1945年3月26日,アメリカ海軍が沖縄・渡嘉敷島沖合に集結して,いわゆる「沖縄戦」の幕が切って落とされた。そして,約20万人の島民がこの「沖縄戦」の犠牲になった。それも,ただひたすら逃げまどうだけの犠牲だった。まさに,無抵抗の,無辜の島民の犠牲だ。
このことを昨年の夏,沖縄を尋ねた折に,ひめゆり記念博物館の年表で知った。その年表には,ひときわ大きな文字で「沖縄戦はじまる」と1945年3月26日のところに書いてあった。はっと虚を突かれた。なぜなら,「3月26日」はわたしの誕生日。そうか,この日だったのか,と。
1945年3月26日,わたしはどこで,なにをしていたのだろうか,と回想する。しかし,その日の具体的なできごとはなにも記憶していない。戦中のこととて,誕生日を祝うなどという余裕などまったくなかったから,それらしきことはなにもしてなかったはずである。思い出すのは,1944年6月に豊橋市で空襲に遭い,焼け出されて母の実家に疎開していたこと,学校は春休みになっていたはずであること,冬の寒さが身にしみて(着るものが十分ではなかった),冬の間はいとこたちと日向ぼっこをして遊んでいたこと,,B29が空高く飛行機雲を流しながら飛んでいたこと,ときには艦載機が飛来してきて銃撃を受けたこと,などなど。
いま,考えてみれば,このとき,すでに本土の空も海もほぼ完全にアメリカ軍に制圧されていたということだ。それは1944年6月に豊橋市が空襲に遭ったときから,すでに,そのような状態になっていたということだ。だとしたら,この段階で,「白旗」を掲げるべきだったのだ。そうすれば,沖縄戦の犠牲も,ヒロシマ・ナガサキの原爆による犠牲もなくて済まされたのだ。
ところが,時の軍政は,「一億火の玉」となって,本土決戦も辞さずの姿勢を貫いていた。この段階で,すでに,この国の支配階級は揃いもそろってみんな「狂っていた」。狂気の沙汰。まともな情況判断ができる者がだれもいなかったのだ。それが無駄な,まったく意味のない国民の犠牲を強いることになった。
本日,2015年3月26日。77歳を迎えたわたし。いま,なにをおもうか。「70年」前の,狂気の沙汰とまったく同じ情況を目の前にして愕然としている。いまのアベ政権だ。この政権は完全に狂っている。それを取り巻く執行部もみんな狂っている。自民党も狂っている。その狂気が公明党にも伝染してしまって,やはり,この党も狂っている。野党も大同小異,みんな狂っている。だから,アベ政権の「暴走」をだれも止められない。反論もできない。
そして,ひたすら「戦争のできる国家」をめざしてまっしぐら。
悲劇は,ジャーナリストまで狂ってしまったことだ。真っ正面から政権批判のできる大手メディアは皆無である。完全に政権与党にコントロールされてしまっている。NHKを筆頭に。
そうして,たったこの2年ほどの間に,国家のありようが急変してしまった。閣議決定で憲法をも無視して,戦争の準備に入るための法令をつぎつぎに成立させている。気づいてみれば「わが軍」を語るトチ狂った総理大臣が登場し,それを「なんら問題ない」と擁護する官房長官がいて,それを傍観しているジャーナリストがいて,茹でガエル化してしまった国民は無反応のまま。ただ,無為のまま,流れに身をゆだね「平然」としている。この異常さ,この狂気にも,なんの違和感も感じないままに・・・・。
77歳にして,こんな日本国の,こんな狂い方をした姿をみることになるとは夢にもおもわなかった。少なくとも「憲法9条」だけは遵守されるものと信じていた。しかし,狂った国民もまた51%が「憲法改正(改悪)に賛成」している,と読売新聞。こちらもまた政権党に肩入れしながら,せっせと世論操作(調査ではない!)に励んでいる。この操作にも,国民の多くは気づいてもいない。
こんな暗い気分で3月26日を迎えようという前日の25日に,訃報が飛び込んできた。沖縄の「うりずん」の当主・土屋實幸さんが亡くなられた,と。しかも,わたしと同じ胃ガンで。昨年の8月,わたしは「うりずん」本店でお会いしている。そして,一緒に泡盛を酌み交わしている。なのに,その一週間後には,入院。それっきりで,一旦は退院したが,やはり駄目だったらしい,と。あまりに早い。わたしよりもあとに発症して,さきに逝ってしまわれた。とても,他人事ではない。
折しも,辺野古新基地建設をめぐって,とうとう政府と沖縄県とが真っ向から対立。このままでは泥沼化する気配。事態は深刻だ。このまま政府が強行突破を図ろうとすればするほど,沖縄県民の意思は一つに固まっていく。もはや,日本国は当てにならない。沖縄県独自の生き延びる道を模索することに・・・。つまるところ,日本国からの分離・独立を視野に入れた運動の展開だ。まったく新しい時代の幕が切って落とされようとしている。
そんな,過去の歴史にもみられなかった,もっとも緊迫した情況のなかで沖縄県民は「70年」という節目の年を迎える。わたし個人にとっても「77年」という節目の年だ。そして,わたしの娘にとってはかけがえのない「沖縄のお父さん」を見送る日に。
