「太極拳は武術です。まず,このことをつねに意識することを忘れないようにしましょう」と劉志老師は口火を切ってから,武術にとって重要なことのひとつは,「つねに視野を広く保つ」ということです,とつづけられました。
これまでは李自力老師から「目線は遠くをみるように」と教えられてきました。このことを別の表現にすると「視野を広く保つ」ということになるのでしょう。そして,視野を広く保つための注意点について,劉志老師はつぎのように説明をしてくださいました。
まずは,百会を高く保ち(からだの軸をしっかりと決め),その姿勢で水平線に視線を保ちます。それも,一点をじっと見つめるのではなくて,全体をぼんやりと眺めるようにこころがけてください。そうすると,視野が広くなってきます。真っ正面に視線を向けていても左右の様子がそれとなく視野のなかに入ってきます。これが大事です。太極拳は武術ですから,基本は,いつ,どこから敵に襲われてもそれに対応できる身構えが求められます。そのためには,まず第一に,正面はもとより左右の視野の死角になるぎりぎりのところまで,それとなく視野に収めておくことが必要です。見るともなく見る,そんなまなざしで全体を把握していることが重要です。
こんな劉志老師のお話を伺いながら,わたしは「李自力老師には背中にも眼がついている」とひごろからおもっていることが脳裏をよぎりました。実際にも,一緒に稽古をしているときに,明らかに背中をみせている状態で李自力老師が,うしろを振り向きもしないで「安定,安定」と声をかけてくださいます。こういうときは,きまってわたしのからだが片足に乗り切れなくてふらふらしているときです。眼でみていなくても,背中全体でうしろの様子をそれとなく感じとっていらっしゃることを知ったときは驚きました。
その後,いろいろの稽古のときの様子からわかってきたことがあります。李老師は人の気の流れ(気配?)を感じ取る力がひとなみはずれて鋭いということでした。つまり,視力とか聴力とか触覚だとかの部分的な感覚ではなくて,からだ全体で環境世界(環界)を受け止めているということです。もっと言ってしまえば,自己と他者の境界が徐々に希薄になっていき,他者のからだをも自己のからだとして感じ取ることができているのではないか,ということです。
これは,坐禅を組むときに言われることとよく似ています。眼は半眼にして,見るともなく視線をやや前方に落とし,五官の感覚器官のすべてを全開にして,環境世界(環界)のなかに溶け込んでいくようにこころがけなさい。そうすると,やがては自己と他者の境界が希薄になってきます。さらに進むと,自己が他者となり,他者が自己となります。そのためには一切の雑念を振り払って,こころもからだも「無」にしなくてはなりません。
そういえば,李老師は大観衆を前にした太極拳の表演中に,われを忘れてしまい,無意識で動いていたことがある,と仰ったことがあります。そして,その世界はもう快感以外のなにものでもない,と。忘我没入の世界です。
太極拳の根本原理は道家思想(道教,タオイズム)に支えられています。その道家思想と仏教の禅とは密接な関係にありますので,まるで,悟りの境地にも似た李自力老師のような表演が出現してもなんの不思議もありません。
「視野を広く保ちなさい」の最終ゴールは,たんに正面と左右を視野のうちに取り込むだけではなくて,360度,全方位が視野のうちに入るようになること,すなわち,自己が環境世界のなかに溶け込んでいくこと,そして,やがては自己と環境世界の区別がなくなること,自己と他者とが一体化すること,そこにあると納得しました。
それはバタイユのことばで表現すれば「水の中に水がある」ということになるでしょう。すなわち,バタイユの「エクスターズ」(恍惚)の世界。
これまでは李自力老師から「目線は遠くをみるように」と教えられてきました。このことを別の表現にすると「視野を広く保つ」ということになるのでしょう。そして,視野を広く保つための注意点について,劉志老師はつぎのように説明をしてくださいました。
まずは,百会を高く保ち(からだの軸をしっかりと決め),その姿勢で水平線に視線を保ちます。それも,一点をじっと見つめるのではなくて,全体をぼんやりと眺めるようにこころがけてください。そうすると,視野が広くなってきます。真っ正面に視線を向けていても左右の様子がそれとなく視野のなかに入ってきます。これが大事です。太極拳は武術ですから,基本は,いつ,どこから敵に襲われてもそれに対応できる身構えが求められます。そのためには,まず第一に,正面はもとより左右の視野の死角になるぎりぎりのところまで,それとなく視野に収めておくことが必要です。見るともなく見る,そんなまなざしで全体を把握していることが重要です。
こんな劉志老師のお話を伺いながら,わたしは「李自力老師には背中にも眼がついている」とひごろからおもっていることが脳裏をよぎりました。実際にも,一緒に稽古をしているときに,明らかに背中をみせている状態で李自力老師が,うしろを振り向きもしないで「安定,安定」と声をかけてくださいます。こういうときは,きまってわたしのからだが片足に乗り切れなくてふらふらしているときです。眼でみていなくても,背中全体でうしろの様子をそれとなく感じとっていらっしゃることを知ったときは驚きました。
その後,いろいろの稽古のときの様子からわかってきたことがあります。李老師は人の気の流れ(気配?)を感じ取る力がひとなみはずれて鋭いということでした。つまり,視力とか聴力とか触覚だとかの部分的な感覚ではなくて,からだ全体で環境世界(環界)を受け止めているということです。もっと言ってしまえば,自己と他者の境界が徐々に希薄になっていき,他者のからだをも自己のからだとして感じ取ることができているのではないか,ということです。
これは,坐禅を組むときに言われることとよく似ています。眼は半眼にして,見るともなく視線をやや前方に落とし,五官の感覚器官のすべてを全開にして,環境世界(環界)のなかに溶け込んでいくようにこころがけなさい。そうすると,やがては自己と他者の境界が希薄になってきます。さらに進むと,自己が他者となり,他者が自己となります。そのためには一切の雑念を振り払って,こころもからだも「無」にしなくてはなりません。
そういえば,李老師は大観衆を前にした太極拳の表演中に,われを忘れてしまい,無意識で動いていたことがある,と仰ったことがあります。そして,その世界はもう快感以外のなにものでもない,と。忘我没入の世界です。
太極拳の根本原理は道家思想(道教,タオイズム)に支えられています。その道家思想と仏教の禅とは密接な関係にありますので,まるで,悟りの境地にも似た李自力老師のような表演が出現してもなんの不思議もありません。
「視野を広く保ちなさい」の最終ゴールは,たんに正面と左右を視野のうちに取り込むだけではなくて,360度,全方位が視野のうちに入るようになること,すなわち,自己が環境世界のなかに溶け込んでいくこと,そして,やがては自己と環境世界の区別がなくなること,自己と他者とが一体化すること,そこにあると納得しました。
それはバタイユのことばで表現すれば「水の中に水がある」ということになるでしょう。すなわち,バタイユの「エクスターズ」(恍惚)の世界。
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