「欲しがりません,勝つまでは」などと書くと,年配の人たちに叱られそうですが,それでもあえて書きます。若い人にはなんのことか通じないかもしれませんが・・・。
なので,まずは,若い人たちのために。このことばは,第二次世界大戦中に国家が国民に言わせた標語です。つまり,アメリカとの戦争に勝つまでは,贅沢はいいません。我慢します,という誓いのことばです。わたしが国民学校(いまの小学校のこと)に入学したころには,毎日のように,朝礼で言わされました。家でも「わがままを言っているときではありません。戦争に勝つまでは」とよく注意されたものです。そして,防空頭巾に身を固めて,隊列を組んで通学したものです。上級生の言うことには絶対服従でした。食べものも着るものも足りません。配給でした。それでもみんなじっと我慢し,耐えていました。みんなそうだったから。そして,情報も大本営発表だけが唯一,正しい情報とされました。要するに,みんな「洗脳」されていただけの話ですが・・・。
いま,また,そういう時代に急転回させようと政府自民党がやっきになっています。困ったものです。
このスローガンを,まったく逆の意味で,いま一度,蘇らせたい。なぜなら,いま,日本国はたいへんな「敵」と戦っている,戦争の真っ最中なのですから。いまや,日本国はいやがおうでも二つの戦争と向き合う戦時体制にあるのですから。その戦場は,いうまでもなく一つはフクシマ。もう一つはオキナワ。いま,まさに,前代未聞の恐るべき強敵との戦闘中なのです。なのに,政府自民党は,この国家の一大事に対して「無責任」な姿勢を貫いています。その行為は,もはや,犯罪的ですらあると言っても過言ではありません。
今日(3月11日)は,あれから4年,かたときも忘れることのできない/忘れてはならない祈念日。この日が近づくと,お念仏のように各種のメディアがほんの少しだけ,お義理のような報道をする。それが過ぎるとまた「みてみぬふり」。喉元過ぎれば熱さ忘れる,の俚言のとおり,情報がほとんど流れなくなる。だから,国民のほとんどの人も意識から遠ざかり,いつのまにか忘れてしまう。いわゆる記憶の「風化」。
政府・東電にいたっては,意図的・計画的に「風化」させることに必死だ。臭いものにはフタ。隠しても隠しきれなかったことだけを「公表」し,あとは知らぬ顔。問題をさきのばし。しかも,明らかに犯罪ではないかとおもわれる過失・瑕疵があっても,だれも責任をとろうともしない。検察も,問題の所在を追求し,その責任をまっとうしようという姿勢も示さない。要するに,政・財・官が三位一体となって,責任逃れのタッグを組んでいる。ここに,いまや,法曹界(裁判所)も加わろうという勢いです。
もはや,救いようのない,とんでもない国家になりさがってしまっているのです。
政治の腐敗(アベ君の暴走を止めようとする政治家がいない。なんと情けないことか。野党もふくめて),ジャーナリズムの怠慢(あるいは,死。すなわち総右傾化。権力のいいなり),学界の頽廃(補助金欲しさに権力にすり寄り,ご機嫌とり)。
もはや,救いようがない。
オキナワについても,まったく同様だ。あれほど明確に「民意」が示されたにもかかわらず,政府自民党は完全無視だ。選挙という,もっとも民主主義的で正当な方法によって「辺野古移設反対」がもののみごとに表明されたのに,だ。政府自民党の執行部は,沖縄県知事・翁長氏が面会を求めても,だれも会おうともしない。「忙しい」という子ども騙しのような理由で。馬鹿にするのもいい加減にせよ。直接,会って,説得できる論理がなにもないから,まともな顔では会えないのだ。だから,ただ,いたずらに逃げ回っているだけなのだ。
しかも,連日,辺野古や東村では住民たちによる粘り強い反対運動が展開されている。その反対運動にも無謀な「取り締まり」が国家権力の手によって展開されている。圧倒的な暴力によって。その一方では,沖縄県が認可した「計画書」にも記載されていない工事(たとえば,指定海域外でのトンブロックによる珊瑚の破壊)が,「ルールに則って粛々と」(菅官房長官発言)行われている。
