ピエール・ルジャンドルは2003年10月から11月にかけて日本に滞在している。その間に,講演を2回,ワークショップを3回,行っている。わたしは西谷修さんのお誘いもあって,そのうちの4回まで参加させていただいた。4回目のときには,ルジャンドルもわたしの顔を覚えていてくれて,お前はまた来たんだね,と声をかけてくれた。嬉しかった。
当時は,なんのことやらあまりよくわからないまま,じっと耳を傾けていた。そして,なにやら,わたしたちがそれまで考えてきたこととはまったく次元の違う,とてつもない構想のもとでの話らしいということだけは感じとることができた。しかし,その内実となると,なかなか踏み込めないでいた。
その大きな壁となっていたのは,西谷さんからプレゼントされた最初のルジャンドルの訳書『第Ⅷ講・ロルティ伍長の犯罪──父を論じる』(人文書院,1998年)だった。何回,チャレンジしても最後まで読めないのである。途中でわけがわからなくなってしまって,投げ出してしまう。それでも,せっかくいただいた本なのでなんとか読み切って,ほんの少しでもいい,自分のことばで感想を述べてみたかった。それもままならないまま,時間だけが過ぎていった。
そのつぎは,2003年のルジャンドルの来日に合わせて翻訳がなされた『ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題』(平凡社,2003年)だった。この分厚い本に圧倒されたこともあるが,なにしろルジャンドルの仕掛けている言説についていかれないのである。これも何回もチャレンジするのだが,挫折してしまう。仕方がないので,西谷さんの解説をくり返し読む。すると,なんとなくわかったような気になってくる。そこで,また再挑戦をする。そのくり返しだった。
が,ありがたいことに,翌年の2004年には,ルジャンドルが日本滞在中におこなったシンポジウムとワークショップをまとめた『<世界化>を再考する P.ルジャンドルを迎えて』(西谷修編,せりか書院,2004年)が刊行された。これをくり返し読むことになった。とりわけ,この本の巻末に掲載された西谷修さんの「解説」ピエール・ルジャンドルとドグマ人類学,がとても助かった。この解説を手がかりにして,シンポジウムやワークショップのところを何回も読んだ。こうして,いくらかドグマ人類学のめざしているベクトルがこの方向なのだ,ということがみえてきた。
それからほどなく,『西洋が西洋について見ないでいること 法・言語・イメージ〔日本講演集〕』(森元庸介訳,以文社,2004年)が刊行された。この本は,初めてわたしを興奮させた。なぜなら,これまで携わってきたスポーツ史研究(とりわけ,ヨーロッパの)を根源から問い直さなくてはいけない,と切実に感じたからである。これまで長い間,思い描いてきたヨーロッパのスポーツ史はいったいなんだったのか,と。こうして,ようやくルジャンドルのいうドグマ人類学とスポーツ史がクロスするようになってきた。興奮しないではいられなかった。
そうしているうちに,つぎの訳書『第Ⅱ講・真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』(西谷修/橋本一径訳,人文書院,2006年)がでた。こちらはわたしの準備運動ができていたせいなのか,以前とは違って,少し頑張ればかなりのところまで読める。嬉しかった。もちろん,随所に理解不能(わたしの責任なのだが)のところがあったが,でも,わかるところをつないでいくと,そこになにがしかの「流れ」のようなものがみえてきた。しかも,昨日のブログでも書いたように,ルジャンドルがみずから「スポーツ」の「ドグマ的なもの」に触れている。これはありがたかった。そうか,そういうことだったのか,と納得。
つぎのルジャンドルとの出会いは,インタヴュー集『ルジャンドルとの対話』(森元庸介訳,みすず書房,2010年)であった。こちらは,ラジオの番組としてインタヴューアーの質問に応答したものだったので,とても読みやすかった。ルジャンドルという人の人となりのようなものも伝わってきて,ルジャンドル理解にはとても役に立った。ありがたい本である。
つづいて,こんどは講演集『西洋をエンジン・テストする』(森元庸介訳,以文社,2012年)とやはり講演集『同一性の謎 知ることと主体の闇』(橋本一径訳,以文社,2012年)が立て続けに刊行された。ようやく,ピエール・ルジャンドルの時代がやってきた,としみじみ思う。西谷さんが『ロルティ伍長の犯罪,父を論じる』(1998年)を世に送り出してから15年。ようやく報われる時代がきた,とわたしはこころから思う。とりわけ,「3・11」はその幕開けになったのではないか,と。
時代は大きく変わろうとしている。しかし,その時代を先導する「導きの糸」となる思想・哲学が,いまひとつ釈然としない。わたしのささやかな理解にしかすぎないけれども,少なくとも,スポーツ史研究のレベルで考えると,ピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」はそれに応える思想・哲学たりうる内容をもっている,と信じたい。だから,ルジャンドルがこの「学」に仕掛けた恐るべき罠を,わたしはスポーツ史研究の場で展開してみたいと思っている。それが「21世紀のスポーツ文化」の可能性を開いていくひとつの鍵となるのではないか,と思うから。
以上が,わたしのささやかなピエール・ルジャンドル遍歴の一端である。
明日(16日)は,橋本一径さんにお出でいただいて,最新の訳書である『同一性の謎 知ることと主体の闇』を手がかりに,ルジャンドルの可能性についてお話していただくことになっている。できれば,スポーツとの関連にまで踏み込んでお話いただけると幸いである。
