前回の引用文につづいて,ルジャンドルは「ドグマ」の語源をめぐってつぎのように述べている。まずは,そこから入っていくことにしよう。
「ドグマ」というギリシア語は,見えるもの,現れる,そう見えるもの,そう見させるもの,ひいては見せかけを意味する。ついでこの語は,語義のもつふたつの側面にわれわれを引きこむが,言説を社会的に組織化する諸々のシステムはその両面を同時に動員する。ひとつは定礎的な公理であり,原理ないしは決定であり,もうひとつは名誉,美化,装飾である。このことから,「ドグマ」という表現によって表明され告知されるのは,合法的な真理として言祝がれた真理の言説,言われるべきだからして言われることの言説だと考えられる。したがって「ドグマ学」が対象とするのは,メッセージの起源に固有な空間,受信者がそこに準拠する空間,合法的真理の場として要請され,そのようなものとして社会的に演出される場に関わる,ある特殊な言説のメカニズムだということになる。ドグマ的命題の典型は紋章(エンブレム)であり,その傑出した例が古典的ともいえるボルニティウス(1664年)の装飾表現に見られる。
「見えるもの,現れる,そう見えるもの,そう見させるもの,見せかけ」が,ギリシア語の「ドグマ」の意味だという。そして,これらの語義はふたつの側面をもつ,という。ひとつは「公理,原理,決定」であり,もうひとつは「名誉,美化,装飾」だという。このふたつが,さまざまなシステムのなかで同時にはたらいているという。だから,「ドグマ」は「真理の言説」だと考えられるという。そして,ドグマ的命題の典型は「紋章(エンブレム)」だという。その優れたサンプルをボルニティウスの装飾表現にみることができるという。
ここでのルジャンドルの言説を強引にまとめてしまうと,「ドグマ」は,「公理,原理,決定」と「名誉,美化,装飾」のふたつが同時に機能する「真理の言説」として「現れる」(「そう見える」)ものの謂である,ということになる。そして,その典型は「紋章(エンブレム)」だ,と。
ここまで暴力的に剪定をしてしまうと,ようやく,わたしの頭の中に明かりが灯る。少しだけ安心して,そのボルニティウスの装飾表現(紋章学)を探してみる。P.61.の図版2がそれだ。この図版についてルジャンドルはP.59.で解説を加えている。しかし,この解説を理解するには,まだ,わたしにはハードルが高すぎるようだ。そこで,ボルニティウスに付された注をたどっていくと『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修/橋本一径訳,人文書院)を参照せよ,とある。
急いで探してみると,このテクストのP.59.に以下のような言説がでてくる。少し長いが,とても重要なヒントを与えてくれると思われるので,引いておこう。
──あらゆるドグマ的なものは,人間と絶対的な知との関係を表明し,ことば(パロール)の社会的な由来となる審級──それを大文字の<他者>と呼ぼう──に,神話的な確かさを与える。社会システムはどれもこの問題に苦心している。手短に言えば,知っている「それ」のいる空間──そこでなら「それ」が絶対に知っている空間──の制定なしには,人間というものは組織されえない(わたしはたとえばナショナリズムによって統率されるような大規模な装置のことを言っている)。ボルニティウス(17世紀)の挿絵について考えてみよう(図版1)。神の糸が君主の心をつなぎ,翼(おそらくそれは自ずから蘇生する神話上の鳥フェニックスの翼である)をもったその心は,無限に再生する権力の心である。それはエンブレム的かつ叙情的に表現された,政治的位相学のみごとな実例であり,大文字の<他者>の審級への人間的準拠の傑作をそこに見て取れるだろう。人体を詩的に参照することでこの審級に人間的な確かさを与えているドグマ的な作用にも,同様に注目しておこう。(※図版1とあるのは図版3の間違いか?)
