沖縄・那覇市栄町に本店を構える「うりずん」の店主・土屋實幸さんが,わたしと同じ病いに倒れ,わたしよりもさきに逝ってしまわれた。わたしよりも少し若く,わたしよりも半年あとに発病(発覚)したにもかかわらず,さきに逝ってしまわれた。痛恨の極み。
昨年の8月下旬に,久しぶりに娘の住んでいる沖縄を尋ねた。術後の抗ガン剤治療に入っていた段階で,まだまだ本調子ではなかった。でも,家に籠もっているよりは遠くにでかけ,元気であることをアピールした方が身のためとおもい,思い切って那覇まで飛んだ。懐かしい人たちにご無沙汰を詫び,旧交を温め,会話を楽しむために。
わたしの手帳の記録によれば,昨年の8月22日(金),那覇に到着した日の夜,まっさきに「うりずん」本店を尋ねている。土屋さんは,いつものように満面の笑顔で,わたしたちを迎えてくださった。そして,いつものように冗談を交わしながらも,ときおり,ハッとさせられることばをわたしに向けて発してくる。この人はいつも平然とした顔をしていながら,深くものごとを考えている人だった。だから,わたしに向けても容赦はなかった。嘘の嫌いな人だった。だから,わたしに対しても,いつも,最後の極めつけのところは本音のことばが飛び出した。えがたい人だった。温かいハートと厳しさを兼ね備えた人だった。
泡盛をこよなく愛した人で,百年古酒の会を組織し,百年後の泡盛の隆盛を夢見たロマンチストだ。そして,実際にも,百年後に開封する泡盛を名護の山の中に大量に仕込んだ人だ。つまり,有言実行の人だった。もともと,「うりずん」を創業するときのコンセプトが,沖縄のすべての泡盛を店に並べ,お客さんに楽しんでもらうことだった,という。そして,沖縄の,いや,琉球の美味しい料理を極め,お客さんに提供することだった,という。あるとき,「わたしは味覚の名人」です,これだけは自慢できる,とわたしに笑いながら話されたことがある。そのことばのとおり,伝統的な琉球料理を復活させることにも,ひとしなみでない情熱を傾けた人である。
土屋さんとの思い出はつきない。これは大事にしまっておいて,息子さんの徹さんや,娘さんの光代さんとお会いしたときに,とっぷりと語るための宝物にしておこう。
3月24日午後7時,息を引き取られた(3月26日の東京の新聞にも報道されたので,多くの人も知るところ)。25日の夜,お通夜からもどったばかりの娘から憔悴した声の電話が入る。1時間以上も話し込んでいるうちに,電話の子機の電池切れとなり,かけ直す。徹さんや光代さんとも話ができた,とそのときの様子も話してくれた。25日・26日と通夜式。27日(金)午前9時出棺。午後3時告別式。このスケジュールを聞いて,大急ぎで那覇に飛ぶ算段に入る。
しかし,どう算段してみても身動きがとれないことがわかる。26日までには,いま,とりかかっている研究紀要「スポートロジイ」の「編集後記」と「巻頭言」を書き上げなくてはならない。そして,27日締め切りの原稿が1本。28日(土)は大阪で月例研究会。もどってきて,すぐに山のような初校ゲラの校正にとりかからなくてはならない。飛行機は春休みで,どの便もすでに満席。空港でキャンセル待ちをするしか方法はない,とわかる。おまけに,ほぼ,一カ月近くの間,体力の限界ぎりぎりのところまで追い込んでいる。
これは,どう考えてみても,わたしのからだがもたない。土屋さんには娘の親代わりになってくれるほどのお世話になったご恩がある。なにをおいてもお別れのご挨拶には行かねばならない,大きな義理がある。しかし,それが叶わないとわかり,がっくり。
この思いが土屋さんに伝わったのか,奇跡的に仕事がはかどり,どたばたの原稿にしては満足のいくできばえとなった(と信じている)。25日の深夜の仕事も,26日,27日の仕事も,ずっと思いは土屋さんとの思い出に引きよせられ,しばしば,中断した。しかし,その反面,驚くべき集中力に後押しされて,あっという間に原稿が進んだ。
折しも,3月26日はわたしの77歳の誕生日。喜寿だ。しかし,そんなことをしている猶予は最初からなかったので,計画も立てなかった。また,やる気もなかった。それどころではない,その他の事情もあった。しかし,メールでは20人以上もの人からお祝いのことばをいただいた。この応答だけでも一仕事であった。でも,こういう人たちがいてくださるということは心強くもおもった。
「70年」前の3月26日は,米軍による沖縄上陸作戦開始の日。慶良間諸島の海が米軍の艦船で埋めつくされるほどの大群が押し寄せた。撃戦地となった渡嘉敷島は大きな犠牲者を出すことになった。先年,訪ねた折には,胸が痛んだ。同時に,エメラルド・グリーンに輝く海が,太陽の移動とともにさまざまな顔をみせる,大自然のアートにも感動した。
こんなタイミングを計ったかのように,土屋さんは逝かれた。
3月末のこの時期は,わたしの誕生日もさることながら,さまざまなメモリアル・デーが折り重なる大事な日々となりそうだ。そして,毎年,その回想にふけることになるのだろう。かく申すわたし自身も,あと何回,こういう回想をめぐらすことができるのか,心もとないかぎりではある。
与えられた命を大切に,そして,心静かに「生ききる/死にきる」ことに専念したいとおもう。
