2012年9月21日金曜日

遅々として進まぬ「復興」。気仙沼の仮設住宅に住む友人・Tさんからメール。

 7月29日のブログに,「蛇の生殺しのような世界を生きています」というメールをくださった気仙沼市の仮設住宅に住む友人のTさんのことを書きました。そのTさんから久しぶりにメールがとどきました。「遅々として進まぬ復興に苛立ちを覚える」という内容の長い手紙と,行政の窓口とのやりとりの記録,それに地方紙の情報と盛り沢山のメールでした。

 メールの地の文章には明らかに疲労の色が現れていて,それを読むわたしを驚かせるに充分なものが伝わってきました。ご本人も「推敲してない文章で申し訳ない」と断っていらっしゃいますが,相当の蓄積疲労の表出ではないか,とわたしは心配しながら想像をめぐらせています。

 Tさんの主たる訴えは,「復興」を担当する行政の窓口の複雑さ,手際の悪さ,無責任さに集中しています(この話,プライバシーの問題もありますので,いささか加工してあります)。Tさんは,ころころ変わる「復興」のための担当窓口の名前に翻弄され,そのつど,説明会が開かれるものの,どうも要領を得ないと困惑していらっしゃいます。そこで窓口で直接交渉すると,隣の窓口で聞いてくれ,という具合にたらい回しにされてしまう。ようやく,この窓口で担当してくれるということがわかって書類を受け取るも,この書類を読み取り,理解するまでに相当の時間と努力が必要だといいます。そして,ようやく書き込んで提出すると,間違いが多く書き直しを命じられる,とのこと。もう少し丁寧に教えてくれてもいいのにと思うものの,担当者の人数が足りないために,後ろに並んでいる人への対応に追われてしまうので,どうにもならないといいます。ですから,ただひたすら「忍」の一字で,我慢し,何回も何回も役所通いをするしかありません,と訴えていらっしゃいます。

 こうした複雑な行政手続きの具体的なご自身の経験を,ひとつの事例として記録にまとめ,それらをPDFにして送ってくださいました。せっかくの記録ですので,わたしも時間を割いて,必死になって読んでみますが,素人であるわたしには理解不能の場面がいくつもでてきます。ほんとうにこんなことが行われているのだろうか,と疑問に思うところも少なくありません。とにかく,たったひとつの簡単な行政手続きを完了するまでに,信じられないほどの時間がかかっている,ということが手にとるようにわかります。

 それでも実際に「補助金」が下りるまでには,まだまだ,気の遠くなるような行政手続きが必要なのだそうです。これが,Tさんが直面している現実であり,日常なのか,と信じられない思いでいっぱいです。いまもなお「蛇の生殺しのような世界」から脱出できないまま,格闘していらっしゃるのかと思うと頭が下がります。

 Tさんから送っていただいた資料を読んでいると,国は,どう考えてみても一般の被災者には「補助金」を下ろしたくないのではないか,と思えてきて仕方ありません。行政の担当者もまた,こんなに複雑な書類を書くことにとまどいを感じつつ,被災者にどのように説明したらいいのか困惑している,というのも一方の現実のようです。この行政手続きという分厚い「壁」の前で,多くの被災者は茫然自失の状態に陥り,思い悩んだ結果,ついには故郷を捨てて,どこかに移住してしまう人も少なくないといいます。

 こんな情報に接して間もないころに,偶然,知り合いの弁護士さんとお会いすることがありました。まだ,比較的若い(とはいえ40歳代の半ば?)この弁護士さんは「3・11」以後,福島の南相馬市を中心にボランティア活動をつづけ,いまも通いつづけているとのことです。その弁護士さんもまた,Tさんが直面していることと同じようなお話をなさっていました。

 あまりに複雑な行政手続きのために,被災者は「もういい」「補助金はいらない」と諦める人が続出しているといいます。それでも諦めないで「補助金」を申請する手続きができるようにと思って必死で支援しているのだ,と。

 そして,補助金支給のための「特措法」(特別措置法)をつくって対応しないかぎり「復興予算」はあっても使えないまま,使い残しているのが現状の姿だと,この弁護士さんも訴えていらっしゃいます。だれの眼にも困っている人は一目みればわかる話なのに・・・・。法治国家の悲しい隘路にはまり込んだままのお役所仕事。せめて,例外措置を。この際にかぎり。

 特別予算を組んだ「復興予算」は,もっとも必要な被災者の手にはなかなかとどかなくて,まったく関係のない「もんじゅ」関連の機関に「42億円」ものカネがいとも簡単に流れていく,この矛盾をわたしたち納税者はきびしく追及していく必要があると思います。「復興予算」がゼネコンには流れやすく,地元の零細な土木業者には流れにくい,という構造も同じです。

 「復興予算」は国が末端まで管理するのではなくて,大枠の予算を地元の地方自治体に応分に配分して,その使い方については現場に一任すべきではないのか。そうしないかぎり,いつまで経っても被災者の手には一銭もわたらないことになりかねません。すでに,一年半を経過しているという現実を考えると悲しくなってきます。

 わたしたちは,なにかとてつもなく大事なものを,カネと引き換えに,どこかに置き忘れてきてしまったようです。原発の問題も,まったく同じ構造です。オスプレイの配備の問題も同じです。

 人間の生き方の根源からの問い直しなしには,日本の真の「復興」はありえない,と日毎に強く考えるようになりました。

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