12月21日(月)から25日(金)まで,5日間(23日は休日につきお休み)にわたる西谷修さんの集中講義(全15コマ)が無事に終了しました。テーマは「共生論」。
思い返せば,なんと濃密な時間の連続であったことだろう,としみじみおもいます。「共生論」を展開するにあたって,これほどの広がりと深さがあるとは,じつは予想していませんでした。といいますのは,わたしも早くからイヴァン・イリッチの「コンビビアリティ」の考え方に共感し,これこそが近代スポーツ競技の論理を超克するためのキー概念になりうると確信し,折にふれ,さまざまな形で提案をしてきたからです。
ただし,わたしの場合には,きわめて単純に,近代スポーツ競技の「競争原理」はすでに限界に達している,それに代わる原理は「共生」(コンビビアリティ)しかないだろう,したがって,これから目指すべきスポーツは「共生スポーツ」(コンビビアル・スポーツ)であるべきだ,という程度のものでした。そのことに気づくターニング・ポイントとなったのは,核エネルギーの開発でした。これを「自由競争」の原理にゆだねておくことは,もはや不可能となった,と考えたからです。
そのとき,近代スポーツ競技を支えてきた「競争原理」も,すでに限界に達している,と強く意識しました。そのときから,「スポーツ史」のテクストを書くときには,「前近代-近代-後近代」という時代区分を設定することにしました。すなわち,近代と後近代を分かつメルクマールとして核を設定し,そこからスポーツの歴史を見直す必要があると考えた,というわけです。ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されたときから,時代はすでに近代の終焉を迎え,それに代わるべき時代,すなわち,後近代への移行がはじまった,と考えたわけです。
しかし,西谷さんの「共生論」は,そんな単純なものではありませんでした。その思考の及ぶ範囲も深さも,そして,強度も,とてつもないものであることを知る,得がたい集中講義でした。それでもなお,今回の集中講義はそのさわりの,ほんの一部にすぎません,というところで終わりました。いずれ,西谷さんの徹底した近代批判と,その応答としての「共生論」は,一冊の単行本になるに違いないとおもいます。そのとき,西谷さんの「共生論」の全体像がみえてくるものと期待することにしましょう。
ここでは,西谷さんの「共生論」を支える理論的根拠と思しきキー・コンセプトのうち,鮮烈な記憶に残ったものだけを,箇条書きにして紹介しておきたいとおもいます。
1.メタ・フィジック(形而上学)という哲学のスタイルのもつ限界。
考えないでいることの困難─メタ・レベルでの思考(自分の世界の外にでて考える)
ことば,文字の役割
魂,霊,などの世界の欠落
2.古代ギリシアのポリス国家の成立
ポリティックスのはじまり
3.ヨーロッパ・キリスト教世界
すべては神の創造物であるという考え方の限界
4.生きもの─生物とはなにか,ということの再考
生物と放射線は相反する存在─自然という枠組みの崩壊
遺伝子操作,IT技術,など
5.経済学とはなにか
コストの価値付け,ユーティリティ,産業社会,市場原理
値段のつけられないものがある・・・・人間の尊厳,魂,霊魂,など
マルセル・モースの「贈与論」と自由経済(近代経済学)
6.グローバリゼーションの内実
7.東海村の事故から見えてくること
8.コンビビアリティ
9.成長の限界(ローマ報告・1972年)
10.宇沢弘文著『社会的共通資本』
11.水俣病公害を考える
12.近代(性)という構え(考え方,価値,社会編成の原理,など)
agriculture とindustry
「自由」というものの見方の出現の根拠,その勘違い
13.リベラリズム(自由主義)
新自由主義(ネオ・リベラリズム)
14.Da-sein と Mit-sein (ハイデガー)
15.avec etre (ジャン=リュック・ナンシー)
以上です。これらの各論については,これから少しずつこのブログでも取り上げて考えてみることにしたいとおもいます。ということで,今日のところはここまで。
思い返せば,なんと濃密な時間の連続であったことだろう,としみじみおもいます。「共生論」を展開するにあたって,これほどの広がりと深さがあるとは,じつは予想していませんでした。といいますのは,わたしも早くからイヴァン・イリッチの「コンビビアリティ」の考え方に共感し,これこそが近代スポーツ競技の論理を超克するためのキー概念になりうると確信し,折にふれ,さまざまな形で提案をしてきたからです。
ただし,わたしの場合には,きわめて単純に,近代スポーツ競技の「競争原理」はすでに限界に達している,それに代わる原理は「共生」(コンビビアリティ)しかないだろう,したがって,これから目指すべきスポーツは「共生スポーツ」(コンビビアル・スポーツ)であるべきだ,という程度のものでした。そのことに気づくターニング・ポイントとなったのは,核エネルギーの開発でした。これを「自由競争」の原理にゆだねておくことは,もはや不可能となった,と考えたからです。
そのとき,近代スポーツ競技を支えてきた「競争原理」も,すでに限界に達している,と強く意識しました。そのときから,「スポーツ史」のテクストを書くときには,「前近代-近代-後近代」という時代区分を設定することにしました。すなわち,近代と後近代を分かつメルクマールとして核を設定し,そこからスポーツの歴史を見直す必要があると考えた,というわけです。ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されたときから,時代はすでに近代の終焉を迎え,それに代わるべき時代,すなわち,後近代への移行がはじまった,と考えたわけです。
しかし,西谷さんの「共生論」は,そんな単純なものではありませんでした。その思考の及ぶ範囲も深さも,そして,強度も,とてつもないものであることを知る,得がたい集中講義でした。それでもなお,今回の集中講義はそのさわりの,ほんの一部にすぎません,というところで終わりました。いずれ,西谷さんの徹底した近代批判と,その応答としての「共生論」は,一冊の単行本になるに違いないとおもいます。そのとき,西谷さんの「共生論」の全体像がみえてくるものと期待することにしましょう。
ここでは,西谷さんの「共生論」を支える理論的根拠と思しきキー・コンセプトのうち,鮮烈な記憶に残ったものだけを,箇条書きにして紹介しておきたいとおもいます。
1.メタ・フィジック(形而上学)という哲学のスタイルのもつ限界。
考えないでいることの困難─メタ・レベルでの思考(自分の世界の外にでて考える)
ことば,文字の役割
魂,霊,などの世界の欠落
2.古代ギリシアのポリス国家の成立
ポリティックスのはじまり
3.ヨーロッパ・キリスト教世界
すべては神の創造物であるという考え方の限界
4.生きもの─生物とはなにか,ということの再考
生物と放射線は相反する存在─自然という枠組みの崩壊
遺伝子操作,IT技術,など
5.経済学とはなにか
コストの価値付け,ユーティリティ,産業社会,市場原理
値段のつけられないものがある・・・・人間の尊厳,魂,霊魂,など
マルセル・モースの「贈与論」と自由経済(近代経済学)
6.グローバリゼーションの内実
7.東海村の事故から見えてくること
8.コンビビアリティ
9.成長の限界(ローマ報告・1972年)
10.宇沢弘文著『社会的共通資本』
11.水俣病公害を考える
12.近代(性)という構え(考え方,価値,社会編成の原理,など)
agriculture とindustry
「自由」というものの見方の出現の根拠,その勘違い
13.リベラリズム(自由主義)
新自由主義(ネオ・リベラリズム)
14.Da-sein と Mit-sein (ハイデガー)
15.avec etre (ジャン=リュック・ナンシー)
以上です。これらの各論については,これから少しずつこのブログでも取り上げて考えてみることにしたいとおもいます。ということで,今日のところはここまで。
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