羽生選手が帰国した直後のテレ朝の報道ステーションが,羽生選手を招いて生出演させた番組をたまたまみていたら,おやおや?とおもうシーンが少なからずありました。
ひとつは,スタジオに大がかりな森のセットをしつらえて,冒頭から,いったいなにごとかと視聴者のわたしにおもわせたこと。
ふたつには,そこに羽生選手が大好きだというクマのプーさんを隠すようにして置いたのに,入場と同時にすぐに羽生選手にみつけられてしまったこと。
みっつには,古舘キャスターの羽生選手へのインタヴューが,ほとんど空回りをしてしまったこと。つまり,いろいろと企みすぎたインタヴューが,ことごとく滑ってしまったこと。
よっつには,その企みを羽生選手に見破られ,みごとにはぐらかされてしまったこと。
いつつには,その結果,ほとんど視聴するに値しない内容に終わってしまったこと。
むっつには,セットといい,仕掛けといい,すべてがやり過ぎで,不快だったこと。
とまあ,挙げていけばきりがないほどでした。それに引き換え,羽生選手は一枚も二枚も上手だったということです。つまり,羽生選手を21歳の若い青二才と甘くみていた節がみえみえでした。これは大いなる勘違いであり,勉強不足というほかありません。羽生選手は並の若者ではありません。間違いなく類稀なる天才です。その鋭い感性がわかっていなかった,テレ朝がアホだった,ということでしょう。
なかでも,面白かったのは,クマのプーさんをめぐる古舘キャスターと羽生選手のやりとりでした。
古舘「見えないところに隠して置いたつもりのクマのプーさんの人形を,スタジオに入ってきて,すぐにみつけましたね」
羽生「だって,アッ,森のセットだ,とおもって全体を見渡してみたら,すぐにクマのプーさんは目に入りました。」
古舘「さすがですねぇ。羽生選手がクマのプーさんが好きなのは,いわゆる自然体ということを意識してのことですか」
羽生「本来の意味はそういうことのようですが,ぼくが好きなのは癒されるからです。」
古舘キャスターは,羽生選手にクマのプーさんの哲学を語らせようと仕掛けたのですが,すぐに気づいた羽生選手は,一瞬,ことばを飲んで,さらりとかわしてしまいました。つまり,クマのプーさんの哲学を語るにはふさわしくない場である,と羽生選手はとっさに判断した結果です。キラリと光った目がそれを物語っていました。もし,語るのであれば,こういう番組ではなくて,たっぷり時間をくださいといわぬばかりの表情でした。
つまり,羽生選手はクマのプーさんの哲学をかなり詳細に理解しているがゆえに,世間一般に言われている程度の解釈などしたくなかったということです。その点,おそらくは,古舘キャスターの方がほとんどなにもわかっていなくて,「自然体」だけにわか勉強で得た知識をもとに,話を向けてみたにすぎない,というのがわたしの見立てです。
あらためて断るまでもなく,クマのプーさんの出典は,道家思想の原典である『老子道徳経』にあります。「プー」は中国語の「〇」(僕という漢字の人偏の代わりに木偏を入れた文字)です。この中国語の発音が「プー」です。日本語では「アラキ」と読ませています。あるいは,「はく」とも読ませています。アラキとは,森から伐りだしたばかりの,なんの加工もされていない自然のままの木のことを意味します。クマのプーさんは,人間と違って,動物界での自然のままの生き方しかできません。つまり,アラキと同じだというわけです。というより,動物そのものだ,ということです。これは,世間一般に流布されている「自然体」とは,厳密にいえば違います。
このことを知っている羽生選手は,厳密にいうとそれは違うんです,と応答しなくてはなりません。が,それでは古舘キャスターの顔に泥を塗ることになりかねないし,その違いをここで説明するには相手が悪すぎる,と即座に判断したようです。それが,一瞬の間となって表出していました。古舘キャスターのにわか勉強は,そこで頓挫してしまいました。しかし,ほんとうの深い意味を知っていたら,羽生選手の「癒されますから」ということばを受けて,さらに話をふくらませていくことは十分にできたはずです。
クマのプーさんが「癒し」の力をもっているのは,クマのプーさんは自他の区別をしないで,自他が溶融して一体化している動物性の世界に生きているからです。ですから,すべての他者を全面的に受け入れる力をもっているのです。動物好きの人間が,こよなく動物に惹かれていくのは,このことをからだで感じているからでしょう。人間もまた動物と溶融し,一体化していく快感を享受している,ということでしょう。
もっと言ってしまえば,人間が潜在的に持っている動物性への回帰願望が,クマのプーさんによってその一部が満たされる,ということです。ここまで古舘キャスターが理解していたら,「癒されますから」という羽生選手の発言を受けて,さらなる問いかけができたはずです。そうすれば,かなりレベルの高い話が展開し,羽生選手のフィギュア・スケートの選手としての凄さ(思想・哲学的根拠)を引き出すことができたであろうに・・・・と残念でなりません。
クマのプーさんの本は,大学の哲学の授業のテキストとして,イギリスでも日本でも用いられています。このことはよく知られた事実です。ここでは,その一端を例として引きだしたにすぎませんが,『老子道徳経』の中で論じられている「プー」(アラキ)の話は,多岐にわたっていますが,たとえば,天下を統治するための理論としても,きわめて重要な役割をはたしています。その根はタオイズムの根幹に達しています。
詳しくは,『老子道徳経』を繙いてみてください。多くの解説書が,いまも刊行されていますので,どれでも読みやすそうなものを選んでみてください。面白い発見がたくさんあるとおもいます。
