食事の支度をするようになって,まもなく1年が経過する。お蔭で世の中が少しだけ広くなった気がする。それまでは,よほどのことがないかぎり食品売り場などに出向いて買い物をすることもなかった。だから,食品の値段もまともには知らなかった。たとえば,チリ産のさけが安いとか,ほっけの干物も大きくて安いとか。たまごの値段もピンからキリまであるとか。豆腐もこんなに種類があるかとか。納豆を食べ比べてみると値段と味の関係がほとんど一致するとか。
最近はもうひとつ楽しみが増えた。売り手と買い手の会話である。
昨日の夕方の収穫をひとつ。
食品売り場に特設された「催し物」コーナーでの話。
おいしそうな煮物がパックに入って並んでいる。大根,さといも,竹の子,わらび,こんぶ,などの煮物がそれぞれ単品でパックに入っている。どれも1パック「570円」とある。とおりすがりに「おいしそうだなぁ」と思いながら品定めをしていたら,店番をしていた人の好さそうなおばちゃんが大きな声で客の呼び込みをはじめた。またたくまに人が足を止めて眺めている。今日はもうおかずになるものは買った(とりのもつの煮込み)から,もういいや,と思ってそこを離れようとした。すると,おばちゃんが「お父さん,3パックで1,050円にするから買っていってよ」という。「えっ?」と思って素早く計算をしてみる。1パック570円を3パックにすれば1,710円ではないか。それを1,050円にするという。2パックでも1,140円だというのに。こうなると人間は弱い。ただでさえ「おいしそうだなぁ」という下心がある。ならばという気持になり,再度,おばちゃんに「3パックで1,050円なの?」と確認してみる。「そう,どれでも3パック1,050円だよ」とおばちゃん。一瞬,目が合う。ほんとだよ,という目をしてニコニコしている。こういう目なざしに弱い。
よしっ,と決断をして,さといも,竹の子,わらびの三つを選ぶ。しかし,大根の煮物がとてもおいしそうだったので,おばちゃんが包んでくれている間に,「大根もおいしそうだねぇ」と声をかけてみる。すると,すぐに「味見してみる?」といって紙の皿に一切れポンと乗せてわたしてくれる。「こんなに大きくなくてもいいよ」「気持だから」「悪いねぇ」「無理して買わなくてもいいよ」「ありがとう」と会話がはずむ。もう,すっかり友だち気分。暖簾に深川・〇〇店と買いてある。「深川からきてるの?」「そうだよ」「深川はむかしから煮物をやってるの?」「そうだよ。うちの店はもう何代目かわからないほど古いよ」「そう。その味がしみこんでるんだ」「そうそう。いいこと言うねぇ。お父さん」という具合に話は途切れない。
大根にはほのかにイカの味がした。すかさず「イカのいい味がしてるねぇ」「お父さん,いい舌もってるねぇ。そう,イカのゲソを入れてある」「企業秘密じゃないの?」「そこからさきは,ヒ・ミ・ツ」と言ってにっこり笑う。とても健康そうな明るい笑顔がいい。
いま,大根が安い。よしっ,明日は大根を買ってきて炊いてみよう。ゲソも買ってきて。あとは,おでんの素でも買って・・・などと楽しい妄想がふくらむ。ほんのちょっとした日常のなかの会話がとても楽しいということを,いまごろになって気づいた。これも台所に立つようになってからの,想定外の収穫であった。
スーパー・マーケットは品数も豊富でまことに便利だ。コンビニもなにかと便利だ。しかし,いずれも,品物を駕籠に入れてレジにもっていき,勘定をして終わり。ひとこともしゃべらない。自動販売機や電車の切符にしてもいまはカードですべて処理されてしまう。なにもしゃべらない。それを「便利」だと思い込んでいる。たしかに便利ではある。しかし,その「便利」さには大きな落とし穴が待っている。そのことはいまは触れないでおく。
同じ食品売り場に,比較的よく利用するコロッケ屋さんがある。ここはとても繁盛している。安くておいしいから。しかも,若くてきれいなお姉さんが立っている。ここではお客さんと余分な会話をしてはいけないと躾けられているのか,声をかけてもほとんど返事をしない。「ここのコロッケ,おいしよね」と勇気を奮い起こして声をかけてみる。すると,判で押したように「ありがとうございます」という返事。ニコリともしない。それで終わり。
その点,日本の各地からやってくる食品の「催し物」コーナーの売り手は面白い。第一,気合が入っている。血の通った人間だと顔に書いてある。ひとつ尋ねれば,何倍にもなって返ってくる。こちらも面白くなってツッコミを入れる。ますます面白くなってくる。むかしの小売屋さんは,八百屋さんも,魚屋さんも,コロッケ屋さんも,みんなこうした会話をお互いに楽しんでいたものだ。それがすっかり姿を消してしまった。「機械」に乗っ取られてしまったのだ。そのために,人が生きていく上でもっとも大事なことを失ってしまった。人と人との会話である。絆のはじまりは,まずは,挨拶であり,会話からだ。
生身の人間を置き去りにした文明という名の「からくり」が,少しこころを落ち着けて考えてみれば,すぐに見えてくる。原発はその最後の「からくり」だ。この「からくり」をどうやってコントロールするか,「3・11」後を生きるわたしたちの最大の課題でもある。