これらの情報は地元紙の『沖縄タイムス』や『琉球新報』では,連日,詳細に報じられている。そして,量・質とも落ちるものの『東京新聞』もつとめて記事を書いている。が,その他の新聞・テレビは,みんな「みてみぬ」ふりをしている。時折,お義理で,ほんの少し情報を流す程度。そこには正当なジャーナリズム精神に則った「批評」が欠落している。
その穴を埋めているのが,インターネット情報だ。玉石混淆だと批判もあるが,身元のたしかな情報ネットワークを構築すれば,上質な情報がつぎつぎに飛び込んでくる。それらを読んでいると,空恐ろしくなってくる。つまり,権力にとって都合の悪い情報はことごとく秘匿され,国民の眼に触れないようにしている構造がまるみえになってくるからだ。秘匿された情報というものは,思いがけないところから「亡霊」のように,ある日,突然,顔を出す。それは歴史が証明済みだ。
長くなってきましたので,そろそろ終わりにします。
ことほど左様に,日本国はいま国内戦争の真っ最中なのです。この未曾有の戦争の決着をみるまでは,「経済」(アベノミクスなどというような眼くらましにも等しい子供騙しの稚拙な経済政策)などという甘い汁に惑わされていてはならない。いまは戦時中なのだから,「欲しがりません,勝つまでは」の精神で,ここはじっと耐えて(贅沢に),忍ぶことが先決です。そして,一つはフクシマの原発処理と復興の早期達成をめざし,もう一つはオキナワの基地移設問題を国民的議論に押し上げていくことです。
このままでは,フクシマとオキナワという弱者にすべてを押しつけて,われ関せず,という国民が圧倒的多数を占めてしまうことになります。それこそが政府自民党が狙っているところです。すでに,そうなりつつありますが・・・。
そうはさせてはなりません。どんなことがあっても阻止しなくてはなりません。
少なくとも,今日「3月11日」,一日だけは,しっかりと気持をフクシマに向けることにしよう。そして,沖縄県民の多くの人びとがフクシマの被災者たちに向けて救いの手を差し伸べているという事実にも,心静かに気持を向けることにしよう。そして,ささやかでもいい。そういう意思をどこかで表明し,行動しよう。そんな一日にしたいとおもいます。今日,一日だけでも。
なので,まずは,若い人たちのために。このことばは,第二次世界大戦中に国家が国民に言わせた標語です。つまり,アメリカとの戦争に勝つまでは,贅沢はいいません。我慢します,という誓いのことばです。わたしが国民学校(いまの小学校のこと)に入学したころには,毎日のように,朝礼で言わされました。家でも「わがままを言っているときではありません。戦争に勝つまでは」とよく注意されたものです。そして,防空頭巾に身を固めて,隊列を組んで通学したものです。上級生の言うことには絶対服従でした。食べものも着るものも足りません。配給でした。それでもみんなじっと我慢し,耐えていました。みんなそうだったから。そして,情報も大本営発表だけが唯一,正しい情報とされました。要するに,みんな「洗脳」されていただけの話ですが・・・。
いま,また,そういう時代に急転回させようと政府自民党がやっきになっています。困ったものです。
このスローガンを,まったく逆の意味で,いま一度,蘇らせたい。なぜなら,いま,日本国はたいへんな「敵」と戦っている,戦争の真っ最中なのですから。いまや,日本国はいやがおうでも二つの戦争と向き合う戦時体制にあるのですから。その戦場は,いうまでもなく一つはフクシマ。もう一つはオキナワ。いま,まさに,前代未聞の恐るべき強敵との戦闘中なのです。なのに,政府自民党は,この国家の一大事に対して「無責任」な姿勢を貫いています。その行為は,もはや,犯罪的ですらあると言っても過言ではありません。
今日(3月11日)は,あれから4年,かたときも忘れることのできない/忘れてはならない祈念日。この日が近づくと,お念仏のように各種のメディアがほんの少しだけ,お義理のような報道をする。それが過ぎるとまた「みてみぬふり」。喉元過ぎれば熱さ忘れる,の俚言のとおり,情報がほとんど流れなくなる。だから,国民のほとんどの人も意識から遠ざかり,いつのまにか忘れてしまう。いわゆる記憶の「風化」。
