奄美自由大学の最終日(9日),島料理の昼食をご馳走になった笠利町大笠利のバンガローの2階のベランダから,絶景の奄美大島北端の海を眺めていました。奄美大島のほとんどの海岸は切り立った山がそのまま海になだれこんでいます。が,唯一,島の北端地域は平坦な土地が広がり,海も遠浅で,美しい珊瑚礁がかなりの沖合まで広がっています。ですから,珊瑚礁独特の波打ちがあちこちにみられます。お腹もいっぱい,ビールの酔いもあって,ベランダの外に両足を垂らして坐り,手すりに両腕を重ねて顎を乗せて,美しい珊瑚礁の波打ちの様子を眺めているうちに,何回も眠りに落ちていました。
ハッと目を覚ますと目の前に美しい景色と波打ちの音。ときおり通りすぎていく風がソテツの葉を揺らす音。ただ,それだけ。しかし,意識して眼を閉じると波打ちの音がわたしの全身をつつみこんできます。そして,絶え間なく打ちつづける波打ちの複雑な音の組み合わせが少しずつわかってきます。その音にしばらく耳を傾けて,全身をゆだねてみました。リズムもメロディーもありません。ただ,ひたすら波打ちの音が絶え間なく不規則にくり返されているだけです。そのうちに,わたしのからだは波の音のなかに溶け込んでしまいます。波打つときには波と一緒に海面を転がり,そのあとは海面に浮かんだまま一路,汀に向かって進んでいきます。そして,砂浜の上に置き去りにされてしまいます。そこで,ハッとして眼を開いてしまいます。
すると,こんどは一気にわたしの視覚を美しい珊瑚礁の海が独占してしまいます。と,とたんにわたしの全身をつつんでいた波の音が急に遠ざかり,景色がわたしの意識を独占していきます。そして,波の音は単なるBGMになってしまいます。
眼を閉じると波の音。眼を開くと美しい景色。わたしの意識とは関係なく,わたしを独占する主役が交代してしまいます。つまり,感覚器官のはたらきに優先順位があるのです。視覚が最優先。
わたしたちはいつのまにか,眼にみえるものに「信」をおく生き方が習慣化しています。ここから話は一気に飛躍していきます。視覚優先の生き方は,どうやら「近代」という時代の所産ではないか,と。そして,「前近代」までは,その逆で,聴覚優先の生き方がなされていたのではなかったか,と。つまり,聴覚人間から視覚人間へと,「近代」という時代が人間を変化させたのではないか,と。そして,そのとき,ごくふつうに生活している人間にとってなにが起きたのか,と。
さらに,話を飛躍させてみましょう。近代の初期の発明のひとつに「電気」があります。この電気のお蔭で,わたしたちの生活は飛躍的に変化しました。そのひとつが,闇を照らす明かり(電灯)でしょう。その明かりが,言うまでもなく,わたしたちの環境を一変させてしまいました。これまで「闇」のなかに閉じ込められていた「夜」の時空間が,太陽の照る時空間のなかに組み込まれていくようになりました。そして,都会から闇は追放されてしまいました。不夜城の登場です。
人間の聴覚は,視覚では捕捉することができない時空間に対して,大いに力を発揮します。つまり,闇の世界の主役は聴覚です。それにつづいて触覚や臭覚や味覚が働くことになります。さらには,第六感というものが登場します。あるいは,気配を感じ取る,直感と言ってもいいでしょう。しかし,科学万能の時代である近代にあっては,第六感も,気配を感じ取る直感も「非科学的」(あるいは「迷信」)という名のもとに,ことごとく抑圧・排除・隠蔽されてしまいました。
しかし,視覚を遮断された闇の世界では,視覚以外の五感に頼るしか方法はありません。ところが,この五感の機能が「近代」の進展とともに低下するということが起きてしまった,と言っていいでしょう。
現代社会を生きるわたしたちのからだは,好むと好まざるとにかかわりなく,視覚中心(視覚依存)の生活環境のなかに放り込まれています。その結果として,視覚以外の他の感覚器官の機能低下が起きている,という次第です。しかし,わたしも含めて多くの人びとはそのことを忘れて日常の生活をしています。そのトータルの結果が,現代社会の諸矛盾となって露呈しはじめている,と考えるのはいささか飛躍にすぎるでしょうか。
奄美自由大学のことしのテーマは「沈黙」でした。この「沈黙」をどのように定義して思考を展開すればいいのかということになりますと,ここにはいささかやっかいな問題があることに気づきます。しかし,「沈黙」というテーマにもまた「近代」という補助線を一本引いて考えてみますと,意外にすっきりとした思考を展開させることができそうです。
この手法は,じつは,わたしの長年取り組んできたスポーツ史研究やスポーツ文化論では,いまでも用いているものです。ですから,「沈黙」のテーマはわたしの研究にとっても不可欠のものでもあります。
スポーツ競技の世界にあっても,視覚の及ばない「沈黙」の世界に踏み込むことは,競技力を高める上では不可欠です。しかし,現状では,メンタル・トレーニングだとか,イメージ・トレーニングと言ったスポーツ科学の成果で代替しようとしています。しかし,これは,言ってみればきわめて表層的な応急措置にすぎません。
