日馬富士の優勝に興奮して,一夜明けた今朝,ふたたび『東京新聞』で日馬富士優勝・横綱昇進確実の文字を眼で確認しながら,さまざまな日馬富士関連の情報を追っていたら,驚くべき談話が紹介されていて,思わず涙してしまった。
わたしが「ぐっ」ときてしまった文章を紹介しておこう。
昇進を確実にした息子に,母は「お父さんなら『思い責任があるからもっと頑張れ』って言う」と天国の父の思いを代弁。日馬富士は「父が喜ぶのは優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」と話した。
「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」・・・・このフレーズを何回,読み返したことか。そして,徐々に,徐々に涙で文字が霞んでいく・・・・ついには,なにも見えなくなって,とうとう嗚咽してしまった。最近,涙もろくなってきているのは承知している。しかし,それだけのせいではない。深い,深い,感動のせいだ。
「優勝より正しい生き方をすること」などということばを,連続全勝優勝をした力士が吐くとは夢にも思っていなかった。さぞかし「連続全勝優勝」の六文字に酔い痴れているだろう,そして,横綱を手にした悦びにむせんでいるだろうと想像していた。それも人生に一回かぎりのことなのだからいいではないか,と。しかし,日馬富士はそうではなかった。「優勝より正しい生き方」を「胸に刻んで」最優先させている。もう,すでにして立派な,それももっとも大事な心構えとしての「横綱」の品格を備えているではないか。そこに大いなる感動をしたのだ。
ところが今日の『毎日新聞』の上鵜瀬浄記者は「品格欠く?変則仕切り」という見出しの記事を書いている。日馬富士が,制限時間いっぱいになった最後の仕切りの仕方が「品格を欠く」というのだ。加えて相手力士の「目も見ていない仕切り」と糾弾する。そして,「いつでも誰が相手でも堂々と受けて立つべき横綱に,ふさわしくない」と断じている。
上鵜記者は双葉山というかつての名横綱がよほど好きらしい。その好き嫌いはともかくとして,「堂々と受けて立つべき横綱」というのはひとつの理想であって,それを実行した横綱をわたしは寡聞にして知らない。制限時間前に横綱につっかけた力士はなんにんかいたが,いずれも横綱に無視されて,立ち合いは成立していない。現代の大横綱白鵬だって,自分の呼吸で立つことに専念しているし,先手をとるべく「張手」や「かち挙げ」を多用している。その白鵬が大尊敬しているのが双葉山だ。
こうして一つひとつ反論をしたいが,無駄だと気づく。なぜなら,相撲の見方・考え方が基本的なところで違うからだ。相撲を「部分」でみてはいけない,これがわたしの見方だ。相撲をトータルでみる。そして,力士の個性を楽しむ。みんながみんな同じ所作をしはじめたら,それはロボットと同じだ。「塩をたくさん撒きすぎる」といって注意を受けた力士がいた。仕切りが後ろすぎたり,前すぎたり,横を向いていたりして,あまりに変則だといって注意を受けた力士もいた。それは立ち合いに影響するからという理由であった。
しかし,日馬富士の最後の仕切りは,土俵の神様に捧げる「祈り」の儀礼であることを上鵜記者は理解していないらしい。日馬富士の相撲は全身全霊を籠めて「祈り」を捧げている,とわたしは受け止めている。だから,土俵に上がったら,むやみに相手の眼はみない。土俵の上に漂う神様の「気配」を感じとり,その土俵の神様と対話・交信をしようと意識を集中している。つまり,自己にあらざる自己になろうとしているのだ。もっと言ってしまえば,「自己を超えでる」ことによって,稽古で鍛えた「力」以上の,さらなる「力」を神様から賦与してもらおうとしているのだ。
だから日馬富士の仕切りは奇を衒うようなものとは質が違う。次元が違う。神に近づきたいという願望から,少しずつ少しずつ構築された,日馬富士に固有の,気持の籠もった「仕切り」なのだ。これをわたしは「個性」という。この「個性」を批判することはできない。善悪の彼岸を超えでていく「個性」なのだから。
この,自己と向き合いながら,みごとなまでに自己の内面の奥深くまで見据えながら,徹底的に追究された,日馬富士の究極的な個性的で美しい「仕切り」を,「品格欠く?変則仕切り」にしか見えない上鵜記者の眼を疑いたい。優れた力士は人間と神の間を「仲立ち」する領域にまで踏み込んでいく。もともと力士とはそういう存在なのだ,という認識をもってほしい(新田一郎『相撲の歴史』,宮本徳蔵『力士漂泊』,などを参照のこと)。そこから大相撲をみるとき,大相撲の世界がまるで別世界にみえてくる。異次元の世界がそのさきに広がっている。日馬富士の相撲はその域に達しようとしているのだ。
日馬富士が大横綱として大成するかいなかは,この異次元の世界にどこまで踏み込むことができるかにかかっている。あの「祈り」の儀礼ともいうべき日馬富士特有の,きわめて個性的な,美しい「仕切り」を,来場所からも大いに楽しみにしたいと思っている。
「優勝より正しい生き方」・・・・これを胸に刻んで,日々,猛烈な稽古に励み,こんにちの「心・技・体」をつくりあげてきた日馬富士のどこがいったい「品格に欠ける」というのであろうか。
優勝劣敗主義に毒されてきたわたしたちのスポーツ観に対して,伝統スポーツである大相撲の世界から一陣の涼風が吹き抜けていくのを,とても心地よく感じている。
