ここまで外堀を埋める作業をしたからには,つぎは本丸攻めにとりかかるべきだろう。
そこで,まずは,ルジャンドル自身が「ドグマ性」(=「ドグマ的なもの」)について,どのように述べているのか,確認しておこう。
なにはともあれ,ルジャンドル自身の言説を引用しておこう。典拠は,『ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修監訳,嘉戸一将/佐々木中/橋本一径/森元庸介訳,平凡社,2003年)である。その冒頭部分のP.30.に「1.用語解説(ドグマ性,コミュニケーション/現代のヘルメス)」という章があり,ルジャンドルはこの三つの用語について丁寧に解説を試みている。それによれば,
「ドグマ性」という用語は近代性と両立しないとみなされて追放され,ときどきヨーロッパのテクスト群の宗教的遺稿や,言説の全体主義的構築物の特徴を示すのに用いられるだけである。長いあいだ互いに入り組み合ってきた多様な諸学(自然科学,医学,法学,神学)にまたがって「法(loi)」の概念が出現したことに関して,この「ドグマ性」という用語のもっていた豊かさは,20世紀にいたるまで無視されてきた。それでも現代の傾向は,ドグマ学がある不分明で稠密な現象を包含するものだということ,つまりは人間的コミュニケーションにおいて,ことばの機能に関わり,また<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものだということを,暗黙のうちに認めている。(P.30.)
とある。これによれば,「法(loi)」の概念が出現したあと,「ドグマ性」という用語がもつ豊かさは長い間,無視されてきたという。しかし,それでもなお,ドグマ学が「不分明で稠密な現象を包含するもの」であるということ,そして,とりわけ,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものである」ということは,暗黙のうちに認められている,とルジャンドルはいう。つまり,現代にあっても「ドグマ学」を全否定することはできないのだ,と。
この指摘は,これからわたしたちが「ドグマ的なもの」を考えていく上で,きわめて重要な意味をもつ,とわたしは受け止めている。なぜなら,「法(loi)」の概念が出現することの必然性を,いつ,だれが,どのようにして要請したのか,ということと深く関わっていると考えるからだ。つまり,「法(loi)」の概念が出現するまでは,「ドグマ的なもの」が一定の意味をもって機能していたのに,それが抑圧・排除・隠蔽されていくことになる。では,その「理由」「原因」「根拠」(reason)はいったいなんだったのか,という問いが「ドグマ人類学」の出発点となっている。だから,このみずからの問いに応答していくことがルジャンドルの最大のテーマであり,「ドグマ人類学」を定礎する上での前提条件でもあった。この点については,追って,明らかにしていくことにしよう。
「ドグマ的なるもの」が,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものである」という指摘は,じつは,わたしの考えている「スポーツ」および「スポーツ的なるもの」を考えていく上での要となる部分とぴったりと重なっている。もっと言ってしまえば,人間が生きる営みそのものが,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象」そのものではないか,とわたしは考えているからだ。そして,「スポーツ」や「スポーツ的なるもの」もまた,人間の営みであるかぎり,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象」以外のなにものでもない。
さらにもうひとこと。ルジャンドルのいう「法(loi)」は,スポーツでいえば「ルール」に相当する。バナキュラーなスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)には,ルールは不要であった。しかし,都市が形成され,出自のことなる人びとが集まる「場」にあっては,ルールなしにはスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)は成立しなくなる。そのとき,スポーツはどのような変容を余儀なくされることになったのか,また,人びとの生き方や考え方にいかなる影響を及ぼすことになったのか,という新たな問いが生まれてくる。
あえて指摘しておけば,わたしの構想する「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)を成立させる根拠のひとつもまた,ここにあると考えている。つまり,「スポーツ科学」を超克するための最大の根拠が,「ドグマ的なもの」をどのように定置するか,ということにかかっていると考えるからである。わたしは,いま,「スポートロジイ」をはじめるにあたって,喜びに震えている。
今回はここまで。次回は「ドグマ」の語源をルジャンドルがどのように説明しているか,そのあたりのことをさぐることにしよう。