奄美大島の北端の珊瑚礁の海を眺めながら,こんなことに思いを巡らせていました。気がつくと,いつのまにか,わたしのとなりに今福さんが,わたしと同じような姿勢で坐って,黙って海を眺めて
いました。お互いに「沈黙」を守りながら・・・・。
ハッと目を覚ますと目の前に美しい景色と波打ちの音。ときおり通りすぎていく風がソテツの葉を揺らす音。ただ,それだけ。しかし,意識して眼を閉じると波打ちの音がわたしの全身をつつみこんできます。そして,絶え間なく打ちつづける波打ちの複雑な音の組み合わせが少しずつわかってきます。その音にしばらく耳を傾けて,全身をゆだねてみました。リズムもメロディーもありません。ただ,ひたすら波打ちの音が絶え間なく不規則にくり返されているだけです。そのうちに,わたしのからだは波の音のなかに溶け込んでしまいます。波打つときには波と一緒に海面を転がり,そのあとは海面に浮かんだまま一路,汀に向かって進んでいきます。そして,砂浜の上に置き去りにされてしまいます。そこで,ハッとして眼を開いてしまいます。
すると,こんどは一気にわたしの視覚を美しい珊瑚礁の海が独占してしまいます。と,とたんにわたしの全身をつつんでいた波の音が急に遠ざかり,景色がわたしの意識を独占していきます。そして,波の音は単なるBGMになってしまいます。
眼を閉じると波の音。眼を開くと美しい景色。わたしの意識とは関係なく,わたしを独占する主役が交代してしまいます。つまり,感覚器官のはたらきに優先順位があるのです。視覚が最優先。
わたしたちはいつのまにか,眼にみえるものに「信」をおく生き方が習慣化しています。ここから話は一気に飛躍していきます。視覚優先の生き方は,どうやら「近代」という時代の所産ではないか,と。そして,「前近代」までは,その逆で,聴覚優先の生き方がなされていたのではなかったか,と。つまり,聴覚人間から視覚人間へと,「近代」という時代が人間を変化させたのではないか,と。そして,そのとき,ごくふつうに生活している人間にとってなにが起きたのか,と。
さらに,話を飛躍させてみましょう。近代の初期の発明のひとつに「電気」があります。この電気のお蔭で,わたしたちの生活は飛躍的に変化しました。そのひとつが,闇を照らす明かり(電灯)でしょう。その明かりが,言うまでもなく,わたしたちの環境を一変させてしまいました。これまで「闇」のなかに閉じ込められていた「夜」の時空間が,太陽の照る時空間のなかに組み込まれていくようになりました。そして,都会から闇は追放されてしまいました。不夜城の登場です。
人間の聴覚は,視覚では捕捉することができない時空間に対して,大いに力を発揮します。つまり,闇の世界の主役は聴覚です。それにつづいて触覚や臭覚や味覚が働くことになります。さらには,第六感というものが登場します。あるいは,気配を感じ取る,直感と言ってもいいでしょう。しかし,科学万能の時代である近代にあっては,第六感も,気配を感じ取る直感も「非科学的」(あるいは「迷信」)という名のもとに,ことごとく抑圧・排除・隠蔽されてしまいました。
しかし,視覚を遮断された闇の世界では,視覚以外の五感に頼るしか方法はありません。ところが,この五感の機能が「近代」の進展とともに低下するということが起きてしまった,と言っていいでしょう。
現代社会を生きるわたしたちのからだは,好むと好まざるとにかかわりなく,視覚中心(視覚依存)の生活環境のなかに放り込まれています。その結果として,視覚以外の他の感覚器官の機能低下が起きている,という次第です。しかし,わたしも含めて多くの人びとはそのことを忘れて日常の生活をしています。そのトータルの結果が,現代社会の諸矛盾となって露呈しはじめている,と考えるのはいささか飛躍にすぎるでしょうか。
奄美自由大学のことしのテーマは「沈黙」でした。この「沈黙」をどのように定義して思考を展開すればいいのかということになりますと,ここにはいささかやっかいな問題があることに気づきます。しかし,「沈黙」というテーマにもまた「近代」という補助線を一本引いて考えてみますと,意外にすっきりとした思考を展開させることができそうです。
この手法は,じつは,わたしの長年取り組んできたスポーツ史研究やスポーツ文化論では,いまでも用いているものです。ですから,「沈黙」のテーマはわたしの研究にとっても不可欠のものでもあります。
スポーツ競技の世界にあっても,視覚の及ばない「沈黙」の世界に踏み込むことは,競技力を高める上では不可欠です。しかし,現状では,メンタル・トレーニングだとか,イメージ・トレーニングと言ったスポーツ科学の成果で代替しようとしています。しかし,これは,言ってみればきわめて表層的な応急措置にすぎません。
奄美大島の北端の珊瑚礁の海を眺めながら,こんなことに思いを巡らせていました。気がつくと,いつのまにか,わたしのとなりに今福さんが,わたしと同じような姿勢で坐って,黙って海を眺めて
いました。お互いに「沈黙」を守りながら・・・・。
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