西谷さんの集中講義聴講から帰ってきても,わたしの頭の中は「共生論」でいっぱい。授業中のさまざまなシーンを思い浮かべながら,「共生論」の寄って立つ基盤について考えてばかりいます。そんなときに限って,ふと,わたしの脳裏をよぎるのが仏教の考え方です。
仏教の考え方は基本的に「共生論」です。門前の小僧であったわたしは,子どものころから,一寸の虫にも五分の魂,と教えられました。生きとし生けるものすべてが平等であり,分け隔てをしてはいけない,と教えられました。ましてや殺生をしてはならない,と。真夏にあっても,蚊を叩いて殺してはいけない,と。
では,どうするのか。寺の庫裡は,夏も冬も障子だけです。夏は,この障子も開けっ放しです。夜になって電気をつけると,周り中の蚊が集ってきます。このままではかなわないので,夕食前に,七輪に火をおこし,その上に生木の杉の葉を山のように乗せて燻します。すると,杉の葉の強烈な匂いがひろがり,蚊はいっせいに退散してしまいます。こうして,しばらくの間(夕食の間)は蚊に襲われることなく過ごすことができます。
夜,寝るときは蚊帳を吊って,蚊の襲来から身を守ります。もちろん,蚊帳の中に蚊が入ってしまうことはあります。そういうときには,うちわで扇ぎながら,蚊にとりつかれないようにします。それでも,寝てしまったときには,無意識のうちに,からだを刺した蚊を叩き殺してしまうことはあります。それは許容範囲のうちにありました。
とにかく,蚊を殺さないで,蚊を追いやる,というのが原則でした。ですから,「蚊とり線香」という言い方は間違いだ,と。正しくは「蚊やり線香」と言うのだ,とも教えられました。本堂は,朝のお勤めから昼の勤行まで含めて,何回も線香が焚かれます。ですから,なんとなく線香の匂いが染み込んでいます。ここには蚊も近寄りません。夏の昼寝は本堂でするのが習慣でした。
軽いまえおきのつもりが長くなってしまいました。
さっそくですが,道元さんの説く「共生論」について,考えてみたいとおもいます。もちろん,道元さんが真っ正面から「共生論」という考え方を説いているわけではありません。そうではなくて,仏教とはなにか,仏法とはなにか,を説いているなかに「共生」を前提にしていることが読み取れる,という次第です。たとえば,以下のとおりです。
仏道をならふといふは,自己をならふ也。
自己をならふといふは,自己をわするるなり。
自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
この一節は,道元さんの主著『正法眼蔵』の劈頭を飾る「現成公案」巻に収められています。そして,道元さんの基本的な立場が,もっともわかりやすく鮮やかに描かれた文章として,広く知られているのがこの一節です。
不要かとおもいますが,一応,現代語訳(頼住光子著『正法眼蔵入門』より)を付しておきます。
仏道をならうとは,自己をならう(真の意味での自己がどのようなものであるのかを理解し,それをこの身に現していく)ことである。
自己をならうというのは,自己を忘れる(個我として固定された自己から脱却する)ことである。
自己を忘れるというのは,自己があらゆる存在とつながり合いはたらき合っていることを存在の側から自覚させられて悟らせられるということである。
あらゆる存在によって悟らせられるということは,自己の身心,また自己とつながり合う他者の身心を解脱させるということである。
ここには補訳もあって,より厳密に理解することができるようになっています。そして,ここに説かれている仏教的世界は,まさに,すべての存在がつながり合っている,ということを悟らせることであり,さらに,お互いにつながり合っているということすら解脱させることなのだ,ということです。ここで言うところの解脱(本文は脱落〔とつらく〕)については,もっともっと深い意味があることを書き添えておきます。詳しくは,各種の解説本を参照してみてください。
なお,ここで言う「他者の身心」は,単なる他者の身心ではなく,山川草木,森羅万象,宇宙全体も含む,大いなる「他者」全体であることを書き添えておきたいとおもいます。これが,言うところの仏教的コスモロジーといえばいいでしょうか。わたしは,そのように理解し,考えることにしています。
万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
この一文の意味するところの深さ,重さが,ひしひしとわたしの身心(しんじん)に伝わってきます。わたしという存在そのものが,大宇宙のなかに溶融していくような感覚と言えばいいでしょうか。そして,そういう世界のひろがりのなかに身も心も遊ぶ(遊戯三昧・ゆげざんまい),これが解脱(げだつ)であり,脱落(とつらく)の世界である,と。
