昨夜(25日),カトノリこと加藤範子のダンス公演をみてきました。
カトノリとは,不思議なご縁というか,因縁のようなものがつきまとっていて,いささか説明に困るほどです。簡単にいえば,日体大大学院のときのゼミ生として修士論文を指導した教え子。なかなか一筋縄では納まらない独特の個性の持ち主。言ってしまえば,行動先行型で,イメージがそのあとを追い,そして,その裏付けのために思想・哲学の本に手をのばし,みずからの思考を練り上げてようやくわがものとする,というのが学生時代からカトノリを観察してきたわたしの印象。それはいまも少しも変わってはいない。そこがカトノリの魅力であり,短所でもある。だから,かなりの回り道をしないと,自分で納得できるところには到達しない。理想が高いのである。とにかく時間がかかる。意欲満々なのだが,それらが稔るまでにはたいへんな労力と時間がかかる。したがって,忍耐力と持続力が必要だ。が,そういう能力にはめぐまれている。我慢強く,高い志を大切に,未来を見据えている。いわば,大器晩成型か。
その大器晩成型が,ようやく,ここにきてなにか化けはじめたように思う。が,カトノリのこころの奥底に秘めた野心からすれば,まだまだ序の口。でも,その序の口がみえてきたのだとしたら,これはこれで大変なことだ。その予感を誘うような要素が,今回のステージにはあちこちに広がっていた。
その契機のひとつとなったのは,大きなお腹をつきだして(妊婦さん)踊るという,カトノリの直面している避けがたい現実かもしれない。言ってみれば,妊婦ダンス。カトノリにとっても初めての経験。わたしは生まれてはじめて妊婦ダンスなるものを拝見した。女は強し。妊娠したんだという現実にしっかりと向き合い,その事実を包み隠すことなく,いま・ここの思いをそのままステージに曝け出す。男にはどう逆立ちしたところで真似のできない芸当だ。やがては,母親になる。その母親になる過渡期。重大にして,しかも,大きな過渡期。娘のダンスから妊婦のダンスへ,やがて,母親のダンスになる。そして,その母親になったときが,カトノリの大化けのチャンス。その序曲に立ち合ったということのようだ。
場所は「座・高円寺2」。
配布されたリーフレットによれば,詳細は以下のようだ。
◎企画・構成◇加藤範子
◎出演◇クラウディオ・マランゴン,長内真理,木村玲奈,宮原万智,仲間若菜,加藤範子
◎照明◇福田玲子
点在する感触の行方
イタリア・日本共同制作 加藤範子+Dance-tect ダンス公演
the future for concealed sensation
対話Ⅱ
SALERNO-ITALIA,AOMORI-JAPAN
イタリアからやってきたクラウディオ・マランゴンは〔振付師/ダンサー/ボーダーラインダンス・カンパニー主宰/Ra.I.D芸術監督/精神科医〕という多くの顔をもっている。今回は,ダンサーとして来日。カトノリとマランゴンの出会いは数年前のことで,二人のなにかが「パチン」とはじけるようにして意気投合したらしい。以後,マラゴンが企画するステージに国際的なダンサーのひとりとしてカトノリが加わるようになる。今回の企画も,カトノリがマラゴンにイタリアに招かれたお返しのような企画だ,と会場で耳にした。
プログラムは
第一部:ワタシとアナタをつなぎとめるもの
振付:加藤範子
音楽:片山泰輝
第二部:ブレインストーミング:身体と都市
振付:クラウディオ・マランゴン
映像:ウーゴ
第三部:
1.紅の幻影(創作琉球舞踊:仲間若菜)
2.存在の感触
ダンス:クラウディオ・マランゴン,加藤範子
三線:仲間若菜
これらのダンスの細部について,わたしは語る資格はない。
したがって,大づかみな印象だけを記しておこう。
第一部の「ワタシとアナタをつなぎとめるもの」のソロ・バージョンをわたしは弘前のステージで拝見している。そのときには音楽の片山泰輝君とも一緒だった。ダンサー・カトノリは客席から現れ,例によってカードに単語(日本語)を書き込んだもの(手書き)を,前列に坐っているお客さんに一枚ずつ,ゆっくりとくばりはじめる。くばり終わると黙ってステージに上り,ゆるゆると踊りはじめる。いくつかのモチーフがあって,それらが順に踊られていく。