政府・東電にいたっては,意図的・計画的に「風化」させることに必死だ。臭いものにはフタ。隠しても隠しきれなかったことだけを「公表」し,あとは知らぬ顔。問題をさきのばし。しかも,明らかに犯罪ではないかとおもわれる過失・瑕疵があっても,だれも責任をとろうともしない。検察も,問題の所在を追求し,その責任をまっとうしようという姿勢も示さない。要するに,政・財・官が三位一体となって,責任逃れのタッグを組んでいる。ここに,いまや,法曹界(裁判所)も加わろうという勢いです。
もはや,救いようのない,とんでもない国家になりさがってしまっているのです。
政治の腐敗(アベ君の暴走を止めようとする政治家がいない。なんと情けないことか。野党もふくめて),ジャーナリズムの怠慢(あるいは,死。すなわち総右傾化。権力のいいなり),学界の頽廃(補助金欲しさに権力にすり寄り,ご機嫌とり)。
もはや,救いようがない。
オキナワについても,まったく同様だ。あれほど明確に「民意」が示されたにもかかわらず,政府自民党は完全無視だ。選挙という,もっとも民主主義的で正当な方法によって「辺野古移設反対」がもののみごとに表明されたのに,だ。政府自民党の執行部は,沖縄県知事・翁長氏が面会を求めても,だれも会おうともしない。「忙しい」という子ども騙しのような理由で。馬鹿にするのもいい加減にせよ。直接,会って,説得できる論理がなにもないから,まともな顔では会えないのだ。だから,ただ,いたずらに逃げ回っているだけなのだ。
しかも,連日,辺野古や東村では住民たちによる粘り強い反対運動が展開されている。その反対運動にも無謀な「取り締まり」が国家権力の手によって展開されている。圧倒的な暴力によって。その一方では,沖縄県が認可した「計画書」にも記載されていない工事(たとえば,指定海域外でのトンブロックによる珊瑚の破壊)が,「ルールに則って粛々と」(菅官房長官発言)行われている。
これらの情報は地元紙の『沖縄タイムス』や『琉球新報』では,連日,詳細に報じられている。そして,量・質とも落ちるものの『東京新聞』もつとめて記事を書いている。が,その他の新聞・テレビは,みんな「みてみぬ」ふりをしている。時折,お義理で,ほんの少し情報を流す程度。そこには正当なジャーナリズム精神に則った「批評」が欠落している。
その穴を埋めているのが,インターネット情報だ。玉石混淆だと批判もあるが,身元のたしかな情報ネットワークを構築すれば,上質な情報がつぎつぎに飛び込んでくる。それらを読んでいると,空恐ろしくなってくる。つまり,権力にとって都合の悪い情報はことごとく秘匿され,国民の眼に触れないようにしている構造がまるみえになってくるからだ。秘匿された情報というものは,思いがけないところから「亡霊」のように,ある日,突然,顔を出す。それは歴史が証明済みだ。
長くなってきましたので,そろそろ終わりにします。
ことほど左様に,日本国はいま国内戦争の真っ最中なのです。この未曾有の戦争の決着をみるまでは,「経済」(アベノミクスなどというような眼くらましにも等しい子供騙しの稚拙な経済政策)などという甘い汁に惑わされていてはならない。いまは戦時中なのだから,「欲しがりません,勝つまでは」の精神で,ここはじっと耐えて(贅沢に),忍ぶことが先決です。そして,一つはフクシマの原発処理と復興の早期達成をめざし,もう一つはオキナワの基地移設問題を国民的議論に押し上げていくことです。
このままでは,フクシマとオキナワという弱者にすべてを押しつけて,われ関せず,という国民が圧倒的多数を占めてしまうことになります。それこそが政府自民党が狙っているところです。すでに,そうなりつつありますが・・・。
そうはさせてはなりません。どんなことがあっても阻止しなくてはなりません。
少なくとも,今日「3月11日」,一日だけは,しっかりと気持をフクシマに向けることにしよう。そして,沖縄県民の多くの人びとがフクシマの被災者たちに向けて救いの手を差し伸べているという事実にも,心静かに気持を向けることにしよう。そして,ささやかでもいい。そういう意思をどこかで表明し,行動しよう。そんな一日にしたいとおもいます。今日,一日だけでも。
0 件のコメント:
コメントを投稿