昨年の夏,わたしの胃ガン手術後の経過を心配してくれて,「励ます会」を開いてくれた友が,さきに逝ってしまった。昨夜(12月3日),通夜式があった。かれも同じ時期に「おしっこの出が悪くなるガン」(彼はそれ以上のことを語らなかった)で余命を宣告されていた(X年以上生存する確率はY%と予告されたと彼の弁)。かれは手術を拒否して,親からいただいたからだを生きる,と元気よく語っていた。そして,手術を受けたわたしを心配し,「おれよりさきに死ぬなよ」と励ましてくれていた。そのかれがわたしよりもさきに逝ってしまった。
人生というものはわからない。
ちょっとことばにならない感慨がある。あえて言うとすれば,「こんなものなのかなぁ」というところ。寂しいといえば寂しい。かといって悲しいかといえば悲しくはない。もうちょっと生きていたってよかったろうに・・・・。でも,そうもいかないんだよな・・・。だから,「こんなものなのかなぁ」となる。言ってしまえば,自分の身に起きたことのように「ぼんやり」と感じられるのだ。それは,わたしが手術を受けることにしたときとおなじように「ぼんやり」としたものだ。
もちろん,手術を受けるとなれば,こころは千々に乱れる。そして,いろいろ考える。しかし,最終的には,「ぼんやり」と「こんなものなのかなぁ」というところでみずからのこころを落ち着かせる。そうしないと,前に進まないからだ。というより,前に進むうちに,こころは落ち着いてくる。いや,「ぼんやり」してくると言った方が精確かもしれない。そして,身を委ねることができるようになる。
お別れというものは必然だ。だから,かならず,いつかは,こういう日がくる。自分がさきか,友人がさきか,その前後が異なるだけだ。それも,自分たちの意思ではなく,それを超越したところの「力」によるものだ。この人間の意思を超越した「力」の存在が,わたしの中で次第に大きくなりつつある。もう,ここまできたら,この「力」に身を委ねるしかない,と心底考えるようになった。
昨夜の通夜式の間も,「ぼんやり」とそんなことを考えていた。立派な読経のできるお坊さんだった。うっとりとさせられるほどの読経だった。浄土真宗の,とても音楽的な,それでいて気持ちの入った,聞いていて心地よいみごとな読経だった。久しぶりに聞いたこころに響く,素晴らしい読経だった。この「響き」にこそ読経の大事な意味があるのだなぁ,とこれまた「ぼんやり」とおもっていた。
読経の「響き」は,まるで,人間の意思を超越する「力」に向かってひとすじの道筋をつくっているように,わたしには聞こえてきた。人間という小さな「ミクロコスモス」と,それを超越する「力」というおおきな「マクロコスモス」との間に橋わたしをする,そういう「響き」に聞こえてきたからだ。それは意味不明のことばの羅列であるお経だからこその「威力」というべきか。つまり,「呪文」と同じなのだ。「呪文」など,なんの意味もない,と近代の科学的合理主義を信ずる人びとは笑うだろう。しかし,わたしは笑えない。なぜなら,そこに科学的合理主義では説明不能なある「なにか」(Etwas)の存在を感ずるからだ。
ああ,これで故人となった友人も,こころおきなく旅立つことができるなぁ,と素直に嬉しかった。これでいいのだ,ともおもった。こういう読経に出会えたのも,故人の持ち合わせていた「ご縁」というものだ。よかったなぁN君,とこころの中で声をかけた。なんだか,正面に飾られた遺影がにっこりと笑ったようにおもった。
たんなる錯覚だと人は笑うだろう。しかし,それは違う。わたしにとっての「真実」はこれだ。人がなんと言おうが,かれは笑った。わたしにとっての「詩と真実」はこれだ。ゲーテのことばを引き合いに出すまでもないだろう。人はこうして自分にとっての「真実」に命を賭ける。それが生きるということの内実なのだ。N君もまた,そういう命を生き切った人だ。
昨年夏の「励ます会」での,N君のいつもにも増して大きな声と明るさは,どこか達観したものが感じられた。立派としかいいようのないものがあった。
今日の告別式は,諸般の事情で欠礼する。その代わりといっては変だが,このブログを書いている。自分のこころを納得させるために・・・・。そして,いま,気づいたことだが,時計をみたら,まさに,いま読経が行われている時間だ。これもまた,偶然ではない。シンクロにシティだ。だから,このブログをもって,わたしから貴君への鎮魂歌としたい。
