2012年6月23日土曜日

『ルジャンドルとの対話』(森元庸介訳,みすず書房)を読む。

 6月16日(土)の橋本一径さんの訳本『同一性の謎 知ることと主体の闇』(ルジャンドル著,以文社)をてがかりに,ルジャンドルの世界を考える会(第62回「ISC・21」6月東京例会)に向けて集中的にルジャンドルの本を読んでいたのだが,最後の一冊『ルジャンドルとの対話』(森元庸介訳,みすず書房)だけが残ってしまっていた。そのご,いろいろの雑用が入ってきて,ルジャンドルから遠ざかっていた。が,ようやく時間がとれたので一気にこの本を読んだ。

 もちろん,購入したときに,すでに,あちこち拾い読みはしていた。が,通読したのはこんどが初めて。あの難解なルジャンドルの本と格闘してきた経験がようやく報われたのか,この本はじつによく頭に入ってきた。ルジャンドルのテクストにもよるのだろうが,森元さんの翻訳がじつによくこなれていて読みやすい。翻訳を読んでいるという意識がなくなるときがある。おみごと。

 このテクストは,ルジャンドルがフィリップ・プティというジャーナリストの問いに応えるラジオ番組をもとにして構成されている(放送は2007年10月,2009年1月の2回にわたって行われた)。だから,ルジャンドル自身も一般の聴衆にむけて,かなりわかりやすく,噛んでふくめるようにして,語りかけている。もちろん,随所に難解な部分は登場するのだが,全般的にはとてもわかりやすい。し,それよりもなによりも,ピエール・ルジャンドルという人の体温のようなものが伝わってきて,親しみを感ずる。

 語りの内容も,ノルマンディの生まれ育ったのどかな少年時代の思い出からはじまり,大学時代のこと,博士論文を書いたころのこと,そして,民間企業で働いたり,国連の派遣職員としてアフリカ各地で活動し,やがて大学に戻ってくるまでの話があったり,精神分析家になるまでの経緯を語ったり・・・ととても親しみやすいものになっている。そうして,こうしたライフ・ヒストリーの蓄積が,すべてかれの学問研究の肥やしとなっていることを諄々と説いていく。ルジャンドルがダンスの論文を書いていることを知っていたが,なぜ,ルジャンドルがダンスに造詣が深いのかという謎が,この対話を読んで瓦解した。アフリカのダンスとの出会いがそのきっかけだったのだ。

 以前,ジョルジュ・バタイユと格闘していたころに,『バタイユ伝』(西谷修・中沢信一訳,河出書房新社)という上下2巻の本を読んで,はじめてバタイユの人間の姿がみえてきたときのことを思い出す。やはり,深い思想・哲学の本は,その人の人となりがみえてくると,とたんに親しみやすくなってくる。わからなくてもわかったような気分にしてくれる。だから,どんどんさきへ読み進むことができる。それだけで嬉しくなってくるものだ。

 今回のこのテクストも同じだ。こちらは,ルジャンドルがみずから語っている。だから,伝記作家が書いた人物像とはひとあじ違って,直に,その人の体温が伝わってくる。しかも,ルジャンドルという人には直接会ってもいる。握手もしてもらった。だから,なおのことだ。声まで聴こえてくるような錯覚に陥る。少し大事な話に入って調子が上がってくるときには,たぶん,顔を真っ赤にして,全身で自説を説いているのだろうなぁ,とその姿も脳裏に浮かぶ。

 たとえば,以下のようなくだり。
 「国家貴族」に対してデマゴギーに満ちた告発をおこなう大学人祭司たちがいますが,わたしはそうした群れには属していません。かれらの告発は安直なもの,そして強調しておきますが,デマゴギーに満ちたものです。それもまたフランス旧来の封建主義の名残ではありまけれども(P.10)。

こんなときには,ルジャンドルの顔が真っ赤になっているだろうなぁ,と想像してしまう。しかも,この「国家貴族」には訳者の注が付してある。それによると「とくにピエール・ブルデューの著作『国家貴族』が念頭に置かれている」とある。しかも,ブルデューとその一派には,相当に嫌悪をいだいているようで,P.142.で再度,取り上げ批判をくり返している。

 日本でもよく知られ,多くの社会学者が絶賛し,多くの翻訳書も出ているピエール・ブルデューが,ルジャンドルの手にかかると「デマゴギーに満ちた告発をおこなう大学人祭司たち」のひとり,ということになってしまう。わたしも,なにを隠そう,ブルデューの本は何冊かもっていて,かなりの影響をうけている。しかも,ブルデューはスポーツに関してもかなりの分量の言説を残している。そして,いわゆるスポーツ社会学者の多くが,プルでューを援用して論を展開していることも承知している。しかし,なぜか,虫の知らせなのか,波長の違いなのか,わたしはブルデューを援用する気にはならなかった。肌触りがどこか違うのである。

 そんなことも,このテクストを読んでいて,ストンと腑に落ちるものがあった。
 その他にも,日本で一世を風靡した「社会史研究」のアナール学派もまた,ルジャンドルの手にかかると一刀両断である。これには,少なからず衝撃を受けた。そうか,ルジャンドルの研究というのは,もっともっと根源的な問いに応答するためのものなのだ,と再認識させられた。となれば,ルジャンドルの主張をもっとしっかりと受け止めなくてはならない。ちょっと面白くなりそうだ。こんな出会いは滅多にあるものではない。

 このテクストの最後のところで,ルジャンドルは,みずからのリクエストとしてギィ・ベアールの「真実」という歌を聴かせている。その理由について,つぎのように述べている。

 とても鮮烈な一節があるからです。「詩人が真実を言った。かれは処刑されねばならない」と。歴史,そして政治に鑑みるなら的確な言葉です。それはまた,死の教えを己の身に引き受けるよう促す言葉でもある。わたしたちのあらゆる仕事は,いつか飲み込まれてゆく運命にあるのですから。
 わたしがしていること,わたしが書いていること。それについて自分で要約してみることがあります。わたしはただ,人類がいつだって知っていたことを新しいやりかたで書いているだけだ,と。わたしは単に,これからやって来る世界の劇的な争点に見合うよう,学者めいた口ぶりでそれを語っているだけなのです(P.176~177.)。

 こう語ったあとに,この歌の歌詞(1番と4番)が12行にわたって引用されている。
 とても感動的ないい詩で,何回,読み返してみても,鳥肌が立つ。
 ルジャンドルが見据えている世界の,とてつもない奥深さに,ただ,たじろぐのみである。
 こうなったら,もう,ルジャンドルを手離すことはできない。わがものとして語れるようになるまでは。

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