というところで,今日のブログは終わりです。
ひとつは,スタジオに大がかりな森のセットをしつらえて,冒頭から,いったいなにごとかと視聴者のわたしにおもわせたこと。
ふたつには,そこに羽生選手が大好きだというクマのプーさんを隠すようにして置いたのに,入場と同時にすぐに羽生選手にみつけられてしまったこと。
みっつには,古舘キャスターの羽生選手へのインタヴューが,ほとんど空回りをしてしまったこと。つまり,いろいろと企みすぎたインタヴューが,ことごとく滑ってしまったこと。
よっつには,その企みを羽生選手に見破られ,みごとにはぐらかされてしまったこと。
いつつには,その結果,ほとんど視聴するに値しない内容に終わってしまったこと。
むっつには,セットといい,仕掛けといい,すべてがやり過ぎで,不快だったこと。
とまあ,挙げていけばきりがないほどでした。それに引き換え,羽生選手は一枚も二枚も上手だったということです。つまり,羽生選手を21歳の若い青二才と甘くみていた節がみえみえでした。これは大いなる勘違いであり,勉強不足というほかありません。羽生選手は並の若者ではありません。間違いなく類稀なる天才です。その鋭い感性がわかっていなかった,テレ朝がアホだった,ということでしょう。
なかでも,面白かったのは,クマのプーさんをめぐる古舘キャスターと羽生選手のやりとりでした。
古舘「見えないところに隠して置いたつもりのクマのプーさんの人形を,スタジオに入ってきて,すぐにみつけましたね」
羽生「だって,アッ,森のセットだ,とおもって全体を見渡してみたら,すぐにクマのプーさんは目に入りました。」
古舘「さすがですねぇ。羽生選手がクマのプーさんが好きなのは,いわゆる自然体ということを意識してのことですか」
羽生「本来の意味はそういうことのようですが,ぼくが好きなのは癒されるからです。」
古舘キャスターは,羽生選手にクマのプーさんの哲学を語らせようと仕掛けたのですが,すぐに気づいた羽生選手は,一瞬,ことばを飲んで,さらりとかわしてしまいました。つまり,クマのプーさんの哲学を語るにはふさわしくない場である,と羽生選手はとっさに判断した結果です。キラリと光った目がそれを物語っていました。もし,語るのであれば,こういう番組ではなくて,たっぷり時間をくださいといわぬばかりの表情でした。
つまり,羽生選手はクマのプーさんの哲学をかなり詳細に理解しているがゆえに,世間一般に言われている程度の解釈などしたくなかったということです。その点,おそらくは,古舘キャスターの方がほとんどなにもわかっていなくて,「自然体」だけにわか勉強で得た知識をもとに,話を向けてみたにすぎない,というのがわたしの見立てです。
あらためて断るまでもなく,クマのプーさんの出典は,道家思想の原典である『老子道徳経』にあります。「プー」は中国語の「〇」(僕という漢字の人偏の代わりに木偏を入れた文字)です。この中国語の発音が「プー」です。日本語では「アラキ」と読ませています。あるいは,「はく」とも読ませています。アラキとは,森から伐りだしたばかりの,なんの加工もされていない自然のままの木のことを意味します。クマのプーさんは,人間と違って,動物界での自然のままの生き方しかできません。つまり,アラキと同じだというわけです。というより,動物そのものだ,ということです。これは,世間一般に流布されている「自然体」とは,厳密にいえば違います。
このことを知っている羽生選手は,厳密にいうとそれは違うんです,と応答しなくてはなりません。が,それでは古舘キャスターの顔に泥を塗ることになりかねないし,その違いをここで説明するには相手が悪すぎる,と即座に判断したようです。それが,一瞬の間となって表出していました。古舘キャスターのにわか勉強は,そこで頓挫してしまいました。しかし,ほんとうの深い意味を知っていたら,羽生選手の「癒されますから」ということばを受けて,さらに話をふくらませていくことは十分にできたはずです。
クマのプーさんが「癒し」の力をもっているのは,クマのプーさんは自他の区別をしないで,自他が溶融して一体化している動物性の世界に生きているからです。ですから,すべての他者を全面的に受け入れる力をもっているのです。動物好きの人間が,こよなく動物に惹かれていくのは,このことをからだで感じているからでしょう。人間もまた動物と溶融し,一体化していく快感を享受している,ということでしょう。
もっと言ってしまえば,人間が潜在的に持っている動物性への回帰願望が,クマのプーさんによってその一部が満たされる,ということです。ここまで古舘キャスターが理解していたら,「癒されますから」という羽生選手の発言を受けて,さらなる問いかけができたはずです。そうすれば,かなりレベルの高い話が展開し,羽生選手のフィギュア・スケートの選手としての凄さ(思想・哲学的根拠)を引き出すことができたであろうに・・・・と残念でなりません。
クマのプーさんの本は,大学の哲学の授業のテキストとして,イギリスでも日本でも用いられています。このことはよく知られた事実です。ここでは,その一端を例として引きだしたにすぎませんが,『老子道徳経』の中で論じられている「プー」(アラキ)の話は,多岐にわたっていますが,たとえば,天下を統治するための理論としても,きわめて重要な役割をはたしています。その根はタオイズムの根幹に達しています。
詳しくは,『老子道徳経』を繙いてみてください。多くの解説書が,いまも刊行されていますので,どれでも読みやすそうなものを選んでみてください。面白い発見がたくさんあるとおもいます。
というところで,今日のブログは終わりです。
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