2012年6月15日金曜日

ピエール・ルジャンドルの「ドグマ的なもの」について・その7.スポーツとは宗教的・訴訟的な意味でのドグマの発露の一様態である(ルジャンドル)。

 『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』のP.272.で,ルジャンドルは「スポーツとは宗教的・訴訟的な意味でのドグマの発露の一様態である」と高らかに宣言し,「これは確かなことなのだ」と断言している。

 その上で,ルジャンドルはつぎのように指摘している。
 そのことが事実であるということは,スポーツ関連の書籍や雑誌を見れば,一目瞭然である,という。そこには,「体を鍛えましょう,精神状態にも有益で,人格形成にも役立ちます」という言説が満載である,と。その背景にあるものは「心-身主義」(=産業的合理主義の典型的表象)であり,これが「スポーツ理論の後ろ盾や補強になっている」と,ルジャンドルは指摘している。

 ここまで言われてしまうと,もはや反論のしようがない。
 たしかに,これまでのスポーツ関連の書籍や雑誌は,まぎれもなく,からだを鍛えれば「精神状態にも有益で,人格形成にも役立つ」と主張してきた。そして,それがごく当たり前のように受け入れられてきた。その合意の上に「スポーツ」は成立していた。これが,まさしくルジャンドルのいう「ドグマ」なのだ。

 しかし,からだを鍛えれば「精神状態にも有益で,人格形成にも役立つ」という保証はどこにもない。同時に,それを否定する根拠もどこにもない。そうでもあるし,そうでもない。しかし,どうせなら「そうである」方に希望を賭けたい。ここに「心-身主義」が分け入ってきて,その理論的バックボーンとなっているために,からだを鍛えることの「有益性」を否定することはできなくなる。その結果として,「有益性」を全面に押し出し,それを肯定する以外にはなくなってしまう。

 意のままに動かない身体を意のままに動かすことができるようになること,これがヨーロッパ近代の新たな規範として意味をもちはじめる(この背景には,近代国民国家の考え方がある)。言ってしまえば,意のままにならない身体(=自然=野性=動物性)を,意(心=精神=理性=人間性)のままにすることが,近代人として生きるための,すなわち近代国民国家を支える「国民」として生きるための,ひとつの規範として意味をもちはじめたのだ。(※この考え方がどこからきたのか,ということを明らかにすることがルジャンドルの「ドグマ人類学」の原点にある。この点については,また,別のところで述べてみたい。)これが,ルジャンドルのいう「心-身主義」のひとつの根拠である。

 しかも,この「心-身主義」こそ「産業的合理主義の典型的表象」だとルジャンドルはいうのである。いささか短絡的に聞こえるかも知れないが,鍛えられたスポーツマンの身体は,そのまま優れた労働する身体として「有益」である,と考えられている。つまり,意のままにからだを動かすことのできる「心」をわがものとした人間は,そのまま「産業的合理主義」のもとでの「労働」にきわめて「有益」な存在である,ということだ。

 日本近代が求めた「富国強兵」策のように,まさに「よく働く労働者」と「国を守る強い兵士」の身体の育成をめざしたのは,言ってしまえばルジャンドルのいう「西洋」の「心-身主義」の考え方に基づくものだった。もう一歩踏み込んでおけば,日本へはH.スペンサーの『教育論』とともに「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という誤った俚諺とともに移入され,広く流布することとなった。そして,これが近代人の理想的人間像として明治時代の教育のスローガンにもなった。いまでも,この考え方を信奉している人は少なくない。これが,まさに「ドグマ」そのものなのだ。真理と虚偽とが渾然一体となって,人びとの「信」を獲得した結果として。

 この考え方が,じつは,「産業的合理主義」を支え,現代の経済最優先社会を構築することになったことを,わたしたちは見過ごしてはならない。あえて指摘するまでもなく,「安全神話」をかかげ原発を推進し,それに便乗してきたわたしたちのこんにちの姿は,この「心-身主義」=「産業的合理主義」の成れの果てなのだ。

 わたしが以前から主張している「オリンピック・ムーブメント」と「原発推進運動」とは,その論理はまったく同根である,という根拠のひとつはここにある。世界平和を標榜するオリンピック・ムーブメントは,まさにルジャンドルが主張するように「宗教的・訴訟的な意味でのドグマの発露の一様態」そのものなのである。

うまく落ちがついたところで,今日のところはここまで。
明日は,橋本一径さんを囲んで,どんな話になるのだろうか。いまから,楽しみである。

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