書名のタイトルに惹かれ,表紙帯のキャッチ・コピーにやられた。わたしは自分勝手に本の内容を想像してしまったからだ。
『れるられる』。まずは,このタイトルの巧さに参った。おお,存在論か,と。人間は「れる」でもあり,「られる」でもある。この二つの間を往来しながら,つまりはあやうくバランスをとりながら,みずからの「生」をまっとうする生きものだ。と,これはわたしの解釈。だから,最相葉月も,とうとうそこに踏み込んだか,と。
そして,キャッチ・コピーを読んでわたしは確信してしまった。思わず「オーッ」と声を出してしまった。このコピーがまた巧すぎる。引いておこう。
する。
される。
する。
どちらかに
落ちる時が,
ある。
なんとまあ淫らな・・・。恥ずかしながら,わたしは卑猥な妄想をふくらませてしまった。なぜなら,この境地こそが「存在論」の極致だ,とかねがね考えてきたからだ。しかし,まともな哲学者はだれひとりとしてこのテーマを真っ正面に据えてこなかった。ただひとり,ジョルジュ・バタイユだけは違った。かれの存在論のキー・コンセプトは「エクスターズ」だ。つまり,バタイユの「恍惚」だ。自己の境界線を踏み越えて他者の領域と渾然一体化していく。自己が自己でなくなる臨界点。その境界領域にこそ人間存在の根源をみる。
有体に言ってしまえば,その一つの現象はそのものずばり「セックス」だ。バタイユには『エロチシズム』と『エロチシズムの歴史』という大部の著作がある。こちらを念頭においていただければ,わたしの言おうとしていることは理解していただけるだろう。
だから,上に引いたキャッチ・コピーをみた瞬間に,「おお,バタイユではないか」と閃いてしまった。そうか,最相葉月も,ついにバタイユの境地に達したか,と勝手に納得してしまったのだ。
しかし,わたしの「思い込み」は完全に裏切られてしまった。まったく予想だにしなかった内容だったから。どんな内容なのか。ここも表紙カバーのコピーを引いておこう。
人生の受動と能動が転換する,その境目を,六つの動詞でつづった連作短編集的エッセイ。
どうやって生まれるのか。誰にささえられるのか。いつ狂うのか。なぜ絶つのか。
本当に聞いているのか。
そして,あなたはだれかに愛されていますか?
だれかを愛していますか?
れる/られる,どちらかに落ちる時が,ある──。
その六つの風景。
この六つの風景が,一つひとつ,また強烈なメッセージ性を帯びている。
「生む・生まれる」では,出生前診断を取り上げ,異常が見つかったときに「生むか,生まないか」をめぐる問題の所在を克明にたどっていく。
「支える・支えられる」では,東日本大震災をはじめとする災害時に起こる「支える」人と「支えられる」人との関係性について,一筋縄では片づけられない難問に挑む。
「狂う・狂わされる」では,精神を病む人の問題をとりあげ,母親の病いも,そして,みずからも「双極性障害Ⅱ型」(躁鬱症の一種)であることも告白しながら,「狂う」境界領域の問題に肉薄していく。迫力満点だ。
「絶つ・絶たれる」では,バイオテクノロジーの最先端で研究に従事する「ポストドクター」の置かれている苛酷な情況と,この人たちが自死に追い込まれていくプロセスを追う。
「聞く・聞かれる」では,眼を閉じた耳だけの世界の,無限に広がる可能性を追求している。視角がいかに人間の世界を限定してしまっているのか,人間の声を軽視しているかを問題にする。いささか意表をつかれる展開になっている。
最後の「愛する・愛される」では,田宮虎彦の描く「愛の世界」をとりあげ,詩と真実に迫っていく。そして,最後に田宮虎彦が自殺してしまう背景になにがあったのかをつきつめていく。
どれもこれも秀逸な作品ばかりである。そして,そのインパクトがあまりに強烈なために,わたしは目眩を覚え,おやおやこんなエッセイ集だったのか,と勘違いしてしまった。しかし,よくよく考えてみれば,どれもこれもみんな立派な「存在論」ではないか。しかも,それぞれの局面での極限情況が描かれていて,人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いをいずれの作品も発しつづけている。