「おいしそうだねぇ」「味見してみる?」
「お宅の柿はよう熟れてますか」「いまが食べごろですよ」(これは夜這いの許諾をえるための会話・赤松啓介の著書による)
絆のはじまり。
最近はもうひとつ楽しみが増えた。売り手と買い手の会話である。
昨日の夕方の収穫をひとつ。
食品売り場に特設された「催し物」コーナーでの話。
おいしそうな煮物がパックに入って並んでいる。大根,さといも,竹の子,わらび,こんぶ,などの煮物がそれぞれ単品でパックに入っている。どれも1パック「570円」とある。とおりすがりに「おいしそうだなぁ」と思いながら品定めをしていたら,店番をしていた人の好さそうなおばちゃんが大きな声で客の呼び込みをはじめた。またたくまに人が足を止めて眺めている。今日はもうおかずになるものは買った(とりのもつの煮込み)から,もういいや,と思ってそこを離れようとした。すると,おばちゃんが「お父さん,3パックで1,050円にするから買っていってよ」という。「えっ?」と思って素早く計算をしてみる。1パック570円を3パックにすれば1,710円ではないか。それを1,050円にするという。2パックでも1,140円だというのに。こうなると人間は弱い。ただでさえ「おいしそうだなぁ」という下心がある。ならばという気持になり,再度,おばちゃんに「3パックで1,050円なの?」と確認してみる。「そう,どれでも3パック1,050円だよ」とおばちゃん。一瞬,目が合う。ほんとだよ,という目をしてニコニコしている。こういう目なざしに弱い。
よしっ,と決断をして,さといも,竹の子,わらびの三つを選ぶ。しかし,大根の煮物がとてもおいしそうだったので,おばちゃんが包んでくれている間に,「大根もおいしそうだねぇ」と声をかけてみる。すると,すぐに「味見してみる?」といって紙の皿に一切れポンと乗せてわたしてくれる。「こんなに大きくなくてもいいよ」「気持だから」「悪いねぇ」「無理して買わなくてもいいよ」「ありがとう」と会話がはずむ。もう,すっかり友だち気分。暖簾に深川・〇〇店と買いてある。「深川からきてるの?」「そうだよ」「深川はむかしから煮物をやってるの?」「そうだよ。うちの店はもう何代目かわからないほど古いよ」「そう。その味がしみこんでるんだ」「そうそう。いいこと言うねぇ。お父さん」という具合に話は途切れない。
大根にはほのかにイカの味がした。すかさず「イカのいい味がしてるねぇ」「お父さん,いい舌もってるねぇ。そう,イカのゲソを入れてある」「企業秘密じゃないの?」「そこからさきは,ヒ・ミ・ツ」と言ってにっこり笑う。とても健康そうな明るい笑顔がいい。
いま,大根が安い。よしっ,明日は大根を買ってきて炊いてみよう。ゲソも買ってきて。あとは,おでんの素でも買って・・・などと楽しい妄想がふくらむ。ほんのちょっとした日常のなかの会話がとても楽しいということを,いまごろになって気づいた。これも台所に立つようになってからの,想定外の収穫であった。
スーパー・マーケットは品数も豊富でまことに便利だ。コンビニもなにかと便利だ。しかし,いずれも,品物を駕籠に入れてレジにもっていき,勘定をして終わり。ひとこともしゃべらない。自動販売機や電車の切符にしてもいまはカードですべて処理されてしまう。なにもしゃべらない。それを「便利」だと思い込んでいる。たしかに便利ではある。しかし,その「便利」さには大きな落とし穴が待っている。そのことはいまは触れないでおく。
同じ食品売り場に,比較的よく利用するコロッケ屋さんがある。ここはとても繁盛している。安くておいしいから。しかも,若くてきれいなお姉さんが立っている。ここではお客さんと余分な会話をしてはいけないと躾けられているのか,声をかけてもほとんど返事をしない。「ここのコロッケ,おいしよね」と勇気を奮い起こして声をかけてみる。すると,判で押したように「ありがとうございます」という返事。ニコリともしない。それで終わり。
その点,日本の各地からやってくる食品の「催し物」コーナーの売り手は面白い。第一,気合が入っている。血の通った人間だと顔に書いてある。ひとつ尋ねれば,何倍にもなって返ってくる。こちらも面白くなってツッコミを入れる。ますます面白くなってくる。むかしの小売屋さんは,八百屋さんも,魚屋さんも,コロッケ屋さんも,みんなこうした会話をお互いに楽しんでいたものだ。それがすっかり姿を消してしまった。「機械」に乗っ取られてしまったのだ。そのために,人が生きていく上でもっとも大事なことを失ってしまった。人と人との会話である。絆のはじまりは,まずは,挨拶であり,会話からだ。
生身の人間を置き去りにした文明という名の「からくり」が,少しこころを落ち着けて考えてみれば,すぐに見えてくる。原発はその最後の「からくり」だ。この「からくり」をどうやってコントロールするか,「3・11」後を生きるわたしたちの最大の課題でもある。
「おいしそうだねぇ」「味見してみる?」
「お宅の柿はよう熟れてますか」「いまが食べごろですよ」(これは夜這いの許諾をえるための会話・赤松啓介の著書による)
絆のはじまり。
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