土屋實幸さんのご冥福をこころから祈りたい。そして,こころからのお礼を申しあげたい。ありがとうございました。合掌。
昨年の8月下旬に,久しぶりに娘の住んでいる沖縄を尋ねた。術後の抗ガン剤治療に入っていた段階で,まだまだ本調子ではなかった。でも,家に籠もっているよりは遠くにでかけ,元気であることをアピールした方が身のためとおもい,思い切って那覇まで飛んだ。懐かしい人たちにご無沙汰を詫び,旧交を温め,会話を楽しむために。
わたしの手帳の記録によれば,昨年の8月22日(金),那覇に到着した日の夜,まっさきに「うりずん」本店を尋ねている。土屋さんは,いつものように満面の笑顔で,わたしたちを迎えてくださった。そして,いつものように冗談を交わしながらも,ときおり,ハッとさせられることばをわたしに向けて発してくる。この人はいつも平然とした顔をしていながら,深くものごとを考えている人だった。だから,わたしに向けても容赦はなかった。嘘の嫌いな人だった。だから,わたしに対しても,いつも,最後の極めつけのところは本音のことばが飛び出した。えがたい人だった。温かいハートと厳しさを兼ね備えた人だった。
泡盛をこよなく愛した人で,百年古酒の会を組織し,百年後の泡盛の隆盛を夢見たロマンチストだ。そして,実際にも,百年後に開封する泡盛を名護の山の中に大量に仕込んだ人だ。つまり,有言実行の人だった。もともと,「うりずん」を創業するときのコンセプトが,沖縄のすべての泡盛を店に並べ,お客さんに楽しんでもらうことだった,という。そして,沖縄の,いや,琉球の美味しい料理を極め,お客さんに提供することだった,という。あるとき,「わたしは味覚の名人」です,これだけは自慢できる,とわたしに笑いながら話されたことがある。そのことばのとおり,伝統的な琉球料理を復活させることにも,ひとしなみでない情熱を傾けた人である。
土屋さんとの思い出はつきない。これは大事にしまっておいて,息子さんの徹さんや,娘さんの光代さんとお会いしたときに,とっぷりと語るための宝物にしておこう。
3月24日午後7時,息を引き取られた(3月26日の東京の新聞にも報道されたので,多くの人も知るところ)。25日の夜,お通夜からもどったばかりの娘から憔悴した声の電話が入る。1時間以上も話し込んでいるうちに,電話の子機の電池切れとなり,かけ直す。徹さんや光代さんとも話ができた,とそのときの様子も話してくれた。25日・26日と通夜式。27日(金)午前9時出棺。午後3時告別式。このスケジュールを聞いて,大急ぎで那覇に飛ぶ算段に入る。
しかし,どう算段してみても身動きがとれないことがわかる。26日までには,いま,とりかかっている研究紀要「スポートロジイ」の「編集後記」と「巻頭言」を書き上げなくてはならない。そして,27日締め切りの原稿が1本。28日(土)は大阪で月例研究会。もどってきて,すぐに山のような初校ゲラの校正にとりかからなくてはならない。飛行機は春休みで,どの便もすでに満席。空港でキャンセル待ちをするしか方法はない,とわかる。おまけに,ほぼ,一カ月近くの間,体力の限界ぎりぎりのところまで追い込んでいる。
これは,どう考えてみても,わたしのからだがもたない。土屋さんには娘の親代わりになってくれるほどのお世話になったご恩がある。なにをおいてもお別れのご挨拶には行かねばならない,大きな義理がある。しかし,それが叶わないとわかり,がっくり。
この思いが土屋さんに伝わったのか,奇跡的に仕事がはかどり,どたばたの原稿にしては満足のいくできばえとなった(と信じている)。25日の深夜の仕事も,26日,27日の仕事も,ずっと思いは土屋さんとの思い出に引きよせられ,しばしば,中断した。しかし,その反面,驚くべき集中力に後押しされて,あっという間に原稿が進んだ。
折しも,3月26日はわたしの77歳の誕生日。喜寿だ。しかし,そんなことをしている猶予は最初からなかったので,計画も立てなかった。また,やる気もなかった。それどころではない,その他の事情もあった。しかし,メールでは20人以上もの人からお祝いのことばをいただいた。この応答だけでも一仕事であった。でも,こういう人たちがいてくださるということは心強くもおもった。
「70年」前の3月26日は,米軍による沖縄上陸作戦開始の日。慶良間諸島の海が米軍の艦船で埋めつくされるほどの大群が押し寄せた。撃戦地となった渡嘉敷島は大きな犠牲者を出すことになった。先年,訪ねた折には,胸が痛んだ。同時に,エメラルド・グリーンに輝く海が,太陽の移動とともにさまざまな顔をみせる,大自然のアートにも感動した。
こんなタイミングを計ったかのように,土屋さんは逝かれた。
3月末のこの時期は,わたしの誕生日もさることながら,さまざまなメモリアル・デーが折り重なる大事な日々となりそうだ。そして,毎年,その回想にふけることになるのだろう。かく申すわたし自身も,あと何回,こういう回想をめぐらすことができるのか,心もとないかぎりではある。
与えられた命を大切に,そして,心静かに「生ききる/死にきる」ことに専念したいとおもう。
土屋實幸さんのご冥福をこころから祈りたい。そして,こころからのお礼を申しあげたい。ありがとうございました。合掌。
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