ことしの奄美自由大学で,詩人の川満信一さんから個人誌『カオスの貌』9号・特集:スマヌパナス(島の話)をいただきました。いわゆる詩文集と言っていいでしょう。内容は,世代の近さもあって(川満さん1932年生まれ,わたし1938年生まれ),とても深いところで伝わってくるものがありました。久し振りに重量感のある至福のひとときを堪能させていただきました。
特集・スマヌパナス(島の話),とあるように,川満さんの少年時代の思い出を描いた創作が2編。ここに大半のページが割かれています。その他には,エッセイが3編,詩(思想詩)が8編。いずれも川満さんの魂がこめられたことばに圧倒される力作でした。
「スマヌパナス」は川満さんが生まれ育った宮古島の僻村での,昭和10年代のできごとに題材をえた創作です。そこでは盗みがあれば村のルールにしたがってウガンショ(御願所)で裁きを受ける,カイランバンおばさんがシマでのできごとに関する情報をはこんでくる,竈の燃料は共有地にでかけていって拾ってくる,などなど当時のさまざまな村の慣習行動が描かれています。
こういう創作を読んでいますと,かつて読んだことのある川満さんの書いた「琉球共和社会憲法C私(試)案」(『新沖縄文学』沖縄タイムス社,1981年6号)を思い出してしまいました。たしか,この「憲法C私(試)案」には,「私有財産の否定」「司法機関(警察・検察・裁判所)の廃止」「商行為の禁止」「軍備の廃止」などが謳われていたように記憶しています。しかも,この「憲法C私(試)案」は,沖縄の本土復帰(1972年)後もなにも沖縄の事態は変わらない,それどころかますます悪化していく事態の進み行きのなかで,ヤマトからの分離・独立を志向するひとつの試みとして,問題提起されたものだったように思います。
この「憲法」の目玉は,「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」の「憲法」を謳ったところにあります。共和国ではなく共和社会を念頭においているということです。つまり,国家は国民を一把ひとからげにして犠牲を強要する装置となりはててしまっている(とりわけ,沖縄県民に対して)という危機意識が前提となっています。それに対抗し,克服するための装置として川満さんは「共和社会」を構想します。しかも,それは村落共同体のような小さなシマ単位の独自の価値観を重視し,シマごとに独自の約束ごとを遵守するシステムを構築していこうとしていたように思います。
そうしたシステムはすでに,川満さんが生まれ育った宮古島では当然のようにして構築されていたのではなかったか,そんなことを回想しているかのような「スマヌパナス」がつぎつぎに展開していきます。他愛のないシマの日常生活のなかに,川満さんは「共和社会」のひとつの理想郷を見出そうとしているかのようにも読めてきます。人と自然との対話,交信,交流,共生・・・といった現代社会が遠いかなたに置き忘れてきてしまった,人間が生きる原点を,もう一度確認しようではないか,と呼びかけているようにも読めます。科学では割り切ることのできない人間の心情(あるいは心象風景)の方にこそ,むしろ人が「生きる」ということの実態があるのではないか,と。それを保証し,実現させることを可能とするのは「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」ではないか,と川満さんは仰っているようにわたしには伝わってきました。
それは同時に,わたし自身の幼生年時代の僻村の生活経験を生々しく想起させる物語でもありました。たとえば,「村八分」という慣習行動を,戦後民主主義教育は封建制の悪の権化のように教えてくれました。しかし,いま考えてみますと,じつによくできたシステムではなかったか,とその智慧の深さに驚くばかりです。長年の経験と智慧に裏付けされた,そのムラ(シマ)固有のシステムを,アメリカ的価値観だけに依拠して排除してしまっていいのだろうか,と強く思います。
とりわけ,いま,まさに露呈しつつある,だれも責任を取らない,みんな責任逃れをして平気でいられる(民主主義的)「無責任体制」が許されてしまう現実を目の当たりにするにつけ,本気でそう考えずにはいられません。川満さんの提起した「共和社会」の理念は,当時は「理念先行」という大方の意見に押し切られてしまいました。しかし,いまになってふたたび息を吹き返しはじめているように思います。その意味で,「シマヌパナス」はゆたかな「民俗文化」のありようを指し示してくれています。これからも,何回も読み返してみたいと思っています。
あと一点だけ,ここでどうしても触れておきたいことがあります。
それは「沖縄における中国認識」と題された川満さんのエッセーです。
そのさわりの部分を引いておきます。
明治時代,つまり20世紀初頭まで,琉球は自らの所属を中国にするか日本にするかで,白黒の思想的争いを続けています。つまり琉球と中国の歴史的関係の傷口は,沖縄ではまだ生々しく包帯を巻いた状態だといえます。
この川満さんのエッセーをどのように受け止めるかは,かなりの個人差があろうかと思います。
「沖縄本土復帰」と「日中国交回復」は,期せずして同じ「1972年」のできごとでした。そして,ことし同時に「40周年」という節目の年を迎えています。そこに「センカク」という「火種」に,「国有化」というとんでもない「火」をつけてしまった政府民主党の責任は重大です。
最近の調査によると(琉球大学の教授の調査・名前は失念),沖縄県民のうち,約半数の人びとは「日本人」という意識よりも「沖縄人」という意識の方が強い,と答えているといいます。また,しばらく前に,西谷修さんが参加・出演したNHKのETV特集のドキュメンタリーでも,いまの沖縄の若者たちの多くは,もはやヤマトに依存するよりはひとりの沖縄人として生きる道を模索しはじめている,と結んでいたように記憶しています。
