2012年6月3日日曜日

「健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい」(ユウェナーリス)・考。

 待望の『ローマ諷刺詩集』(ペルシウス/ユウェナーリス作,国原吉之助訳,岩波文庫)が刊行された。書店で,まずは,問題の箇所を確認してから購入。

 これほど多くの人に膾炙され,まるで俚諺のように馴染んだことばもあるまい。
 しかし,原典ではどのような文脈のなかでこのことばが語られているのか,長い間,アンテナを張っていたがわからなかった。だれもそこまで踏み込む人もいなかったということか。もちろん,ラテン語の読める専門家はとうにご承知だったはず。でも,とりたてて議論されることもなく,こんにちに至っているのだろう。だから,最初の誤訳が質されないまま,孫引きの連鎖がつづき,間違った解釈がこんにちもなお生きている。

 そして,多くの誤解のなかで,あるいは,誤解のままで人びとの記憶にとどまっている。
 かく申すわたしもそのひとりだ。

 「健全なる身体に健全なる精神が宿る」と,まずは教えられた。わたしの学生時代のテクストにはこのように書いてあった。この間違いは,どうやらH.スペンサーの『教育論』の扉に「健全なる身体に健全なる精神が宿る」と書いたことに発端があるらしい(少なくとも,日本では)。やがて,体育やスポーツの歴史を専門に勉強するようになって,もうひとつの解釈をドイツ語文献のなかでみつけた。

 それによると,「健全なる身体に健全なる精神が宿ることが望ましい」とユヴェナリウス(ドイツ語読み)は言った,とある。なるほど,「望ましい」という理想を述べたものだったのか,とそれなりに感動し,納得した。そして,以後,わたしは自分が書く文章には,かならず「宿る」と断定したのではなくて,「望ましい」とユヴェナリウスは言っているのだ,と注釈をつけることにした。しかし,これもまた間違いだった。

 今回,ラテン語の原典からの翻訳が国原吉之助によって実現した。お蔭で,わたしのようなものでも国原訳の「ユウェナーリス」の諷刺詩を読むことができるようになった。喜び勇んで,すぐに書店に走った。しかし,溝の口の書店にくるまでにはいささか時間がかかった。それがようやく手に入った。

 その国原訳の258ページに表題に書いたように「健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい」という一文が登場する。わたしはこれを読んで,じつは,ギョッとした。健全なる精神が「宿る」などという文意はどこにも見当たらないではないか。「宿ることが望ましい」とも書いてない。「与え給えと祈るがいい」とある。

 いったい,だれが,だれに,なんのために「与え給えと祈る」必要があるのか。

 詳しく書くと長くなるので,ごく簡単に要点だけを書いておこう。
 ユウェナーリスの諷刺詩は第一歌から第十六歌まである。その中の第十歌の最後のところにこの文言が登場する。第十歌の見出しは「人間の願望の空しさ」とある。人間は,みんなさまざまな願望をいだき,それを追い求める。しかし,その願望が満たされはじめると,とたんに慢心を起こし,その慢心によって身をくずしていく。願望をいだかなくても,生まれたときから与えられている美徳は,もっと危険だ。美人はその美しさのゆえに身を崩し,美形で身体頑健な男性は,それだけの理由で身をくずしてしまう。

 いつの世も,いつまでも若くて健康で美しいことは理想である。それは,女性だけではなく男性も同じである。だから,どのようにして「若さ」を保つかといろいろに工夫をする。しかし,いくら頑張ったところで,人間はやがて死んでしまうのだ。だから,そんなことは無駄だ。つまり,みんな神様の意のままになるしかないのだから。だから,人間にできることは,神様に向って,わたしにもっとも必要なものを「与えて」くださいと祈るしかないのだ。

 と,おおよそ,このようなことをいくつもの諷刺をまじえて,ユウェナーリスは説いている。そして,最後に,この決まり文句に到達する。どのような文脈でそこに到達するのか,その前段もふくめて引用しておこう。

 「我々は精神の盲目的な衝動に駆られて,そして空(むな)しい欲望に誘われて,結婚の相手を求め,妻の産む子を願う。しかし神々は,生まれた子がどんな少年になるか,妻がどんな女になるかは,お見通しなのだ。それでもあなたが,神々に何かをお願いしたいのならば,そして小さなお社に,純白に輝く豚(ぶた)の内臓と小さな腸詰をお供えしたいのなら,どうか,健全なる身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい。」

 こういうコンテクストのなかで登場するのだ。わたしは驚いて眼をみはった。なんということだ,と。驚くではないか。結婚願望の男が,神様に向って,生まれてくる子どもをどんな子どもにしてほしいか,結婚相手の女性をどんな女にしてほしいかを祈る内容なのだ。つまり,「健全なる身体に健全なる精神を与え給え」と。

 これだけではない。ここで求められている「精神」とはどのようなものかを,ユウェナーリスはつぎのように書いている。

 「いかなる苦しみにも耐えられる精神を。怒りを知らぬ,無欲恬淡な精神を。サルダナバーロス王の情痴淫蕩,酒池肉林,奢侈栄華よりも,ヘーラクレースの艱難辛苦や奮励努力こそ,いっそう望ましいものと信じるような精神を祈願し給え。」

 この事実を知って,わたしは唖然としてしまった。
 これまで物知り顔に,さもわかったようなふりをして,何回,「健全なる身体に健全なる精神が宿る」ことが望ましい,と書いてきたことか。そして,それが,さも,スポーツマンたるものの理想であるかのように。わたしは恥ずかしい。

 ここからさきの論考は,いつか,きちんとした形で,お詫びを兼ねて,展開してみたいとおもう。大いなる修正を加えて。これは大論文になりそうだ。

 やはり,原典をきちんと確認しないといけない,といまごろになって骨の髄まで染み込んでくる。国原吉之助さんにこころからの謝辞を捧げます。ありがとうございました。

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