2012年6月12日火曜日

ピエール・ルジャンドルの「ドグマ的なもの」について・その1.「ドグマ」なしには人間は生きてはいけない。。

「ドグマ」という日本語の語釈が「独断」とか「独断的な説・意見」として,あまりに広くゆきわたってしまったがために,本来の意味である宗教的な「教義」「教条」がないがしろにされてしまっている。そのため,「ドグマ人類学」などと聞くと,少なくともアカデミックな学問領域としてはなじまないし,拒絶反応さえ起こしてしまいかねない。

しかし,英和辞典で,dogma を引いてみると,まず最初に,〔教会が下す〕教義,教理,とでてくる。つづいて〔集合的に〕教条,信条,定説,定則,とある。そして,二番目に,独断(的な意見・主張・信念),とある。

ここで気づくことは,前近代までは,dogma といえば間違いなく教会が下す「教義」「教理」であったはずである。しかし,近代に入って科学的合理主義,あるいは,科学的実証主義が台頭するにしたがって,科学的に証明のできないものとして宗教的な「教義」「教理」が軽視されるようになり,やがてはつぎつぎに抑圧・排除されていくことになる。そして,ついにはニーチェをして「神は死んだ」と言わしめることになる。

わたしたちは「神は死んだ」あとの時代を生きている。つまり,dogma とは科学的に実証できない「迷信」「呪術」「おまじない」の類として片づけられてしまったあとの時代を,わたしたちは生きているということだ。だから,気づいたときには  dogma は「独断」とか「偏見」の意味しか持ち合わせてはいなかった。

その  dogma を冠にした「ドグマ人類学」という名称を聞いて,最初から拒否反応を示すのも,不思議ではない。しかし,この拒否反応もまた,立派な  dogma なのだ。思い込み,偏った知識による拒否反応。あるいは,科学主義や経済的合理主義による拒否反応。もう一度,ことばの原義に立ち返って考えてみれば, dogma とは,それぞれの時代の醸しだす歴史的根拠の上に立つしっかりとした意味をもっていることに気づく。しかも,それは時代や社会とともに,つねに揺れ動いている。

このことをまずは確認しておこう。
そうすれば,あとは,かなり自由に議論を展開しても大丈夫だろう。

ところで,わたしたちは,なんとドグマティックに生きていることだろう。いや,それどころか,ドグマティックでなくては生きてはいけない,そういう「生きもの」なのだ,ということを知るべきであろう。わたしには以前からそんな感覚がずっとあった。重大な決心ほど「エイヤッ!」という,根拠のないところで行うことが多かった。ようするに,ドグマ的に。

こういう「ドグマ的なもの」の出現の根拠はどこにあるのだろうか。どうして,「ドグマ」に依拠しなくてはならないのだろうか。このあたりのことを少し考えてみよう。

たとえば,こうだ。
立っている木をみて,木と呼ぶのは日本語で暮らしている人たちだけだ。英語圏で暮らしている人たちは,tree(ツリー)と呼ぶ。ドイツ語圏では,Baum(バウム)という。つまり,言語によって,木の名称はみんな違う。日本語で木を木と呼ぶ根拠はどこにもない,ということだ。同じように,tree や Baumでなくてはいけない根拠もどこにもない。それらは単なる名付け(一方的な「暴力」,「エイヤッ!」の世界)の約束ごとであり,その約束ごとを共有する人びとが存在するかぎりにおいて成立しているにすぎない。すなわち,dogma=ドグマ。

ここからはじまって,わたしたち人間は生きていくための約束ごととして,たくさんのドグマを生み出してきた。そして,そのドグマに支えられるようにして人間の「生」は成立している。宗教もまた,その必要に応じて,それぞれの土地に固有のドグマを生み出し,それを信ずる人の「生」を支えてきた。仏教もイスラム教もユダヤ教もキリスト教も,みんなその根は同じだ。

しかし,キリスト教だけは,これらの宗教とはいささか異なる道を歩むことになった,とルジャンドルは主張する。この議論はルジャンドルの提唱する「ドグマ人類学」の根幹をなす,きわめて重要な議論なので,ここでは割愛する。とても,一筋縄では済まされない,きわめて重要な議論なので,また,いつか別のかたちで取り上げることにしたい。

ここでは,「ドグマ的なるもの」の核心に触れる西谷修の言説を紹介しておくことにする。

・・・・ここで言う「ドグマ的なもの」とは,ことばで生存を組織する人間という「種」が,言語やイメージを通して自己と世界との関係を組織する際,規範的に働くそのような象徴的システムに個々の主体を定位する仕組みのことである。端的に言えばそれは,言語とそれによるコミュニケーションを可能にする機制であり,この生き物の社会化を可能にする規範システムを支えるメカニズムに関わるものである。さらに言うなら,言語なき世界に言語を重ね,そのスクリーンを通して生きる「人間」なるものを可能にするからくり,生存の無根拠性を人間的な根拠へと転じ,人間を依拠すべき「理性」へと導く(「狂気」から救い出す)力業を演じるものの謂である。(『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』ピエール・ルジャンドル,西谷修/橋本一径訳,人文書院,2006年,P.3.)

この手の文章に慣れていない人たちにとってはいささか難解であるかも知れないが,熟読玩味していただければ幸いである。深い内容が凝縮されているので,何回も読み返すうちに,おのずから意とするところが伝わってくる。

この引用の前段に,きわめて重要な指摘を西谷修さんがしているので,次回はここを取り上げて考えてみたい。

とりあえず,今日のところはここまで。

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