神戸市外国語大学で行われています西谷修さんの集中講義を傍聴させてもらうために,12月20日(日)から神戸市の学園都市にきています。期間は,12月21日(月)午前8時50分から,25日(金)午後6時30分まで。テーマは「共生論」。
西谷さんの「共生論」は,なにもいまにはじまったことではなく,かなり前からいろいろの書き物の中に登場してきているきわめて重要なテーマです。直近では,『世界』1月号の特集・終わりなき「対テロ戦争」の冒頭に寄せられた論文「テロとの戦争」という文明的倒錯,の最後の結論部分に,以下のように述べられています。
では,「テロリズム」に対してはどうするのか? それが起こらないようにするにはどうすればよいのか? 単純なことだ。絶望や残忍さやそれによる憎悪,あるいは癒しがたい不正が世界に蔓延しないようにする。たとえば今現在パレスチナ人が置かれているような状況を国際社会が座視しないことだ。そうすれば,イスラーム国のようなものに同調して,無関係な人びとを巻き添えに自爆するような若者はいなくなるだろう。もっと一般的に言えば,それぞれの国が「生きうる社会」を作るべく努力すること。そうすれば誰もが生きることを望み,他者と共に生きる豊かさを知るようになるだろう。
以上のように,ここではテロリズムを無くすにはどうすればいいのか,という問いに対して「共生論」で応答しています。すなわち,「共に生きうる社会」を作るべく努力すること,と端的に指摘した上で,そうすれば「他者と共に生きる豊かさを知るようになるだろう」と結んでいます。
しかし,西谷さんの「共生論」はそれだけにはとどまりません。今回の集中講義の冒頭でも話されましたが,若いころから「戦争論」に取組み,多くの論考を世に問うてきました。同時に,思想・哲学の分野でも「存在論」や「共同体論」に深く分け入り,人間が「生きる」ということはどういうことなのかを考えてきました。当然のことながら,その思考は「死」や「宗教」の問題に伸びてゆき,やがては「ドグマ人類学」(ルジャンドル)や「経済」(宇沢弘文,デュピュイ,など)に行き着きます。そして,いつしか,みずからの寄って立つ思考の基盤を「チョー哲学」と名づけるしかないような,前人未到の世界に分け入っています。
そうした思考作業を経て,とりわけ,「3・11」を経験し,デュピュイの「破局論」を経て,くっきりとその姿を現してきたのが「共生論」(イヴァン・イリッチにはじまるコンビビアリティの思想)だったのではなかったか,とこれはわたしの推測です。つまり,西谷さんの思想遍歴の最新の結論と言ってもいい「共生論」が,今回の集中講義のテーマである,という次第です。
となれば,どんなことがあっても,この集中講義を聴講しない手はない,と即断しました。そして,あっという間の二日間が終わりました。全日程の半分が終わったというわけです。もう,予想をはるかに超える濃密な内容の話を,じつにわかりやすく説いて聞かせる,それはそれはみごとな講義の連続です。まもなく78歳になんなんとする老人が,若い学生さんたちの中に混じって,ちょこなんと座している姿をご想像ください。そして,かつて学生時代には経験したこともない,ワクワク感で満たされた,至福のときを過ごしている老人の姿を・・・。
明日(23日)は休日のためにお休み。その代わりに,出石神社まで足を伸ばし,フィールド・ワークにでかける予定です。こちらは,河童研究者のTさんが案内役をつとめてくれます。ありがたいことです。もちろん,西谷さんもご一緒です。お互いに,出石神社を歩きながら,なにを感じ,なにを考えるか,いまから楽しみです。
一息入れて,後半の集中講義に入る,という次第です。
この一連の講義の具体的な内容についても,できれば,このブログで取り上げ考えてみたいとおもいます。
が,とりあえずは,前半の集中講義が終わったことのご報告まで。
西谷さんの「共生論」は,なにもいまにはじまったことではなく,かなり前からいろいろの書き物の中に登場してきているきわめて重要なテーマです。直近では,『世界』1月号の特集・終わりなき「対テロ戦争」の冒頭に寄せられた論文「テロとの戦争」という文明的倒錯,の最後の結論部分に,以下のように述べられています。
では,「テロリズム」に対してはどうするのか? それが起こらないようにするにはどうすればよいのか? 単純なことだ。絶望や残忍さやそれによる憎悪,あるいは癒しがたい不正が世界に蔓延しないようにする。たとえば今現在パレスチナ人が置かれているような状況を国際社会が座視しないことだ。そうすれば,イスラーム国のようなものに同調して,無関係な人びとを巻き添えに自爆するような若者はいなくなるだろう。もっと一般的に言えば,それぞれの国が「生きうる社会」を作るべく努力すること。そうすれば誰もが生きることを望み,他者と共に生きる豊かさを知るようになるだろう。
以上のように,ここではテロリズムを無くすにはどうすればいいのか,という問いに対して「共生論」で応答しています。すなわち,「共に生きうる社会」を作るべく努力すること,と端的に指摘した上で,そうすれば「他者と共に生きる豊かさを知るようになるだろう」と結んでいます。
しかし,西谷さんの「共生論」はそれだけにはとどまりません。今回の集中講義の冒頭でも話されましたが,若いころから「戦争論」に取組み,多くの論考を世に問うてきました。同時に,思想・哲学の分野でも「存在論」や「共同体論」に深く分け入り,人間が「生きる」ということはどういうことなのかを考えてきました。当然のことながら,その思考は「死」や「宗教」の問題に伸びてゆき,やがては「ドグマ人類学」(ルジャンドル)や「経済」(宇沢弘文,デュピュイ,など)に行き着きます。そして,いつしか,みずからの寄って立つ思考の基盤を「チョー哲学」と名づけるしかないような,前人未到の世界に分け入っています。
そうした思考作業を経て,とりわけ,「3・11」を経験し,デュピュイの「破局論」を経て,くっきりとその姿を現してきたのが「共生論」(イヴァン・イリッチにはじまるコンビビアリティの思想)だったのではなかったか,とこれはわたしの推測です。つまり,西谷さんの思想遍歴の最新の結論と言ってもいい「共生論」が,今回の集中講義のテーマである,という次第です。
となれば,どんなことがあっても,この集中講義を聴講しない手はない,と即断しました。そして,あっという間の二日間が終わりました。全日程の半分が終わったというわけです。もう,予想をはるかに超える濃密な内容の話を,じつにわかりやすく説いて聞かせる,それはそれはみごとな講義の連続です。まもなく78歳になんなんとする老人が,若い学生さんたちの中に混じって,ちょこなんと座している姿をご想像ください。そして,かつて学生時代には経験したこともない,ワクワク感で満たされた,至福のときを過ごしている老人の姿を・・・。
明日(23日)は休日のためにお休み。その代わりに,出石神社まで足を伸ばし,フィールド・ワークにでかける予定です。こちらは,河童研究者のTさんが案内役をつとめてくれます。ありがたいことです。もちろん,西谷さんもご一緒です。お互いに,出石神社を歩きながら,なにを感じ,なにを考えるか,いまから楽しみです。
一息入れて,後半の集中講義に入る,という次第です。
この一連の講義の具体的な内容についても,できれば,このブログで取り上げ考えてみたいとおもいます。
が,とりあえずは,前半の集中講義が終わったことのご報告まで。
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