今回は,最初にカトノリが,原発作業員が身につける真っ白い防護服を着て,大きなゴーグルをかけ,大きな画用紙をもって舞台に現れる。客席から二人の女性が,やはり,カードをくばりはじめる。わたしのところには「血?」と書かれたカードが最初にとどけられ,しばらくして,別の女性からは「沖縄?」と書かれたカードがとどく。これで,まずは,分節化された原発事故に関するイメージや沖縄を忘れてはいないよ,というメッセージがとどく。しかし,そのメッセージがとどいたのは,前の方の座席にいた人たちだけだ。そのカードを配った女性二人が,ステージに上り踊りはじめる。カトノリは突っ立ったまま,画用紙をめくる。そこには,二項対立的なキー・ワードが大きく書かれている。カトノリは画用紙をめくる。二人の女性がそのキー・ワードに合わせて踊る。ひととおり,二人の女性のダンスが終わり,画用紙をめくる作業も終わると,やおら,カトノリが防護服を脱ぎはじめ,大きなお腹を丸出しにしたまま,普段着の妊婦さんが踊りはじめる。やがて,3人の踊りになる。ここからは,どうやらコンタクト・インプロヴィゼーション。うまく成功しているところと,ときどきとまどいを見せる若い二人の女性たち。カトノリはお構いなしにわが道を行くとでもいうような風で踊りつづける。それでいて,相手のいかなる踊りにも即座に対応しているようにもみえる。カトノリの新しい境地のようなものが透けて見えてくる。
第二部の「ブレイストーミング:身体と都市」はクラウディオ・マランゴンを中心にして,4人の女性が踊る。よくみると,一人ずつ,まったく質の違うダンスを繰り広げている。これがとても面白かった。都市を行き交う人びとの風景がとてもよく現れていたから。この群舞も基本はインプロヴィゼーション。はっきりコンタクトする場面もあったし,コンタクトなしで反応する場面もあって,ときおり起こる思い違いがまるで演出されたもののように見えてきて,これも面白かった。プログラムには「ダンス,空間と主観性」とあるが,わたしの眼には「主体性」が現れては消えていく,あるいは,消されていく,都市で生きるための「主体性」が,あわぶくのように現れては消えていく,まことにはかないものでしかない,そんな都市という「空間」のなかで「生」を営むことのあやうさが,とても印象的に映った。
第三部,1.紅の幻影(創作琉球舞踊・仲間若菜)が,わたしにはとても新鮮だった。琉球舞踊はいくらか眼に親しんでいるが,創作琉球舞踊をみるのは初めてだったからだろう。しかし,動きの少ない,静かな所作のなかに,まるで,地唄舞のような激しい情念のようなものが感じられ,この人の踊りの確かさが伝わってきた。もっともっと創作琉球舞踊を披露してほしいと思う。
2.存在の感触は,これまたとても面白い企画だった。クラウディオ・マランゴンとカトノリがコンタクト・インプロヴィゼーションをふんだんに用いて自由自在に踊りまわる。その踊りに,これまた即興で,仲間若菜さんが三線を合わせるもの。仲間さんの緊張感がもろに伝わってきて,効果抜群。ダンサーふたりは手慣れたもので,相手の動きに合わせていかようにも動きつつ,変幻自在に動きを変化させていく。まさに,「存在の感触」。触れることによってはじまる「分割/分有」(ジャン=リュック・ナンシー)。存在のはじまり。仲間さんの三線も,なにかに「触れた」瞬間に「ペン」と鳴る。そうでないときには「沈黙」である。三線が鳴るときと鳴らないときの,この「間」が緊張感を生み出していた。三線が「不在」になったり,突如として「存在」を主張したり,仲間さん自身の存在までもが,みごとにコラボレーションしていて,楽しかった。
全体の印象としては,カトノリがマランゴンという希有なるダンサーと出会ったことによって開かれつつある世界が,懐妊を契機にして,さらに大きく開かれていく,そんな予感がいっぱいだった。最後に,もうひとりの主役=母親のお腹のなかでステージ・デビューを経験した胎児(君/さん)に大きな拍手を送りたい。どんな子どもが生まれてくるのだろうか。いまから楽しみである。
以上がカトノリへのレポートです。
そして,公演の成功,おめでとう!
