今日(4日)は太極拳の稽古始めの日。会場が大岡山から溝の口に移って最初の日なので,まずは,溝の口駅(田園都市線)改札口に集合。みんな揃ったところで,会場へ。会場は,わたしと李老師が住んでいる某マンションの集会室。
今日は,李老師は中国にお里帰りのため欠席。紅一点のKさんは安曇野の穂高神社での能面展のため欠席。あとの5人で稽古をはじめる。いつものとおりの準備運動をして,基本の運動をし,24式へ。そして,部分練習。細かな動作のチェック。ここまで稽古が進むと,Nさんが元気になる。この人は教えることが根っから好きな人。少しでもみんなを上手にしてやろうと,とても熱心。わたしはどちらかといえば,自分のための稽古がしたい。でも,Nさんが熱心に教えているのをみると,わたしもなんとなくつられて口を出すようになる。で,結局,みんなでわいわい言いながらの稽古となる。これがまた楽しい。若い二人もさることながら,Sさんも真剣そのもの。
しかし,面白いもので,いつのまにか,みんな上手になっている。場のもつ力というものは不思議なものだ。稽古に対するNさんの気迫はたいへんなもので,わたしなどは時折,圧倒されることがある。これではいけないとわたしも気を引き締めて稽古に励む。それが連鎖反応を起こして,いつのまにか,みんな真剣そのもの。これが,一緒に稽古することの意味なのだろう。ひとりではこうはいかない。どこか甘えが残っていて,いとも簡単に自分を許してしまう。しかし,大勢で稽古すると,そんなことは許されない。その場の力をもらったり,また,与えたりしながら稽古場の雰囲気が盛り上がっていく。そうして,これまでできなかったことが,少しずつできるようになっていく。
太極拳の稽古をはじめたころは,李老師が毎週,手取り足取りしながら,細かい指導をしてくださった。が,いつからか,李老師が忙しくなって,毎週の指導は困難になった。仕方がないので,最初の弟子だったわたしとNさんとで自主的な稽古をつづけることにした。もちろん,Kさんも李老師不在でも,この自主稽古に参加してくれた。この3人だけでの自主稽古がしばらくつづいた。そこに,Sさんが加わり,若い二人が加わった。合計6人での稽古が,大岡山でつづいた。李老師は,数カ月に一度,ふらりと顔を出してくれる。これがとても嬉しかった。
しかし,面白いもので,李老師がそこにいるというだけで,わたしたちは緊張した。そして,いつもはできていることが急にできなくなってしまう。しかし,李老師はにこにこ笑いながら,みんな上手になった,と褒めてくれる。そして,ワン・ポイント・レッスンをしてくださる。ありがたいことだ。そして,たまにしかお目にかかれない李老師のえも言われぬ,奥の深い「動き」を脳裏に焼き付けようと必死になる。この全神経を集中させても,見えないものは見えない。しかし,あるとき,ひょいと「見える」ときがある。この瞬間こそが至福のときだ。
禅仏教の道元のことばで言えば「修証一等」である。自分の達したレベルに応じて「見える」ようになる。見えていないものを稽古しても,それは無駄である。いま,見えていることを反復練習しているうちにそれがおのずから身につく。そうすると,また,つぎの「動き」が見えてくる。道元は,修行すること(=修)と悟り(=証)とは同時に進行するもの(=一等)なので,無理に難しい修行に取り組む必要はない,と説いた。
太極拳の稽古も,ほとんど同じ構造になっている,とわたしは理解している。いま,見えていることを反復練習するのみ。そして,それが身につけば,つぎの「動き」が見えてくる。個人差はもちろんある。天才は,数段階をすっ飛ばして,つぎの「動き」が見えてくるらしい。でも,凡才であるわたしなどは,一段ずつ,見えてきたものを「わがもの」とすべく努力するのみ。だから,これまで見えなかった「動き」が見えてきたときの喜びはなにものにも代えがたい。
会場を,大岡山から溝の口に移したのは,李老師がよほどのことがないかぎり,毎週,顔を出します,と言ってくれたからだ。では,月謝を受け取ってください,とわたしたち。いやいや,一緒に稽古するだけのことなので不要,と李老師。勿体ない話。となれば,わたしたちは相当に気合を入れて,しっかりとした稽古をしなければならない。でなければ,罰が当たる。
それはともかくとして,来週からは,李老師の名人芸に触れることができる。途切れることなくからだのどこかが動きつづけている,あの不思議な名人の域に達した「動き」を見ることができる。芸事を習うということは,やはり,一流に触れることが第一だ。それは,武芸も学芸も,どの世界でも同じだ。その意味でも,わたしたちは幸せだ。太極拳の現代の名人に,じかに触れることができるのだから。
と,ここまで書いてきて,はっと気づくことがある。この太極拳の兄妹弟子もまた,並の人たちではない,ということに。世界を相手に新しい思考を切り開いている学芸の名人がいる。能面の世界にアートの新風を吹き込ませている能面アートの名人がいる。そして,出版界の大御所がいる。さらには,将来有望な若者たちがいる。おやおや,見回せば,わたし一人を除いて,みなさん大変な人たちばかりである。それはそれは,恐るべき集団ではないか。
こんな人たちに囲まれて太極拳の稽古ができること,こんな幸せなことはない。
よし,ことしは,気持ちのギアを入れ直して,稽古に取り組むことにしよう。そして,李老師に喜んでもらえるような弟子になろう。そして,なによりも,李老師がつねづね口にする「気持ちがいい」と感じられる太極拳を体験できるよう,頑張ろう。新年だから,このくらいの決意表明をしても許されるだろう。ただし,これが,新年の空手形にならないように。
さて,来週からの稽古が,いまから楽しみ。