忘れられない日になりそうだ。合掌。
このことを昨年の夏,沖縄を尋ねた折に,ひめゆり記念博物館の年表で知った。その年表には,ひときわ大きな文字で「沖縄戦はじまる」と1945年3月26日のところに書いてあった。はっと虚を突かれた。なぜなら,「3月26日」はわたしの誕生日。そうか,この日だったのか,と。
1945年3月26日,わたしはどこで,なにをしていたのだろうか,と回想する。しかし,その日の具体的なできごとはなにも記憶していない。戦中のこととて,誕生日を祝うなどという余裕などまったくなかったから,それらしきことはなにもしてなかったはずである。思い出すのは,1944年6月に豊橋市で空襲に遭い,焼け出されて母の実家に疎開していたこと,学校は春休みになっていたはずであること,冬の寒さが身にしみて(着るものが十分ではなかった),冬の間はいとこたちと日向ぼっこをして遊んでいたこと,,B29が空高く飛行機雲を流しながら飛んでいたこと,ときには艦載機が飛来してきて銃撃を受けたこと,などなど。
いま,考えてみれば,このとき,すでに本土の空も海もほぼ完全にアメリカ軍に制圧されていたということだ。それは1944年6月に豊橋市が空襲に遭ったときから,すでに,そのような状態になっていたということだ。だとしたら,この段階で,「白旗」を掲げるべきだったのだ。そうすれば,沖縄戦の犠牲も,ヒロシマ・ナガサキの原爆による犠牲もなくて済まされたのだ。
ところが,時の軍政は,「一億火の玉」となって,本土決戦も辞さずの姿勢を貫いていた。この段階で,すでに,この国の支配階級は揃いもそろってみんな「狂っていた」。狂気の沙汰。まともな情況判断ができる者がだれもいなかったのだ。それが無駄な,まったく意味のない国民の犠牲を強いることになった。
本日,2015年3月26日。77歳を迎えたわたし。いま,なにをおもうか。「70年」前の,狂気の沙汰とまったく同じ情況を目の前にして愕然としている。いまのアベ政権だ。この政権は完全に狂っている。それを取り巻く執行部もみんな狂っている。自民党も狂っている。その狂気が公明党にも伝染してしまって,やはり,この党も狂っている。野党も大同小異,みんな狂っている。だから,アベ政権の「暴走」をだれも止められない。反論もできない。
そして,ひたすら「戦争のできる国家」をめざしてまっしぐら。
悲劇は,ジャーナリストまで狂ってしまったことだ。真っ正面から政権批判のできる大手メディアは皆無である。完全に政権与党にコントロールされてしまっている。NHKを筆頭に。
そうして,たったこの2年ほどの間に,国家のありようが急変してしまった。閣議決定で憲法をも無視して,戦争の準備に入るための法令をつぎつぎに成立させている。気づいてみれば「わが軍」を語るトチ狂った総理大臣が登場し,それを「なんら問題ない」と擁護する官房長官がいて,それを傍観しているジャーナリストがいて,茹でガエル化してしまった国民は無反応のまま。ただ,無為のまま,流れに身をゆだね「平然」としている。この異常さ,この狂気にも,なんの違和感も感じないままに・・・・。
77歳にして,こんな日本国の,こんな狂い方をした姿をみることになるとは夢にもおもわなかった。少なくとも「憲法9条」だけは遵守されるものと信じていた。しかし,狂った国民もまた51%が「憲法改正(改悪)に賛成」している,と読売新聞。こちらもまた政権党に肩入れしながら,せっせと世論操作(調査ではない!)に励んでいる。この操作にも,国民の多くは気づいてもいない。
こんな暗い気分で3月26日を迎えようという前日の25日に,訃報が飛び込んできた。沖縄の「うりずん」の当主・土屋實幸さんが亡くなられた,と。しかも,わたしと同じ胃ガンで。昨年の8月,わたしは「うりずん」本店でお会いしている。そして,一緒に泡盛を酌み交わしている。なのに,その一週間後には,入院。それっきりで,一旦は退院したが,やはり駄目だったらしい,と。あまりに早い。わたしよりもあとに発症して,さきに逝ってしまわれた。とても,他人事ではない。
折しも,辺野古新基地建設をめぐって,とうとう政府と沖縄県とが真っ向から対立。このままでは泥沼化する気配。事態は深刻だ。このまま政府が強行突破を図ろうとすればするほど,沖縄県民の意思は一つに固まっていく。もはや,日本国は当てにならない。沖縄県独自の生き延びる道を模索することに・・・。つまるところ,日本国からの分離・独立を視野に入れた運動の展開だ。まったく新しい時代の幕が切って落とされようとしている。
そんな,過去の歴史にもみられなかった,もっとも緊迫した情況のなかで沖縄県民は「70年」という節目の年を迎える。わたし個人にとっても「77年」という節目の年だ。そして,わたしの娘にとってはかけがえのない「沖縄のお父さん」を見送る日に。
忘れられない日になりそうだ。合掌。
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