会場が満席になっていたのが嬉しかった。
。
カトノリとは,不思議なご縁というか,因縁のようなものがつきまとっていて,いささか説明に困るほどです。簡単にいえば,日体大大学院のときのゼミ生として修士論文を指導した教え子。なかなか一筋縄では納まらない独特の個性の持ち主。言ってしまえば,行動先行型で,イメージがそのあとを追い,そして,その裏付けのために思想・哲学の本に手をのばし,みずからの思考を練り上げてようやくわがものとする,というのが学生時代からカトノリを観察してきたわたしの印象。それはいまも少しも変わってはいない。そこがカトノリの魅力であり,短所でもある。だから,かなりの回り道をしないと,自分で納得できるところには到達しない。理想が高いのである。とにかく時間がかかる。意欲満々なのだが,それらが稔るまでにはたいへんな労力と時間がかかる。したがって,忍耐力と持続力が必要だ。が,そういう能力にはめぐまれている。我慢強く,高い志を大切に,未来を見据えている。いわば,大器晩成型か。
その大器晩成型が,ようやく,ここにきてなにか化けはじめたように思う。が,カトノリのこころの奥底に秘めた野心からすれば,まだまだ序の口。でも,その序の口がみえてきたのだとしたら,これはこれで大変なことだ。その予感を誘うような要素が,今回のステージにはあちこちに広がっていた。
その契機のひとつとなったのは,大きなお腹をつきだして(妊婦さん)踊るという,カトノリの直面している避けがたい現実かもしれない。言ってみれば,妊婦ダンス。カトノリにとっても初めての経験。わたしは生まれてはじめて妊婦ダンスなるものを拝見した。女は強し。妊娠したんだという現実にしっかりと向き合い,その事実を包み隠すことなく,いま・ここの思いをそのままステージに曝け出す。男にはどう逆立ちしたところで真似のできない芸当だ。やがては,母親になる。その母親になる過渡期。重大にして,しかも,大きな過渡期。娘のダンスから妊婦のダンスへ,やがて,母親のダンスになる。そして,その母親になったときが,カトノリの大化けのチャンス。その序曲に立ち合ったということのようだ。
場所は「座・高円寺2」。
配布されたリーフレットによれば,詳細は以下のようだ。
◎企画・構成◇加藤範子
◎出演◇クラウディオ・マランゴン,長内真理,木村玲奈,宮原万智,仲間若菜,加藤範子
◎照明◇福田玲子
点在する感触の行方
イタリア・日本共同制作 加藤範子+Dance-tect ダンス公演
the future for concealed sensation
対話Ⅱ
SALERNO-ITALIA,AOMORI-JAPAN
イタリアからやってきたクラウディオ・マランゴンは〔振付師/ダンサー/ボーダーラインダンス・カンパニー主宰/Ra.I.D芸術監督/精神科医〕という多くの顔をもっている。今回は,ダンサーとして来日。カトノリとマランゴンの出会いは数年前のことで,二人のなにかが「パチン」とはじけるようにして意気投合したらしい。以後,マラゴンが企画するステージに国際的なダンサーのひとりとしてカトノリが加わるようになる。今回の企画も,カトノリがマラゴンにイタリアに招かれたお返しのような企画だ,と会場で耳にした。
プログラムは
第一部:ワタシとアナタをつなぎとめるもの
振付:加藤範子
音楽:片山泰輝
第二部:ブレインストーミング:身体と都市
振付:クラウディオ・マランゴン
映像:ウーゴ
第三部:
1.紅の幻影(創作琉球舞踊:仲間若菜)
2.存在の感触
ダンス:クラウディオ・マランゴン,加藤範子
三線:仲間若菜
これらのダンスの細部について,わたしは語る資格はない。
したがって,大づかみな印象だけを記しておこう。
第一部の「ワタシとアナタをつなぎとめるもの」のソロ・バージョンをわたしは弘前のステージで拝見している。そのときには音楽の片山泰輝君とも一緒だった。ダンサー・カトノリは客席から現れ,例によってカードに単語(日本語)を書き込んだもの(手書き)を,前列に坐っているお客さんに一枚ずつ,ゆっくりとくばりはじめる。くばり終わると黙ってステージに上り,ゆるゆると踊りはじめる。いくつかのモチーフがあって,それらが順に踊られていく。