ことしは,いい年になりますように。
今日は,李老師は中国にお里帰りのため欠席。紅一点のKさんは安曇野の穂高神社での能面展のため欠席。あとの5人で稽古をはじめる。いつものとおりの準備運動をして,基本の運動をし,24式へ。そして,部分練習。細かな動作のチェック。ここまで稽古が進むと,Nさんが元気になる。この人は教えることが根っから好きな人。少しでもみんなを上手にしてやろうと,とても熱心。わたしはどちらかといえば,自分のための稽古がしたい。でも,Nさんが熱心に教えているのをみると,わたしもなんとなくつられて口を出すようになる。で,結局,みんなでわいわい言いながらの稽古となる。これがまた楽しい。若い二人もさることながら,Sさんも真剣そのもの。
しかし,面白いもので,いつのまにか,みんな上手になっている。場のもつ力というものは不思議なものだ。稽古に対するNさんの気迫はたいへんなもので,わたしなどは時折,圧倒されることがある。これではいけないとわたしも気を引き締めて稽古に励む。それが連鎖反応を起こして,いつのまにか,みんな真剣そのもの。これが,一緒に稽古することの意味なのだろう。ひとりではこうはいかない。どこか甘えが残っていて,いとも簡単に自分を許してしまう。しかし,大勢で稽古すると,そんなことは許されない。その場の力をもらったり,また,与えたりしながら稽古場の雰囲気が盛り上がっていく。そうして,これまでできなかったことが,少しずつできるようになっていく。
太極拳の稽古をはじめたころは,李老師が毎週,手取り足取りしながら,細かい指導をしてくださった。が,いつからか,李老師が忙しくなって,毎週の指導は困難になった。仕方がないので,最初の弟子だったわたしとNさんとで自主的な稽古をつづけることにした。もちろん,Kさんも李老師不在でも,この自主稽古に参加してくれた。この3人だけでの自主稽古がしばらくつづいた。そこに,Sさんが加わり,若い二人が加わった。合計6人での稽古が,大岡山でつづいた。李老師は,数カ月に一度,ふらりと顔を出してくれる。これがとても嬉しかった。
しかし,面白いもので,李老師がそこにいるというだけで,わたしたちは緊張した。そして,いつもはできていることが急にできなくなってしまう。しかし,李老師はにこにこ笑いながら,みんな上手になった,と褒めてくれる。そして,ワン・ポイント・レッスンをしてくださる。ありがたいことだ。そして,たまにしかお目にかかれない李老師のえも言われぬ,奥の深い「動き」を脳裏に焼き付けようと必死になる。この全神経を集中させても,見えないものは見えない。しかし,あるとき,ひょいと「見える」ときがある。この瞬間こそが至福のときだ。
禅仏教の道元のことばで言えば「修証一等」である。自分の達したレベルに応じて「見える」ようになる。見えていないものを稽古しても,それは無駄である。いま,見えていることを反復練習しているうちにそれがおのずから身につく。そうすると,また,つぎの「動き」が見えてくる。道元は,修行すること(=修)と悟り(=証)とは同時に進行するもの(=一等)なので,無理に難しい修行に取り組む必要はない,と説いた。
太極拳の稽古も,ほとんど同じ構造になっている,とわたしは理解している。いま,見えていることを反復練習するのみ。そして,それが身につけば,つぎの「動き」が見えてくる。個人差はもちろんある。天才は,数段階をすっ飛ばして,つぎの「動き」が見えてくるらしい。でも,凡才であるわたしなどは,一段ずつ,見えてきたものを「わがもの」とすべく努力するのみ。だから,これまで見えなかった「動き」が見えてきたときの喜びはなにものにも代えがたい。
会場を,大岡山から溝の口に移したのは,李老師がよほどのことがないかぎり,毎週,顔を出します,と言ってくれたからだ。では,月謝を受け取ってください,とわたしたち。いやいや,一緒に稽古するだけのことなので不要,と李老師。勿体ない話。となれば,わたしたちは相当に気合を入れて,しっかりとした稽古をしなければならない。でなければ,罰が当たる。
それはともかくとして,来週からは,李老師の名人芸に触れることができる。途切れることなくからだのどこかが動きつづけている,あの不思議な名人の域に達した「動き」を見ることができる。芸事を習うということは,やはり,一流に触れることが第一だ。それは,武芸も学芸も,どの世界でも同じだ。その意味でも,わたしたちは幸せだ。太極拳の現代の名人に,じかに触れることができるのだから。
と,ここまで書いてきて,はっと気づくことがある。この太極拳の兄妹弟子もまた,並の人たちではない,ということに。世界を相手に新しい思考を切り開いている学芸の名人がいる。能面の世界にアートの新風を吹き込ませている能面アートの名人がいる。そして,出版界の大御所がいる。さらには,将来有望な若者たちがいる。おやおや,見回せば,わたし一人を除いて,みなさん大変な人たちばかりである。それはそれは,恐るべき集団ではないか。
こんな人たちに囲まれて太極拳の稽古ができること,こんな幸せなことはない。
よし,ことしは,気持ちのギアを入れ直して,稽古に取り組むことにしよう。そして,李老師に喜んでもらえるような弟子になろう。そして,なによりも,李老師がつねづね口にする「気持ちがいい」と感じられる太極拳を体験できるよう,頑張ろう。新年だから,このくらいの決意表明をしても許されるだろう。ただし,これが,新年の空手形にならないように。
さて,来週からの稽古が,いまから楽しみ。
ことしは,いい年になりますように。
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