,ああ,そうなのかぁ,川成さんはそのように読んだのだ,と思うだけのことだ。ということは,その逆もまた,まったく同じだ,ということだから。

自分の著書にしろ,訳書にしろ,こういう主張を籠めて書いた,こういう本だと思って訳した,としてもそれはあくまでもわたしの主観でしかない。そのわたしの主観をそのまま読者が受け止めてくれるとは限らない。場合によっては,まったく違う解釈や理解のされ方をしてしまうこともある。それはそれでまた仕方のないことなのである。どうしようもないのだから。

考えてみれば,新聞や雑誌の書評に与えられる字数はきわめて少ない。その少ない字数のなかで,なんらかの書評をしなくてはならないから,書評をする人もまた大変な制約を受けていることも間違いない。その限られた字数のなかでなにを言うか,ここがまた至難の業なのだ。

じつは,わたしもまた,最近になって(もう3年になるのかな)評論の仕事にたずさわっているので,他人事ではない。『嗜み』(文藝春秋)という雑誌の巻末に「クロスカルチャーレヴュー」というコーナーがある。そこでは,「Book」「Art」「Movie」「Music」「DVD/Blue-ray」などが取り上げられている。そして,これらの評論をする仕事がわたしのような者にも与えられるようになった。ここでの字数は800字弱である。

わずか800字で,単行本や映画や音楽を評論するというのは,まさに至難の業だとしみじみ思う。もちろん,わたしのような初心者になにが言えるのか,というまずは前門の虎を克服しなくてはならない。加えて,ことの本質を把握しえているのか,という後門の狼も待ち受けている。だから,いまもなお,『嗜み』の評論をやるときには七転八倒である。もう,必死になって,ピンポイントで問題の核心に触れることを目指す。

単行本にしろ,DVDにしろ,何回も繰り返し確認できるものはまだしも,映画のように試写会一回で,問題の核心をとらえることは,素人には大変である。なにものにもとらわれることのない,可能なかぎりの「平常心」をこころがけるのみだ。そして,素直に感じられたことを,そのまま,評論のことばに置き換えていくしかない。それが,わたしにとっての「真実」なのだから。

となると,映画監督の思惑と,わたしの受け止め方は,必ずしも一致しない,などということは当たり前のことだ。それどころか,トンチンカンなことが起こらないとも言えない。こういう評論という仕事の「からくり」がわかるだけに,こんどは,自分の著作物が評論されるときに,心穏やかではなくなってしまう。

こんどの『ボクシングの文化史』を書評してくださった川成さんが,はたして,どんな心境でこの文章を書かれたか,それがわたしなりに,なんとなくわかる。たとえば,冒頭から,相当に気合が入っていて,本の内容を超えたところから話を始めている。だから,「あっ」と思う。そして「パンクレーション」ということばをみて,またまた,「あっ」と思う。わたしの頭のなかには「パンクラチオーン」はあっても,「パンクレーション」はまったく存在しないからだ。いつのまにか,ドイツ語読みのまま,日本語化し,そのままカタカナ表記になってしまっている。しかも,わたしたちのスポーツ史学会では,「パンクラチオーン」は認知されていても,「パンクレーション」となると初耳だ,ということになる。

こんな英語の発音表記をとるか,ドイツ語読みの表記をとるか,こんな細かなこともふくめて,書評された文章を読むときは「ドキドキ」ものである。そして,最後には,「うーん,そうなのかぁ」というような,微妙な違和感が残る。それでいいのである。なぜなら,わたしの思考の幅がほんの少しだけ広くなるのだから。

それにしても,川成さん,書評をありがとうございました。いろいろ勉強になりました。
これからも,どうぞ,よろしくお願いいたします。

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