この図版の下の部分には,Der Menschen hertz in Gottes handt, Wo Er hin wil, dahin ers wandt. という中世ドイツ語を読み取ることができる。意訳しておくと「人間のこころは神の手中にある。だから神は,それを意のままに操る」となる。
ルジャンドルのいう「ドグマ的なもの」の説明に圧倒されつつも,その言説とエンブレムの解説とが共振・共鳴していて,わたしにはストンと腑に落ちるものがあった。なるほど,エンブレムが「ドグマ的なもの」の典型的なサンプルである,と。
最後にもうひとつ,ルジャンドルの文章を引用してこの稿を終わることにしよう。さきの引用の流れの末尾(P.63.)のパラグラフである。
──ドグマ的なものを位置づけ,無意識の繊細な論理(大げさな精神分析理論家により時々表明され,そのときには言説の外に放り出される論理)に立ち向かう困難を和らげるために,ボルニティウスが音楽を定義して述べたエンブレム的形式〔無限から作られた有限〕や,近いところではJ.アルバースの以下の言葉を紹介しておこう。「科学では一足す一はいつも二だが,芸術では三にもそれ以上にもなる」。ドグマという問題設定に向いているのはこの芸術の数学のほうである。
※図版についてはのちほど転載の予定。とりあえず,文章のみをさきに。
「ドグマ」というギリシア語は,見えるもの,現れる,そう見えるもの,そう見させるもの,ひいては見せかけを意味する。ついでこの語は,語義のもつふたつの側面にわれわれを引きこむが,言説を社会的に組織化する諸々のシステムはその両面を同時に動員する。ひとつは定礎的な公理であり,原理ないしは決定であり,もうひとつは名誉,美化,装飾である。このことから,「ドグマ」という表現によって表明され告知されるのは,合法的な真理として言祝がれた真理の言説,言われるべきだからして言われることの言説だと考えられる。したがって「ドグマ学」が対象とするのは,メッセージの起源に固有な空間,受信者がそこに準拠する空間,合法的真理の場として要請され,そのようなものとして社会的に演出される場に関わる,ある特殊な言説のメカニズムだということになる。ドグマ的命題の典型は紋章(エンブレム)であり,その傑出した例が古典的ともいえるボルニティウス(1664年)の装飾表現に見られる。
「見えるもの,現れる,そう見えるもの,そう見させるもの,見せかけ」が,ギリシア語の「ドグマ」の意味だという。そして,これらの語義はふたつの側面をもつ,という。ひとつは「公理,原理,決定」であり,もうひとつは「名誉,美化,装飾」だという。このふたつが,さまざまなシステムのなかで同時にはたらいているという。だから,「ドグマ」は「真理の言説」だと考えられるという。そして,ドグマ的命題の典型は「紋章(エンブレム)」だという。その優れたサンプルをボルニティウスの装飾表現にみることができるという。
ここでのルジャンドルの言説を強引にまとめてしまうと,「ドグマ」は,「公理,原理,決定」と「名誉,美化,装飾」のふたつが同時に機能する「真理の言説」として「現れる」(「そう見える」)ものの謂である,ということになる。そして,その典型は「紋章(エンブレム)」だ,と。
ここまで暴力的に剪定をしてしまうと,ようやく,わたしの頭の中に明かりが灯る。少しだけ安心して,そのボルニティウスの装飾表現(紋章学)を探してみる。P.61.の図版2がそれだ。この図版についてルジャンドルはP.59.で解説を加えている。しかし,この解説を理解するには,まだ,わたしにはハードルが高すぎるようだ。そこで,ボルニティウスに付された注をたどっていくと『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修/橋本一径訳,人文書院)を参照せよ,とある。
急いで探してみると,このテクストのP.59.に以下のような言説がでてくる。少し長いが,とても重要なヒントを与えてくれると思われるので,引いておこう。
──あらゆるドグマ的なものは,人間と絶対的な知との関係を表明し,ことば(パロール)の社会的な由来となる審級──それを大文字の<他者>と呼ぼう──に,神話的な確かさを与える。社会システムはどれもこの問題に苦心している。手短に言えば,知っている「それ」のいる空間──そこでなら「それ」が絶対に知っている空間──の制定なしには,人間というものは組織されえない(わたしはたとえばナショナリズムによって統率されるような大規模な装置のことを言っている)。ボルニティウス(17世紀)の挿絵について考えてみよう(図版1)。神の糸が君主の心をつなぎ,翼(おそらくそれは自ずから蘇生する神話上の鳥フェニックスの翼である)をもったその心は,無限に再生する権力の心である。それはエンブレム的かつ叙情的に表現された,政治的位相学のみごとな実例であり,大文字の<他者>の審級への人間的準拠の傑作をそこに見て取れるだろう。人体を詩的に参照することでこの審級に人間的な確かさを与えているドグマ的な作用にも,同様に注目しておこう。(※図版1とあるのは図版3の間違いか?)
この図版の下の部分には,Der Menschen hertz in Gottes handt, Wo Er hin wil, dahin ers wandt. という中世ドイツ語を読み取ることができる。意訳しておくと「人間のこころは神の手中にある。だから神は,それを意のままに操る」となる。
ルジャンドルのいう「ドグマ的なもの」の説明に圧倒されつつも,その言説とエンブレムの解説とが共振・共鳴していて,わたしにはストンと腑に落ちるものがあった。なるほど,エンブレムが「ドグマ的なもの」の典型的なサンプルである,と。
最後にもうひとつ,ルジャンドルの文章を引用してこの稿を終わることにしよう。さきの引用の流れの末尾(P.63.)のパラグラフである。
──ドグマ的なものを位置づけ,無意識の繊細な論理(大げさな精神分析理論家により時々表明され,そのときには言説の外に放り出される論理)に立ち向かう困難を和らげるために,ボルニティウスが音楽を定義して述べたエンブレム的形式〔無限から作られた有限〕や,近いところではJ.アルバースの以下の言葉を紹介しておこう。「科学では一足す一はいつも二だが,芸術では三にもそれ以上にもなる」。ドグマという問題設定に向いているのはこの芸術の数学のほうである。
※図版についてはのちほど転載の予定。とりあえず,文章のみをさきに。
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