いま,ダルビッシュ・有の記者会見が行われている。途中までテレビでみていたが,いやになって書斎に籠もる。しかし,ある一点のことが気になって,仕事が手につかない。ならば,仕方ない。それを書いて,吐き出してしまおう。
ある一点とは,「ダルビッシュ・有」という人間が「商品」として売買されていくことの,なんとも言えない居心地の悪さとでもいえばいいだろうか。プロの選手だから,なんぼのものとして値段がつけられ,商取引の対象とされることは,いまでは当たり前のことだ。サッカー選手はもっと短期間の商品として,あちこちに移籍されている実態を見せつけられているから,もう慣れっこになっている。そして,こうしたスポーツ選手の商品化はますます拡大し,底辺を拡げつつある。まだ,無名の選手に対するスカウティングは,あらゆる競技種目に広がりつつあり,その背景には金銭が蠢いている。たぶん,こうした選手の商品化は,現状では,とどめようもなく浸透していくのだろう。
そういう実態の頂点の一つとして,「ダルビッシュ・有」の商取引が,多くの人びとの耳目の対象となっている。だから,アメリカで行われている記者会見が,リアル・タイムで日本のテレビが放映している。緊張しきったダルビッシュの顔がアップで映し出され,マウンドの上にいるとき以上に,ピリピリした神経質そうな表情の一部始終が伝わってくる。このあたりは,いかにも人間・ダルビッシュが透けてみえていて,微笑ましくもある。
しかし,わたしが居心地の悪さを感じるのは,ふたつある。
ひとつは,ポスティング制度というアメリカ産の商取引のルールに,おそらくなんの疑問もいだくことなく身をゆだねていく日本のプロ野球選手たちの行動と,それを当たり前のこととして報道するジャーナリズムの姿勢である。
もうひとつは,人間の「事物化」(バタイユ)という現象が,こうして無意識のうちに,日常化し,当たり前のこととなっていくという事実に対してである。
前者のポスティング制度は,言ってみれば,TPPと同じで,アメリカの定めた商取引の基準に,あらゆる国の移籍希望の野球選手を巻き込んでいこうというものだ。文句のある奴は,ローカルな野球を楽しんでいればいい。メジャーの選手にはなれないだけの話だ,として切って捨てるシステムだ。つまり,野球のグローバリゼーション,それも,アメリカのメジャー中心のグローバリゼーション,その一翼をになう制度なのだ。こうして,なし崩し的に,アメリカのスタンダードが世界を支配していくことになる。気がついたら,もう,身動きできない状態が世界に浸透していく。「法」という名の暴力装置の発動である(「法制定的暴力」=ベンヤミン)。
それもまた,多くの人びとの無意識に働きかけるという手法によって。なぜなら,ジャーナリズムが,ポスティング制度の普及がもたらす問題点については,なんの批判もしようとしないからだ。あるいは,そんな矛盾に気づこうともしないし,気づいても無視するのが落ちだ。こうして,さらに,「法」が正当なものとして維持されていく暴力が発動する(「法維持的暴力」=ベンヤミン)。
そして,その「法」がもたらす甘い蜜を求めて,ヤクザな人間たちが虎視眈々と新たな「商品」をスカウティングし,資本家に売り込む,という図式ができあがる。ダルビッシュ・有君は,こうして,みごとな「値段」がつけられたということだ。
後者の,人間の「事物化」の問題はもっともっと深いところでの,もっとも深刻な哲学上のテーマだ。つまり,人間が「生きる」ということはどういうことなのか,という問いに突き当たる。
この議論を,いま,ここで展開するだけの余裕はないので,ごく短絡的になるけれども,結論的なことだけを述べておこう(詳しくは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読む,という一連のブログで確認していただきたい)。
バタイユに言わせれば,人間の事物化の第一歩は,人間が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に踏み込んだときにはじまる,という。だから,人間の事物化とは,きわめて,「人間的」な営みでもあるのだ。別の言い方をすれば,人間の内なる動物性を抑圧すればするほど,人間の「事物化」は進展する。文明化の過程は,まさに,人間化の過程であり,動物性から遠ざかることでもあるのだ。それを推進した原動力こそ,人間の「理性」である。
その頼みの「理性」が,どこかで,ボタンをひとつかけ違えたために,「狂気」と化すというとんでもないことが起きてしまった。それが,まさに,現代社会のあちこちで起きている,狂った現象の根幹をなすものだ。そのことに,わたしたちの多くが気づいていない,それが,まさに大問題なのだ。
しかし,原発事故をめぐるその後の展開をとおして,多くの人びとが,なにかが狂っているということに気づきはじめている。「原発安全神話」もまた,わたしたちの無意識に,意図的・計画的に働きかけられた暗示によって,でっち上げられたものだった。
「ダルビッシュ・有」という商品が,これからしばらく大きな話題となって,メディアを賑わすことだろう。しかも,それが人間の事物化に向かう動力と,深いところでつながっているのだ。多くの人びとがなにも気づかないところで。長い人類史にとっても,画期的なことのひとつとして。しかも,スポーツが人類史に大きな影響力をもつ,そういう局面に,いまわたしたちは立たされているのだ。
しかも,狂気と化した理性の延長線上に。