そこで,まずは,ルジャンドル自身が「ドグマ性」(=「ドグマ的なもの」)について,どのように述べているのか,確認しておこう。
なにはともあれ,ルジャンドル自身の言説を引用しておこう。典拠は,『ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題』(ピエール・ルジャンドル著,西谷修監訳,嘉戸一将/佐々木中/橋本一径/森元庸介訳,平凡社,2003年)である。その冒頭部分のP.30.に「1.用語解説(ドグマ性,コミュニケーション/現代のヘルメス)」という章があり,ルジャンドルはこの三つの用語について丁寧に解説を試みている。それによれば,
「ドグマ性」という用語は近代性と両立しないとみなされて追放され,ときどきヨーロッパのテクスト群の宗教的遺稿や,言説の全体主義的構築物の特徴を示すのに用いられるだけである。長いあいだ互いに入り組み合ってきた多様な諸学(自然科学,医学,法学,神学)にまたがって「法(loi)」の概念が出現したことに関して,この「ドグマ性」という用語のもっていた豊かさは,20世紀にいたるまで無視されてきた。それでも現代の傾向は,ドグマ学がある不分明で稠密な現象を包含するものだということ,つまりは人間的コミュニケーションにおいて,ことばの機能に関わり,また<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものだということを,暗黙のうちに認めている。(P.30.)
とある。これによれば,「法(loi)」の概念が出現したあと,「ドグマ性」という用語がもつ豊かさは長い間,無視されてきたという。しかし,それでもなお,ドグマ学が「不分明で稠密な現象を包含するもの」であるということ,そして,とりわけ,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものである」ということは,暗黙のうちに認められている,とルジャンドルはいう。つまり,現代にあっても「ドグマ学」を全否定することはできないのだ,と。
この指摘は,これからわたしたちが「ドグマ的なもの」を考えていく上で,きわめて重要な意味をもつ,とわたしは受け止めている。なぜなら,「法(loi)」の概念が出現することの必然性を,いつ,だれが,どのようにして要請したのか,ということと深く関わっていると考えるからだ。つまり,「法(loi)」の概念が出現するまでは,「ドグマ的なもの」が一定の意味をもって機能していたのに,それが抑圧・排除・隠蔽されていくことになる。では,その「理由」「原因」「根拠」(reason)はいったいなんだったのか,という問いが「ドグマ人類学」の出発点となっている。だから,このみずからの問いに応答していくことがルジャンドルの最大のテーマであり,「ドグマ人類学」を定礎する上での前提条件でもあった。この点については,追って,明らかにしていくことにしよう。
「ドグマ的なるもの」が,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象を包含するものである」という指摘は,じつは,わたしの考えている「スポーツ」および「スポーツ的なるもの」を考えていく上での要となる部分とぴったりと重なっている。もっと言ってしまえば,人間が生きる営みそのものが,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象」そのものではないか,とわたしは考えているからだ。そして,「スポーツ」や「スポーツ的なるもの」もまた,人間の営みであるかぎり,「<理性>と<非-理性>の分かれ目に関わる現象」以外のなにものでもない。
さらにもうひとこと。ルジャンドルのいう「法(loi)」は,スポーツでいえば「ルール」に相当する。バナキュラーなスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)には,ルールは不要であった。しかし,都市が形成され,出自のことなる人びとが集まる「場」にあっては,ルールなしにはスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)は成立しなくなる。そのとき,スポーツはどのような変容を余儀なくされることになったのか,また,人びとの生き方や考え方にいかなる影響を及ぼすことになったのか,という新たな問いが生まれてくる。
あえて指摘しておけば,わたしの構想する「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)を成立させる根拠のひとつもまた,ここにあると考えている。つまり,「スポーツ科学」を超克するための最大の根拠が,「ドグマ的なもの」をどのように定置するか,ということにかかっていると考えるからである。わたしは,いま,「スポートロジイ」をはじめるにあたって,喜びに震えている。
今回はここまで。次回は「ドグマ」の語源をルジャンドルがどのように説明しているか,そのあたりのことをさぐることにしよう。
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