いつものように散歩を兼ねて書店に立ち寄ってみたら,『般若心経』と「玄有宗久」という文字が目に飛び込んできました。なんの躊躇もなく衝動買い。家にもどってから,あちこち拾い読みしてみましたら,「あれっ?」,なんだか読んだことがある・・・・? あわてて書棚を確認してみましたら,やはり,ありました。
最近,こういうことが多くなってきました。サクセスフル・エイジング(笑い)。
初版は2006年。その当時に買って読んでいたことをすっかり忘れて,二度買い。だれかにプレゼントしようかとおもっても,こんな本はだれも喜んではくれません。ので,名著並みの扱いにして,一冊は「書き込み」用,もう一冊は「通読」用に。
しかし,読んでみますと,その印象は,かつてとはまるで異なっていました。なぜか。読み手が成長したから・・・とおもうことに。というか,読み手の意識が大きく変化している,というのが正解のようです。つまりは,末期ガンを患い,いま,まさに「死」と直面しながら日々を送っているために,否応なく意識が変化しているからなのでしょう。
そのお蔭で,今回は,深いところまで手がとどくようによくわかりました。おおげさに言えば,もう,死んでもいい,とおもいました。死ぬといったところで,なんのことはない,「空」のなかにもどっていくだけのことだ,とこころの底から納得したからです。要するに,人の生死とはどういうことなのか,がよくわかったということです。このわたしなりの理解を要約しておきますと,以下のようになります。
わたしの「いのち」もまた宇宙が繰り広げる自然現象のひとつであって,それ以外のなにものでもない,と納得したからです。ただそれだけの話ではないか,と得心したということです。仏教は,宇宙原理の根本を「無常」と説き,自然現象は,いっときたりとも「止まる」ことなく,変化をしつづけるものであると説き,その末端にわたしの「いのち」も位置づけられているにすぎないのだ,というわけです。ですから,一切の存在は「無」であり,「空」に帰っていく,と。
「いのち」というエネルギーは,からだという乗り物にこころを乗っけて,走ったり跳んだりし,あるいは喜怒哀楽や理知や美意識として千変万化しながら,ひたすら「消尽」(燃焼)されるだけのものなのだ,と「よーく,わかった」という次第です。
『般若心経』というお経は,このことをわかりやすく説いているにすぎない,と玄有宗久さんが,これまたわかりやすく解説をしてくれています。その意味では,類書にはない卓越した,仏教の神髄をもののみごとに解き明かしてくれる,まさに「名著」です。2006年当時(初版)は,あまり大きな話題にはなりませんでしたが,「3・11」を通過した「いま」,ふたたび注目を集め始めているのではないでしょうか。
そんなにたいして大きな書店でもないのに,目立つところに「平積み」になって置いてあるということが,それを意味しているようにおもいます。言ってみれば,時代がこの本を受け入れるようになってきたのではないか,という次第です。
このお経の構成は,きわめて単純明解です。まずは,観音様が,お釈迦様のお弟子さんのなかでは智恵第一といわれた舎利子にむかって,仏教(般若)の神髄(心経)について諄々と説いて聞かせるところからはじまります。その上で,最後にいたって,それらの教えを集約した「呪文」を唱えなさいと教えています。この呪文こそが,人間の声をとおして発せられる「いのち」のリズムであり,響きなのであって,この呪文が宇宙エネルギーの「消尽」と共振・共鳴するツールなのだ,というわけです。すなわち,わたしというミクロ・コスモスと宇宙というマクロ・コスモスとが共振・共鳴しつつ「一体化」していくための「通路」(ツール)なのだ,と。つまり,呪文こそが究極の「心経」なのだ,というのです。
「ギャーテー,ギャーテー,ハーラーギャーテー,ハラソウギャーテー,ボージーソワカ」
この呪文には意味はない,ただ無心に唱えることに意味がある,というのが玄有宗久さんの立場です。もちろん,この呪文を解釈し,翻訳することも行われてきています。しかし,無理に意訳をするよりは,音訳だけで十分である,とする側にわたしも与したいとおもっています。意味を考えながら呪文を唱えるよりは,なにも考えないで,無心になって呪文を唱えることの方がはるかに「理」にかなっているとおもうからです。
お釈迦さんは,最終的には「死のすすめ」を説いたと言われています。つまり,うしろめたさを残さないで,潔く,きれいな生涯を送って,にっこり笑って死んでいけ,と。お釈迦さん自身も,死期を悟って横たわったとき,嘆き悲しむお弟子さんや信者たちを前にして,「悲しむことはなにもない」と説いたといいます。大宇宙という「浄土」の世界に帰っていくだけなのだから・・・と。
わたしも,遅ればせながら,この経典を「死のすすめ」として,素直に受けとることができるようになったなぁ,としみじみおもいました。これもそれも,みんな末期ガンのお蔭です。まことにありがたいことです。
なお,著者の玄有宗久さんは,もっともっと説得力のある明解な解釈を加えています。そして,大向こうを唸らせるほどの素晴らしい仏教的「世界」を解き明かしてくれています。ぜひ,ご一読をお薦めします。