とまあ,西谷修さんの集中講義に触発され,その余韻の後産のような感想を書いてみました。ご批評をいただければ幸いです。
仏教の考え方は基本的に「共生論」です。門前の小僧であったわたしは,子どものころから,一寸の虫にも五分の魂,と教えられました。生きとし生けるものすべてが平等であり,分け隔てをしてはいけない,と教えられました。ましてや殺生をしてはならない,と。真夏にあっても,蚊を叩いて殺してはいけない,と。
では,どうするのか。寺の庫裡は,夏も冬も障子だけです。夏は,この障子も開けっ放しです。夜になって電気をつけると,周り中の蚊が集ってきます。このままではかなわないので,夕食前に,七輪に火をおこし,その上に生木の杉の葉を山のように乗せて燻します。すると,杉の葉の強烈な匂いがひろがり,蚊はいっせいに退散してしまいます。こうして,しばらくの間(夕食の間)は蚊に襲われることなく過ごすことができます。
夜,寝るときは蚊帳を吊って,蚊の襲来から身を守ります。もちろん,蚊帳の中に蚊が入ってしまうことはあります。そういうときには,うちわで扇ぎながら,蚊にとりつかれないようにします。それでも,寝てしまったときには,無意識のうちに,からだを刺した蚊を叩き殺してしまうことはあります。それは許容範囲のうちにありました。
とにかく,蚊を殺さないで,蚊を追いやる,というのが原則でした。ですから,「蚊とり線香」という言い方は間違いだ,と。正しくは「蚊やり線香」と言うのだ,とも教えられました。本堂は,朝のお勤めから昼の勤行まで含めて,何回も線香が焚かれます。ですから,なんとなく線香の匂いが染み込んでいます。ここには蚊も近寄りません。夏の昼寝は本堂でするのが習慣でした。
軽いまえおきのつもりが長くなってしまいました。
さっそくですが,道元さんの説く「共生論」について,考えてみたいとおもいます。もちろん,道元さんが真っ正面から「共生論」という考え方を説いているわけではありません。そうではなくて,仏教とはなにか,仏法とはなにか,を説いているなかに「共生」を前提にしていることが読み取れる,という次第です。たとえば,以下のとおりです。
仏道をならふといふは,自己をならふ也。
自己をならふといふは,自己をわするるなり。
自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
この一節は,道元さんの主著『正法眼蔵』の劈頭を飾る「現成公案」巻に収められています。そして,道元さんの基本的な立場が,もっともわかりやすく鮮やかに描かれた文章として,広く知られているのがこの一節です。
不要かとおもいますが,一応,現代語訳(頼住光子著『正法眼蔵入門』より)を付しておきます。
仏道をならうとは,自己をならう(真の意味での自己がどのようなものであるのかを理解し,それをこの身に現していく)ことである。
自己をならうというのは,自己を忘れる(個我として固定された自己から脱却する)ことである。
自己を忘れるというのは,自己があらゆる存在とつながり合いはたらき合っていることを存在の側から自覚させられて悟らせられるということである。
あらゆる存在によって悟らせられるということは,自己の身心,また自己とつながり合う他者の身心を解脱させるということである。
ここには補訳もあって,より厳密に理解することができるようになっています。そして,ここに説かれている仏教的世界は,まさに,すべての存在がつながり合っている,ということを悟らせることであり,さらに,お互いにつながり合っているということすら解脱させることなのだ,ということです。ここで言うところの解脱(本文は脱落〔とつらく〕)については,もっともっと深い意味があることを書き添えておきます。詳しくは,各種の解説本を参照してみてください。
なお,ここで言う「他者の身心」は,単なる他者の身心ではなく,山川草木,森羅万象,宇宙全体も含む,大いなる「他者」全体であることを書き添えておきたいとおもいます。これが,言うところの仏教的コスモロジーといえばいいでしょうか。わたしは,そのように理解し,考えることにしています。
万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
この一文の意味するところの深さ,重さが,ひしひしとわたしの身心(しんじん)に伝わってきます。わたしという存在そのものが,大宇宙のなかに溶融していくような感覚と言えばいいでしょうか。そして,そういう世界のひろがりのなかに身も心も遊ぶ(遊戯三昧・ゆげざんまい),これが解脱(げだつ)であり,脱落(とつらく)の世界である,と。
とまあ,西谷修さんの集中講義に触発され,その余韻の後産のような感想を書いてみました。ご批評をいただければ幸いです。
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