川満さんのエッセーもまた,その意味で,きわめて暗示的です。ぜひ,全文を読まれることをお薦めします。
特集・スマヌパナス(島の話),とあるように,川満さんの少年時代の思い出を描いた創作が2編。ここに大半のページが割かれています。その他には,エッセイが3編,詩(思想詩)が8編。いずれも川満さんの魂がこめられたことばに圧倒される力作でした。
「スマヌパナス」は川満さんが生まれ育った宮古島の僻村での,昭和10年代のできごとに題材をえた創作です。そこでは盗みがあれば村のルールにしたがってウガンショ(御願所)で裁きを受ける,カイランバンおばさんがシマでのできごとに関する情報をはこんでくる,竈の燃料は共有地にでかけていって拾ってくる,などなど当時のさまざまな村の慣習行動が描かれています。
こういう創作を読んでいますと,かつて読んだことのある川満さんの書いた「琉球共和社会憲法C私(試)案」(『新沖縄文学』沖縄タイムス社,1981年6号)を思い出してしまいました。たしか,この「憲法C私(試)案」には,「私有財産の否定」「司法機関(警察・検察・裁判所)の廃止」「商行為の禁止」「軍備の廃止」などが謳われていたように記憶しています。しかも,この「憲法C私(試)案」は,沖縄の本土復帰(1972年)後もなにも沖縄の事態は変わらない,それどころかますます悪化していく事態の進み行きのなかで,ヤマトからの分離・独立を志向するひとつの試みとして,問題提起されたものだったように思います。
この「憲法」の目玉は,「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」の「憲法」を謳ったところにあります。共和国ではなく共和社会を念頭においているということです。つまり,国家は国民を一把ひとからげにして犠牲を強要する装置となりはててしまっている(とりわけ,沖縄県民に対して)という危機意識が前提となっています。それに対抗し,克服するための装置として川満さんは「共和社会」を構想します。しかも,それは村落共同体のような小さなシマ単位の独自の価値観を重視し,シマごとに独自の約束ごとを遵守するシステムを構築していこうとしていたように思います。
そうしたシステムはすでに,川満さんが生まれ育った宮古島では当然のようにして構築されていたのではなかったか,そんなことを回想しているかのような「スマヌパナス」がつぎつぎに展開していきます。他愛のないシマの日常生活のなかに,川満さんは「共和社会」のひとつの理想郷を見出そうとしているかのようにも読めてきます。人と自然との対話,交信,交流,共生・・・といった現代社会が遠いかなたに置き忘れてきてしまった,人間が生きる原点を,もう一度確認しようではないか,と呼びかけているようにも読めます。科学では割り切ることのできない人間の心情(あるいは心象風景)の方にこそ,むしろ人が「生きる」ということの実態があるのではないか,と。それを保証し,実現させることを可能とするのは「琉球共和国」ではなく「琉球共和社会」ではないか,と川満さんは仰っているようにわたしには伝わってきました。
それは同時に,わたし自身の幼生年時代の僻村の生活経験を生々しく想起させる物語でもありました。たとえば,「村八分」という慣習行動を,戦後民主主義教育は封建制の悪の権化のように教えてくれました。しかし,いま考えてみますと,じつによくできたシステムではなかったか,とその智慧の深さに驚くばかりです。長年の経験と智慧に裏付けされた,そのムラ(シマ)固有のシステムを,アメリカ的価値観だけに依拠して排除してしまっていいのだろうか,と強く思います。
とりわけ,いま,まさに露呈しつつある,だれも責任を取らない,みんな責任逃れをして平気でいられる(民主主義的)「無責任体制」が許されてしまう現実を目の当たりにするにつけ,本気でそう考えずにはいられません。川満さんの提起した「共和社会」の理念は,当時は「理念先行」という大方の意見に押し切られてしまいました。しかし,いまになってふたたび息を吹き返しはじめているように思います。その意味で,「シマヌパナス」はゆたかな「民俗文化」のありようを指し示してくれています。これからも,何回も読み返してみたいと思っています。
あと一点だけ,ここでどうしても触れておきたいことがあります。
それは「沖縄における中国認識」と題された川満さんのエッセーです。
そのさわりの部分を引いておきます。
明治時代,つまり20世紀初頭まで,琉球は自らの所属を中国にするか日本にするかで,白黒の思想的争いを続けています。つまり琉球と中国の歴史的関係の傷口は,沖縄ではまだ生々しく包帯を巻いた状態だといえます。
この川満さんのエッセーをどのように受け止めるかは,かなりの個人差があろうかと思います。
「沖縄本土復帰」と「日中国交回復」は,期せずして同じ「1972年」のできごとでした。そして,ことし同時に「40周年」という節目の年を迎えています。そこに「センカク」という「火種」に,「国有化」というとんでもない「火」をつけてしまった政府民主党の責任は重大です。
最近の調査によると(琉球大学の教授の調査・名前は失念),沖縄県民のうち,約半数の人びとは「日本人」という意識よりも「沖縄人」という意識の方が強い,と答えているといいます。また,しばらく前に,西谷修さんが参加・出演したNHKのETV特集のドキュメンタリーでも,いまの沖縄の若者たちの多くは,もはやヤマトに依存するよりはひとりの沖縄人として生きる道を模索しはじめている,と結んでいたように記憶しています。
川満さんのエッセーもまた,その意味で,きわめて暗示的です。ぜひ,全文を読まれることをお薦めします。
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