〔お断り〕玄有宗久の「有」は間違いで,これに「人偏」を加えた文字が正しい表記です。
最近,こういうことが多くなってきました。サクセスフル・エイジング(笑い)。
初版は2006年。その当時に買って読んでいたことをすっかり忘れて,二度買い。だれかにプレゼントしようかとおもっても,こんな本はだれも喜んではくれません。ので,名著並みの扱いにして,一冊は「書き込み」用,もう一冊は「通読」用に。
しかし,読んでみますと,その印象は,かつてとはまるで異なっていました。なぜか。読み手が成長したから・・・とおもうことに。というか,読み手の意識が大きく変化している,というのが正解のようです。つまりは,末期ガンを患い,いま,まさに「死」と直面しながら日々を送っているために,否応なく意識が変化しているからなのでしょう。
そのお蔭で,今回は,深いところまで手がとどくようによくわかりました。おおげさに言えば,もう,死んでもいい,とおもいました。死ぬといったところで,なんのことはない,「空」のなかにもどっていくだけのことだ,とこころの底から納得したからです。要するに,人の生死とはどういうことなのか,がよくわかったということです。このわたしなりの理解を要約しておきますと,以下のようになります。
わたしの「いのち」もまた宇宙が繰り広げる自然現象のひとつであって,それ以外のなにものでもない,と納得したからです。ただそれだけの話ではないか,と得心したということです。仏教は,宇宙原理の根本を「無常」と説き,自然現象は,いっときたりとも「止まる」ことなく,変化をしつづけるものであると説き,その末端にわたしの「いのち」も位置づけられているにすぎないのだ,というわけです。ですから,一切の存在は「無」であり,「空」に帰っていく,と。
「いのち」というエネルギーは,からだという乗り物にこころを乗っけて,走ったり跳んだりし,あるいは喜怒哀楽や理知や美意識として千変万化しながら,ひたすら「消尽」(燃焼)されるだけのものなのだ,と「よーく,わかった」という次第です。
『般若心経』というお経は,このことをわかりやすく説いているにすぎない,と玄有宗久さんが,これまたわかりやすく解説をしてくれています。その意味では,類書にはない卓越した,仏教の神髄をもののみごとに解き明かしてくれる,まさに「名著」です。2006年当時(初版)は,あまり大きな話題にはなりませんでしたが,「3・11」を通過した「いま」,ふたたび注目を集め始めているのではないでしょうか。
そんなにたいして大きな書店でもないのに,目立つところに「平積み」になって置いてあるということが,それを意味しているようにおもいます。言ってみれば,時代がこの本を受け入れるようになってきたのではないか,という次第です。
このお経の構成は,きわめて単純明解です。まずは,観音様が,お釈迦様のお弟子さんのなかでは智恵第一といわれた舎利子にむかって,仏教(般若)の神髄(心経)について諄々と説いて聞かせるところからはじまります。その上で,最後にいたって,それらの教えを集約した「呪文」を唱えなさいと教えています。この呪文こそが,人間の声をとおして発せられる「いのち」のリズムであり,響きなのであって,この呪文が宇宙エネルギーの「消尽」と共振・共鳴するツールなのだ,というわけです。すなわち,わたしというミクロ・コスモスと宇宙というマクロ・コスモスとが共振・共鳴しつつ「一体化」していくための「通路」(ツール)なのだ,と。つまり,呪文こそが究極の「心経」なのだ,というのです。
「ギャーテー,ギャーテー,ハーラーギャーテー,ハラソウギャーテー,ボージーソワカ」
この呪文には意味はない,ただ無心に唱えることに意味がある,というのが玄有宗久さんの立場です。もちろん,この呪文を解釈し,翻訳することも行われてきています。しかし,無理に意訳をするよりは,音訳だけで十分である,とする側にわたしも与したいとおもっています。意味を考えながら呪文を唱えるよりは,なにも考えないで,無心になって呪文を唱えることの方がはるかに「理」にかなっているとおもうからです。
お釈迦さんは,最終的には「死のすすめ」を説いたと言われています。つまり,うしろめたさを残さないで,潔く,きれいな生涯を送って,にっこり笑って死んでいけ,と。お釈迦さん自身も,死期を悟って横たわったとき,嘆き悲しむお弟子さんや信者たちを前にして,「悲しむことはなにもない」と説いたといいます。大宇宙という「浄土」の世界に帰っていくだけなのだから・・・と。
わたしも,遅ればせながら,この経典を「死のすすめ」として,素直に受けとることができるようになったなぁ,としみじみおもいました。これもそれも,みんな末期ガンのお蔭です。まことにありがたいことです。
なお,著者の玄有宗久さんは,もっともっと説得力のある明解な解釈を加えています。そして,大向こうを唸らせるほどの素晴らしい仏教的「世界」を解き明かしてくれています。ぜひ,ご一読をお薦めします。
〔お断り〕玄有宗久の「有」は間違いで,これに「人偏」を加えた文字が正しい表記です。
0 件のコメント:
コメントを投稿