ある一点とは,「ダルビッシュ・有」という人間が「商品」として売買されていくことの,なんとも言えない居心地の悪さとでもいえばいいだろうか。プロの選手だから,なんぼのものとして値段がつけられ,商取引の対象とされることは,いまでは当たり前のことだ。サッカー選手はもっと短期間の商品として,あちこちに移籍されている実態を見せつけられているから,もう慣れっこになっている。そして,こうしたスポーツ選手の商品化はますます拡大し,底辺を拡げつつある。まだ,無名の選手に対するスカウティングは,あらゆる競技種目に広がりつつあり,その背景には金銭が蠢いている。たぶん,こうした選手の商品化は,現状では,とどめようもなく浸透していくのだろう。
そういう実態の頂点の一つとして,「ダルビッシュ・有」の商取引が,多くの人びとの耳目の対象となっている。だから,アメリカで行われている記者会見が,リアル・タイムで日本のテレビが放映している。緊張しきったダルビッシュの顔がアップで映し出され,マウンドの上にいるとき以上に,ピリピリした神経質そうな表情の一部始終が伝わってくる。このあたりは,いかにも人間・ダルビッシュが透けてみえていて,微笑ましくもある。
しかし,わたしが居心地の悪さを感じるのは,ふたつある。
ひとつは,ポスティング制度というアメリカ産の商取引のルールに,おそらくなんの疑問もいだくことなく身をゆだねていく日本のプロ野球選手たちの行動と,それを当たり前のこととして報道するジャーナリズムの姿勢である。
もうひとつは,人間の「事物化」(バタイユ)という現象が,こうして無意識のうちに,日常化し,当たり前のこととなっていくという事実に対してである。
前者のポスティング制度は,言ってみれば,TPPと同じで,アメリカの定めた商取引の基準に,あらゆる国の移籍希望の野球選手を巻き込んでいこうというものだ。文句のある奴は,ローカルな野球を楽しんでいればいい。メジャーの選手にはなれないだけの話だ,として切って捨てるシステムだ。つまり,野球のグローバリゼーション,それも,アメリカのメジャー中心のグローバリゼーション,その一翼をになう制度なのだ。こうして,なし崩し的に,アメリカのスタンダードが世界を支配していくことになる。気がついたら,もう,身動きできない状態が世界に浸透していく。「法」という名の暴力装置の発動である(「法制定的暴力」=ベンヤミン)。
それもまた,多くの人びとの無意識に働きかけるという手法によって。なぜなら,ジャーナリズムが,ポスティング制度の普及がもたらす問題点については,なんの批判もしようとしないからだ。あるいは,そんな矛盾に気づこうともしないし,気づいても無視するのが落ちだ。こうして,さらに,「法」が正当なものとして維持されていく暴力が発動する(「法維持的暴力」=ベンヤミン)。
そして,その「法」がもたらす甘い蜜を求めて,ヤクザな人間たちが虎視眈々と新たな「商品」をスカウティングし,資本家に売り込む,という図式ができあがる。ダルビッシュ・有君は,こうして,みごとな「値段」がつけられたということだ。
後者の,人間の「事物化」の問題はもっともっと深いところでの,もっとも深刻な哲学上のテーマだ。つまり,人間が「生きる」ということはどういうことなのか,という問いに突き当たる。
この議論を,いま,ここで展開するだけの余裕はないので,ごく短絡的になるけれども,結論的なことだけを述べておこう(詳しくは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読む,という一連のブログで確認していただきたい)。
バタイユに言わせれば,人間の事物化の第一歩は,人間が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に踏み込んだときにはじまる,という。だから,人間の事物化とは,きわめて,「人間的」な営みでもあるのだ。別の言い方をすれば,人間の内なる動物性を抑圧すればするほど,人間の「事物化」は進展する。文明化の過程は,まさに,人間化の過程であり,動物性から遠ざかることでもあるのだ。それを推進した原動力こそ,人間の「理性」である。
その頼みの「理性」が,どこかで,ボタンをひとつかけ違えたために,「狂気」と化すというとんでもないことが起きてしまった。それが,まさに,現代社会のあちこちで起きている,狂った現象の根幹をなすものだ。そのことに,わたしたちの多くが気づいていない,それが,まさに大問題なのだ。
しかし,原発事故をめぐるその後の展開をとおして,多くの人びとが,なにかが狂っているということに気づきはじめている。「原発安全神話」もまた,わたしたちの無意識に,意図的・計画的に働きかけられた暗示によって,でっち上げられたものだった。
「ダルビッシュ・有」という商品が,これからしばらく大きな話題となって,メディアを賑わすことだろう。しかも,それが人間の事物化に向かう動力と,深いところでつながっているのだ。多くの人びとがなにも気づかないところで。長い人類史にとっても,画期的なことのひとつとして。しかも,スポーツが人類史に大きな影響力をもつ,そういう局面に,いまわたしたちは立たされているのだ。
しかも,狂気と化した理性の延長線上に。
1 件のコメント:
昨日の大相撲と言い、今日の野球と言い、お相撲さんや選手の方がわきまえてますよね。
プロ野球選手の中にもポスティングシステムに疑問を抱いている選手いるようですね。選手の意志より、商品としての契約条件が先行していることにたいして…。元マリナーズの大魔神佐々木投手なんかも言ってるみたいです。
ダルビッシュ投手、本当に商品みたいな扱われ方ですね。
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