そこまで踏み込んでいただけるかどうかは,お話を聞くわたしたちの方の問いかけ方にかかっている,と覚悟を決めている。明日が楽しみである。
当時は,なんのことやらあまりよくわからないまま,じっと耳を傾けていた。そして,なにやら,わたしたちがそれまで考えてきたこととはまったく次元の違う,とてつもない構想のもとでの話らしいということだけは感じとることができた。しかし,その内実となると,なかなか踏み込めないでいた。
その大きな壁となっていたのは,西谷さんからプレゼントされた最初のルジャンドルの訳書『第Ⅷ講・ロルティ伍長の犯罪──父を論じる』(人文書院,1998年)だった。何回,チャレンジしても最後まで読めないのである。途中でわけがわからなくなってしまって,投げ出してしまう。それでも,せっかくいただいた本なのでなんとか読み切って,ほんの少しでもいい,自分のことばで感想を述べてみたかった。それもままならないまま,時間だけが過ぎていった。
そのつぎは,2003年のルジャンドルの来日に合わせて翻訳がなされた『ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題』(平凡社,2003年)だった。この分厚い本に圧倒されたこともあるが,なにしろルジャンドルの仕掛けている言説についていかれないのである。これも何回もチャレンジするのだが,挫折してしまう。仕方がないので,西谷さんの解説をくり返し読む。すると,なんとなくわかったような気になってくる。そこで,また再挑戦をする。そのくり返しだった。
が,ありがたいことに,翌年の2004年には,ルジャンドルが日本滞在中におこなったシンポジウムとワークショップをまとめた『<世界化>を再考する P.ルジャンドルを迎えて』(西谷修編,せりか書院,2004年)が刊行された。これをくり返し読むことになった。とりわけ,この本の巻末に掲載された西谷修さんの「解説」ピエール・ルジャンドルとドグマ人類学,がとても助かった。この解説を手がかりにして,シンポジウムやワークショップのところを何回も読んだ。こうして,いくらかドグマ人類学のめざしているベクトルがこの方向なのだ,ということがみえてきた。
それからほどなく,『西洋が西洋について見ないでいること 法・言語・イメージ〔日本講演集〕』(森元庸介訳,以文社,2004年)が刊行された。この本は,初めてわたしを興奮させた。なぜなら,これまで携わってきたスポーツ史研究(とりわけ,ヨーロッパの)を根源から問い直さなくてはいけない,と切実に感じたからである。これまで長い間,思い描いてきたヨーロッパのスポーツ史はいったいなんだったのか,と。こうして,ようやくルジャンドルのいうドグマ人類学とスポーツ史がクロスするようになってきた。興奮しないではいられなかった。
そうしているうちに,つぎの訳書『第Ⅱ講・真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』(西谷修/橋本一径訳,人文書院,2006年)がでた。こちらはわたしの準備運動ができていたせいなのか,以前とは違って,少し頑張ればかなりのところまで読める。嬉しかった。もちろん,随所に理解不能(わたしの責任なのだが)のところがあったが,でも,わかるところをつないでいくと,そこになにがしかの「流れ」のようなものがみえてきた。しかも,昨日のブログでも書いたように,ルジャンドルがみずから「スポーツ」の「ドグマ的なもの」に触れている。これはありがたかった。そうか,そういうことだったのか,と納得。
つぎのルジャンドルとの出会いは,インタヴュー集『ルジャンドルとの対話』(森元庸介訳,みすず書房,2010年)であった。こちらは,ラジオの番組としてインタヴューアーの質問に応答したものだったので,とても読みやすかった。ルジャンドルという人の人となりのようなものも伝わってきて,ルジャンドル理解にはとても役に立った。ありがたい本である。
つづいて,こんどは講演集『西洋をエンジン・テストする』(森元庸介訳,以文社,2012年)とやはり講演集『同一性の謎 知ることと主体の闇』(橋本一径訳,以文社,2012年)が立て続けに刊行された。ようやく,ピエール・ルジャンドルの時代がやってきた,としみじみ思う。西谷さんが『ロルティ伍長の犯罪,父を論じる』(1998年)を世に送り出してから15年。ようやく報われる時代がきた,とわたしはこころから思う。とりわけ,「3・11」はその幕開けになったのではないか,と。
時代は大きく変わろうとしている。しかし,その時代を先導する「導きの糸」となる思想・哲学が,いまひとつ釈然としない。わたしのささやかな理解にしかすぎないけれども,少なくとも,スポーツ史研究のレベルで考えると,ピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」はそれに応える思想・哲学たりうる内容をもっている,と信じたい。だから,ルジャンドルがこの「学」に仕掛けた恐るべき罠を,わたしはスポーツ史研究の場で展開してみたいと思っている。それが「21世紀のスポーツ文化」の可能性を開いていくひとつの鍵となるのではないか,と思うから。
以上が,わたしのささやかなピエール・ルジャンドル遍歴の一端である。
明日(16日)は,橋本一径さんにお出でいただいて,最新の訳書である『同一性の謎 知ることと主体の闇』を手がかりに,ルジャンドルの可能性についてお話していただくことになっている。できれば,スポーツとの関連にまで踏み込んでお話いただけると幸いである。
そこまで踏み込んでいただけるかどうかは,お話を聞くわたしたちの方の問いかけ方にかかっている,と覚悟を決めている。明日が楽しみである。
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