書は上手に,きれいに書かなくてはならない,という一種のトラウマのようなものがわたしたちのこころの片隅にあります。ですから,筆で文字を書くということは,できることなら避けたいと恐怖観念のようなものがあります。その結果,筆で文字を書くという習慣はどこかに消え失せてしまったようです。のみならず,手書きの文字すら姿を消しつつあります。
ワープロが登場し,パソコンが普及するにつれ,もはや「直筆」の文字そのものがとても珍しい時代になってしまいました。その典型的な例が年賀状です。宛て名書きもすべて印字されたものばかりになってきました。そんな中で,手書きの宛て名に出会いますと,とても新鮮です。そして,その人の体温や呼吸までもが伝わってくるようにおもいます。そんな中に,時折,まさに例外的に,毛筆のものがでてきます。これはもう感動ものです。「いいなぁ」とおもわず声に出してしまいます。
じゃあ,お前はどうだ,と問われますと,情けないことにこの2年ほどは年賀状も書けないほどの体たらくです。なのに,毎年,ことしこそは毛筆で・・・・とみずからを叱咤激励しています。が,実行力はゼロ。情けないかぎりです。ことしは,せめて,いただいた賀状に返信くらいはしなくては・・・とみずからに言い聞かせていますが・・・・,はたして,どうなることやら・・・・。
さて,日展・書道をみてきてからというもの,妙に書に惹かれるようになってしまいました。大いなる刺激を受けてしまったようです。
で,このブログでも紹介しましたが,又吉直樹の『新・四字熟語』に添えられている書が,たまらなく魅力的で,ぐっと惹きつけられてしまいました。ということで,その一端を,ここでは紹介してみたいとおもいます。まずは,以下の8点の書をとくとご覧ください。
驚くべきことに,これらの8点の書はすべて田中象雨の手になるものです。書にはいろいろの書体があることはだれでもご承知のとおりです。その書体を使い分けることも書の楽しみのひとつだとということも承知しています。しかし,たったひとりの手で,これだけの変化を可能にする,それもみごとに味を出す,その手法に驚いてしまいます。しかも,これらはそのほんの一部にすぎません。この本に載っているだけでも,240書体です。もはや,唖然とするほかありません。
この書をみれば,一目瞭然,書は上手に書かなくてはいけない,という縛りはなにもないということがよくわかります。むしろ,自由闊達に,そのときの気分や書く文字の含意や紙の大きさや選んだ筆の太さや,その他,もろもろの条件に合わせて,好きなように書いていいのだ,ということがよくわかってきます。
では,こんな文字がだれにでも書けるのかといえば,そうは問屋が卸しません。ひとつひとつの書法を初手からきちんと練習をして,そこを通過した者にしか不可能であることは明らかです。しかし,わたしたちは書家ではありません。ですから,それを作品として人さまにみてもらう必要はありません。書いている自分自身が楽しくさえあれば,それで十分です。ときに,親しい友人にでもちらりとみせて,それとなく論評してもらえれば,御の字でしょう。
どんな紙に書いてもいいのです。いまでは,コピー用紙の裏側がふんだんに使えます。広告の裏紙でもいいのです。なんでもいいのです。そういう紙を集めておいて,惜しげもなく書き散らす。もう,衝動的に書き散らす。そのうちに筆遣いがわかってきます。そうしたら,つぎは和紙に挑戦です。この和紙もまた,いろいろの特性をもった紙が何種類もあります。となると,こんどはそれらの和紙に合う墨を選ぶことになります。その先は,もう,セミプロのやる世界だと思えば,そこに分け入っていく楽しさも倍増します。
ちなみに,上の書の3段目の左は「矛先無茶」,右は「馬鹿駅員」と読みます。崩し方や筆順なども,自分で工夫して,その味を愉しむという手もあることを教えてくれる作品です。「矛先無茶」の「無」の字をよく眺めてみてください。おもしろい発見があるはずです。こんなことまでやってしまっていいんだ・・・・というような・・・・。
さあ,どうですか。筆をもって遊んでみませんか。練習用の墨汁はどこにでも売っていますので,これを買ってきて,水で少し薄めて使うといいとおもいます。そうすれば,硯も墨も不要です。百均ショップで,お皿を2,3枚買ってくれば,それでもう準備完了です。
上の書の「幹事横領」くらいから遊ぶといいとおもいます。場合によっては,左手で書くという遊び方もあります。そのくらいの気楽さではじめましょう。