今回は,最初にカトノリが,原発作業員が身につける真っ白い防護服を着て,大きなゴーグルをかけ,大きな画用紙をもって舞台に現れる。客席から二人の女性が,やはり,カードをくばりはじめる。わたしのところには「血?」と書かれたカードが最初にとどけられ,しばらくして,別の女性からは「沖縄?」と書かれたカードがとどく。これで,まずは,分節化された原発事故に関するイメージや沖縄を忘れてはいないよ,というメッセージがとどく。しかし,そのメッセージがとどいたのは,前の方の座席にいた人たちだけだ。そのカードを配った女性二人が,ステージに上り踊りはじめる。カトノリは突っ立ったまま,画用紙をめくる。そこには,二項対立的なキー・ワードが大きく書かれている。カトノリは画用紙をめくる。二人の女性がそのキー・ワードに合わせて踊る。ひととおり,二人の女性のダンスが終わり,画用紙をめくる作業も終わると,やおら,カトノリが防護服を脱ぎはじめ,大きなお腹を丸出しにしたまま,普段着の妊婦さんが踊りはじめる。やがて,3人の踊りになる。ここからは,どうやらコンタクト・インプロヴィゼーション。うまく成功しているところと,ときどきとまどいを見せる若い二人の女性たち。カトノリはお構いなしにわが道を行くとでもいうような風で踊りつづける。それでいて,相手のいかなる踊りにも即座に対応しているようにもみえる。カトノリの新しい境地のようなものが透けて見えてくる。
第二部の「ブレイストーミング:身体と都市」はクラウディオ・マランゴンを中心にして,4人の女性が踊る。よくみると,一人ずつ,まったく質の違うダンスを繰り広げている。これがとても面白かった。都市を行き交う人びとの風景がとてもよく現れていたから。この群舞も基本はインプロヴィゼーション。はっきりコンタクトする場面もあったし,コンタクトなしで反応する場面もあって,ときおり起こる思い違いがまるで演出されたもののように見えてきて,これも面白かった。プログラムには「ダンス,空間と主観性」とあるが,わたしの眼には「主体性」が現れては消えていく,あるいは,消されていく,都市で生きるための「主体性」が,あわぶくのように現れては消えていく,まことにはかないものでしかない,そんな都市という「空間」のなかで「生」を営むことのあやうさが,とても印象的に映った。
第三部,1.紅の幻影(創作琉球舞踊・仲間若菜)が,わたしにはとても新鮮だった。琉球舞踊はいくらか眼に親しんでいるが,創作琉球舞踊をみるのは初めてだったからだろう。しかし,動きの少ない,静かな所作のなかに,まるで,地唄舞のような激しい情念のようなものが感じられ,この人の踊りの確かさが伝わってきた。もっともっと創作琉球舞踊を披露してほしいと思う。
2.存在の感触は,これまたとても面白い企画だった。クラウディオ・マランゴンとカトノリがコンタクト・インプロヴィゼーションをふんだんに用いて自由自在に踊りまわる。その踊りに,これまた即興で,仲間若菜さんが三線を合わせるもの。仲間さんの緊張感がもろに伝わってきて,効果抜群。ダンサーふたりは手慣れたもので,相手の動きに合わせていかようにも動きつつ,変幻自在に動きを変化させていく。まさに,「存在の感触」。触れることによってはじまる「分割/分有」(ジャン=リュック・ナンシー)。存在のはじまり。仲間さんの三線も,なにかに「触れた」瞬間に「ペン」と鳴る。そうでないときには「沈黙」である。三線が鳴るときと鳴らないときの,この「間」が緊張感を生み出していた。三線が「不在」になったり,突如として「存在」を主張したり,仲間さん自身の存在までもが,みごとにコラボレーションしていて,楽しかった。
全体の印象としては,カトノリがマランゴンという希有なるダンサーと出会ったことによって開かれつつある世界が,懐妊を契機にして,さらに大きく開かれていく,そんな予感がいっぱいだった。最後に,もうひとりの主役=母親のお腹のなかでステージ・デビューを経験した胎児(君/さん)に大きな拍手を送りたい。どんな子どもが生まれてくるのだろうか。いまから楽しみである。
以上がカトノリへのレポートです。
そして,公演の成功,おめでとう!
会場が満席になっていたのが嬉しかった。
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