こうして,読後もまた,一本とられてしまった。最相葉月の「一本背負い」に。
そして,キャッチ・コピーを読んでわたしは確信してしまった。思わず「オーッ」と声を出してしまった。このコピーがまた巧すぎる。引いておこう。
する。
される。
する。
どちらかに
落ちる時が,
ある。
なんとまあ淫らな・・・。恥ずかしながら,わたしは卑猥な妄想をふくらませてしまった。なぜなら,この境地こそが「存在論」の極致だ,とかねがね考えてきたからだ。しかし,まともな哲学者はだれひとりとしてこのテーマを真っ正面に据えてこなかった。ただひとり,ジョルジュ・バタイユだけは違った。かれの存在論のキー・コンセプトは「エクスターズ」だ。つまり,バタイユの「恍惚」だ。自己の境界線を踏み越えて他者の領域と渾然一体化していく。自己が自己でなくなる臨界点。その境界領域にこそ人間存在の根源をみる。
有体に言ってしまえば,その一つの現象はそのものずばり「セックス」だ。バタイユには『エロチシズム』と『エロチシズムの歴史』という大部の著作がある。こちらを念頭においていただければ,わたしの言おうとしていることは理解していただけるだろう。
だから,上に引いたキャッチ・コピーをみた瞬間に,「おお,バタイユではないか」と閃いてしまった。そうか,最相葉月も,ついにバタイユの境地に達したか,と勝手に納得してしまったのだ。
しかし,わたしの「思い込み」は完全に裏切られてしまった。まったく予想だにしなかった内容だったから。どんな内容なのか。ここも表紙カバーのコピーを引いておこう。
人生の受動と能動が転換する,その境目を,六つの動詞でつづった連作短編集的エッセイ。
どうやって生まれるのか。誰にささえられるのか。いつ狂うのか。なぜ絶つのか。
本当に聞いているのか。
そして,あなたはだれかに愛されていますか?
だれかを愛していますか?
れる/られる,どちらかに落ちる時が,ある──。
その六つの風景。
この六つの風景が,一つひとつ,また強烈なメッセージ性を帯びている。
「生む・生まれる」では,出生前診断を取り上げ,異常が見つかったときに「生むか,生まないか」をめぐる問題の所在を克明にたどっていく。
「支える・支えられる」では,東日本大震災をはじめとする災害時に起こる「支える」人と「支えられる」人との関係性について,一筋縄では片づけられない難問に挑む。
「狂う・狂わされる」では,精神を病む人の問題をとりあげ,母親の病いも,そして,みずからも「双極性障害Ⅱ型」(躁鬱症の一種)であることも告白しながら,「狂う」境界領域の問題に肉薄していく。迫力満点だ。
「絶つ・絶たれる」では,バイオテクノロジーの最先端で研究に従事する「ポストドクター」の置かれている苛酷な情況と,この人たちが自死に追い込まれていくプロセスを追う。
「聞く・聞かれる」では,眼を閉じた耳だけの世界の,無限に広がる可能性を追求している。視角がいかに人間の世界を限定してしまっているのか,人間の声を軽視しているかを問題にする。いささか意表をつかれる展開になっている。
最後の「愛する・愛される」では,田宮虎彦の描く「愛の世界」をとりあげ,詩と真実に迫っていく。そして,最後に田宮虎彦が自殺してしまう背景になにがあったのかをつきつめていく。
どれもこれも秀逸な作品ばかりである。そして,そのインパクトがあまりに強烈なために,わたしは目眩を覚え,おやおやこんなエッセイ集だったのか,と勘違いしてしまった。しかし,よくよく考えてみれば,どれもこれもみんな立派な「存在論」ではないか。しかも,それぞれの局面での極限情況が描かれていて,人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いをいずれの作品も発しつづけている。
こうして,読後もまた,一本とられてしまった。最相葉月の「一本背負い」に。
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