※どうしても,画像が移動してしまいます。どうか,ご判読くださるようお願いいたします。
ワープロが登場し,パソコンが普及するにつれ,もはや「直筆」の文字そのものがとても珍しい時代になってしまいました。その典型的な例が年賀状です。宛て名書きもすべて印字されたものばかりになってきました。そんな中で,手書きの宛て名に出会いますと,とても新鮮です。そして,その人の体温や呼吸までもが伝わってくるようにおもいます。そんな中に,時折,まさに例外的に,毛筆のものがでてきます。これはもう感動ものです。「いいなぁ」とおもわず声に出してしまいます。
じゃあ,お前はどうだ,と問われますと,情けないことにこの2年ほどは年賀状も書けないほどの体たらくです。なのに,毎年,ことしこそは毛筆で・・・・とみずからを叱咤激励しています。が,実行力はゼロ。情けないかぎりです。ことしは,せめて,いただいた賀状に返信くらいはしなくては・・・とみずからに言い聞かせていますが・・・・,はたして,どうなることやら・・・・。
さて,日展・書道をみてきてからというもの,妙に書に惹かれるようになってしまいました。大いなる刺激を受けてしまったようです。
で,このブログでも紹介しましたが,又吉直樹の『新・四字熟語』に添えられている書が,たまらなく魅力的で,ぐっと惹きつけられてしまいました。ということで,その一端を,ここでは紹介してみたいとおもいます。まずは,以下の8点の書をとくとご覧ください。
驚くべきことに,これらの8点の書はすべて田中象雨の手になるものです。書にはいろいろの書体があることはだれでもご承知のとおりです。その書体を使い分けることも書の楽しみのひとつだとということも承知しています。しかし,たったひとりの手で,これだけの変化を可能にする,それもみごとに味を出す,その手法に驚いてしまいます。しかも,これらはそのほんの一部にすぎません。この本に載っているだけでも,240書体です。もはや,唖然とするほかありません。
この書をみれば,一目瞭然,書は上手に書かなくてはいけない,という縛りはなにもないということがよくわかります。むしろ,自由闊達に,そのときの気分や書く文字の含意や紙の大きさや選んだ筆の太さや,その他,もろもろの条件に合わせて,好きなように書いていいのだ,ということがよくわかってきます。
では,こんな文字がだれにでも書けるのかといえば,そうは問屋が卸しません。ひとつひとつの書法を初手からきちんと練習をして,そこを通過した者にしか不可能であることは明らかです。しかし,わたしたちは書家ではありません。ですから,それを作品として人さまにみてもらう必要はありません。書いている自分自身が楽しくさえあれば,それで十分です。ときに,親しい友人にでもちらりとみせて,それとなく論評してもらえれば,御の字でしょう。
どんな紙に書いてもいいのです。いまでは,コピー用紙の裏側がふんだんに使えます。広告の裏紙でもいいのです。なんでもいいのです。そういう紙を集めておいて,惜しげもなく書き散らす。もう,衝動的に書き散らす。そのうちに筆遣いがわかってきます。そうしたら,つぎは和紙に挑戦です。この和紙もまた,いろいろの特性をもった紙が何種類もあります。となると,こんどはそれらの和紙に合う墨を選ぶことになります。その先は,もう,セミプロのやる世界だと思えば,そこに分け入っていく楽しさも倍増します。
ちなみに,上の書の3段目の左は「矛先無茶」,右は「馬鹿駅員」と読みます。崩し方や筆順なども,自分で工夫して,その味を愉しむという手もあることを教えてくれる作品です。「矛先無茶」の「無」の字をよく眺めてみてください。おもしろい発見があるはずです。こんなことまでやってしまっていいんだ・・・・というような・・・・。
さあ,どうですか。筆をもって遊んでみませんか。練習用の墨汁はどこにでも売っていますので,これを買ってきて,水で少し薄めて使うといいとおもいます。そうすれば,硯も墨も不要です。百均ショップで,お皿を2,3枚買ってくれば,それでもう準備完了です。
上の書の「幹事横領」くらいから遊ぶといいとおもいます。場合によっては,左手で書くという遊び方もあります。そのくらいの気楽さではじめましょう。
※どうしても,画像が移動してしまいます。どうか,ご判読くださるようお願いいたします。
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