南アルプスは光岳(テカリダケ),そこの「あの」お花畑で待っていてくれ。
そこで再会しよう。楽しみにしているよ。
人生というものはわからない。
ちょっとことばにならない感慨がある。あえて言うとすれば,「こんなものなのかなぁ」というところ。寂しいといえば寂しい。かといって悲しいかといえば悲しくはない。もうちょっと生きていたってよかったろうに・・・・。でも,そうもいかないんだよな・・・。だから,「こんなものなのかなぁ」となる。言ってしまえば,自分の身に起きたことのように「ぼんやり」と感じられるのだ。それは,わたしが手術を受けることにしたときとおなじように「ぼんやり」としたものだ。
もちろん,手術を受けるとなれば,こころは千々に乱れる。そして,いろいろ考える。しかし,最終的には,「ぼんやり」と「こんなものなのかなぁ」というところでみずからのこころを落ち着かせる。そうしないと,前に進まないからだ。というより,前に進むうちに,こころは落ち着いてくる。いや,「ぼんやり」してくると言った方が精確かもしれない。そして,身を委ねることができるようになる。
お別れというものは必然だ。だから,かならず,いつかは,こういう日がくる。自分がさきか,友人がさきか,その前後が異なるだけだ。それも,自分たちの意思ではなく,それを超越したところの「力」によるものだ。この人間の意思を超越した「力」の存在が,わたしの中で次第に大きくなりつつある。もう,ここまできたら,この「力」に身を委ねるしかない,と心底考えるようになった。
昨夜の通夜式の間も,「ぼんやり」とそんなことを考えていた。立派な読経のできるお坊さんだった。うっとりとさせられるほどの読経だった。浄土真宗の,とても音楽的な,それでいて気持ちの入った,聞いていて心地よいみごとな読経だった。久しぶりに聞いたこころに響く,素晴らしい読経だった。この「響き」にこそ読経の大事な意味があるのだなぁ,とこれまた「ぼんやり」とおもっていた。
読経の「響き」は,まるで,人間の意思を超越する「力」に向かってひとすじの道筋をつくっているように,わたしには聞こえてきた。人間という小さな「ミクロコスモス」と,それを超越する「力」というおおきな「マクロコスモス」との間に橋わたしをする,そういう「響き」に聞こえてきたからだ。それは意味不明のことばの羅列であるお経だからこその「威力」というべきか。つまり,「呪文」と同じなのだ。「呪文」など,なんの意味もない,と近代の科学的合理主義を信ずる人びとは笑うだろう。しかし,わたしは笑えない。なぜなら,そこに科学的合理主義では説明不能なある「なにか」(Etwas)の存在を感ずるからだ。
ああ,これで故人となった友人も,こころおきなく旅立つことができるなぁ,と素直に嬉しかった。これでいいのだ,ともおもった。こういう読経に出会えたのも,故人の持ち合わせていた「ご縁」というものだ。よかったなぁN君,とこころの中で声をかけた。なんだか,正面に飾られた遺影がにっこりと笑ったようにおもった。
たんなる錯覚だと人は笑うだろう。しかし,それは違う。わたしにとっての「真実」はこれだ。人がなんと言おうが,かれは笑った。わたしにとっての「詩と真実」はこれだ。ゲーテのことばを引き合いに出すまでもないだろう。人はこうして自分にとっての「真実」に命を賭ける。それが生きるということの内実なのだ。N君もまた,そういう命を生き切った人だ。
昨年夏の「励ます会」での,N君のいつもにも増して大きな声と明るさは,どこか達観したものが感じられた。立派としかいいようのないものがあった。
今日の告別式は,諸般の事情で欠礼する。その代わりといっては変だが,このブログを書いている。自分のこころを納得させるために・・・・。そして,いま,気づいたことだが,時計をみたら,まさに,いま読経が行われている時間だ。これもまた,偶然ではない。シンクロにシティだ。だから,このブログをもって,わたしから貴君への鎮魂歌としたい。
南アルプスは光岳(テカリダケ),そこの「あの」お花畑で待っていてくれ。
そこで再会しよう。楽しみにしているよ。
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