「優勝より正しい生き方」の「優勝」のところに別のことばを置き換えてみれば,こんにちのわたしたちがいかに見すぼらしい「生き方」をしているかが透けてみえてくる。
「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる。」
このことばを書にして,しばらくは神棚に飾っておきたい,そんな気持ちでいっぱいである。
日馬富士よ,ありがとう。こころから,ありがとう。
わたしが「ぐっ」ときてしまった文章を紹介しておこう。
昇進を確実にした息子に,母は「お父さんなら『思い責任があるからもっと頑張れ』って言う」と天国の父の思いを代弁。日馬富士は「父が喜ぶのは優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」と話した。
「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる」・・・・このフレーズを何回,読み返したことか。そして,徐々に,徐々に涙で文字が霞んでいく・・・・ついには,なにも見えなくなって,とうとう嗚咽してしまった。最近,涙もろくなってきているのは承知している。しかし,それだけのせいではない。深い,深い,感動のせいだ。
「優勝より正しい生き方をすること」などということばを,連続全勝優勝をした力士が吐くとは夢にも思っていなかった。さぞかし「連続全勝優勝」の六文字に酔い痴れているだろう,そして,横綱を手にした悦びにむせんでいるだろうと想像していた。それも人生に一回かぎりのことなのだからいいではないか,と。しかし,日馬富士はそうではなかった。「優勝より正しい生き方」を「胸に刻んで」最優先させている。もう,すでにして立派な,それももっとも大事な心構えとしての「横綱」の品格を備えているではないか。そこに大いなる感動をしたのだ。
ところが今日の『毎日新聞』の上鵜瀬浄記者は「品格欠く?変則仕切り」という見出しの記事を書いている。日馬富士が,制限時間いっぱいになった最後の仕切りの仕方が「品格を欠く」というのだ。加えて相手力士の「目も見ていない仕切り」と糾弾する。そして,「いつでも誰が相手でも堂々と受けて立つべき横綱に,ふさわしくない」と断じている。
上鵜記者は双葉山というかつての名横綱がよほど好きらしい。その好き嫌いはともかくとして,「堂々と受けて立つべき横綱」というのはひとつの理想であって,それを実行した横綱をわたしは寡聞にして知らない。制限時間前に横綱につっかけた力士はなんにんかいたが,いずれも横綱に無視されて,立ち合いは成立していない。現代の大横綱白鵬だって,自分の呼吸で立つことに専念しているし,先手をとるべく「張手」や「かち挙げ」を多用している。その白鵬が大尊敬しているのが双葉山だ。
こうして一つひとつ反論をしたいが,無駄だと気づく。なぜなら,相撲の見方・考え方が基本的なところで違うからだ。相撲を「部分」でみてはいけない,これがわたしの見方だ。相撲をトータルでみる。そして,力士の個性を楽しむ。みんながみんな同じ所作をしはじめたら,それはロボットと同じだ。「塩をたくさん撒きすぎる」といって注意を受けた力士がいた。仕切りが後ろすぎたり,前すぎたり,横を向いていたりして,あまりに変則だといって注意を受けた力士もいた。それは立ち合いに影響するからという理由であった。
しかし,日馬富士の最後の仕切りは,土俵の神様に捧げる「祈り」の儀礼であることを上鵜記者は理解していないらしい。日馬富士の相撲は全身全霊を籠めて「祈り」を捧げている,とわたしは受け止めている。だから,土俵に上がったら,むやみに相手の眼はみない。土俵の上に漂う神様の「気配」を感じとり,その土俵の神様と対話・交信をしようと意識を集中している。つまり,自己にあらざる自己になろうとしているのだ。もっと言ってしまえば,「自己を超えでる」ことによって,稽古で鍛えた「力」以上の,さらなる「力」を神様から賦与してもらおうとしているのだ。
だから日馬富士の仕切りは奇を衒うようなものとは質が違う。次元が違う。神に近づきたいという願望から,少しずつ少しずつ構築された,日馬富士に固有の,気持の籠もった「仕切り」なのだ。これをわたしは「個性」という。この「個性」を批判することはできない。善悪の彼岸を超えでていく「個性」なのだから。
この,自己と向き合いながら,みごとなまでに自己の内面の奥深くまで見据えながら,徹底的に追究された,日馬富士の究極的な個性的で美しい「仕切り」を,「品格欠く?変則仕切り」にしか見えない上鵜記者の眼を疑いたい。優れた力士は人間と神の間を「仲立ち」する領域にまで踏み込んでいく。もともと力士とはそういう存在なのだ,という認識をもってほしい(新田一郎『相撲の歴史』,宮本徳蔵『力士漂泊』,などを参照のこと)。そこから大相撲をみるとき,大相撲の世界がまるで別世界にみえてくる。異次元の世界がそのさきに広がっている。日馬富士の相撲はその域に達しようとしているのだ。
日馬富士が大横綱として大成するかいなかは,この異次元の世界にどこまで踏み込むことができるかにかかっている。あの「祈り」の儀礼ともいうべき日馬富士特有の,きわめて個性的な,美しい「仕切り」を,来場所からも大いに楽しみにしたいと思っている。
「優勝より正しい生き方」・・・・これを胸に刻んで,日々,猛烈な稽古に励み,こんにちの「心・技・体」をつくりあげてきた日馬富士のどこがいったい「品格に欠ける」というのであろうか。
優勝劣敗主義に毒されてきたわたしたちのスポーツ観に対して,伝統スポーツである大相撲の世界から一陣の涼風が吹き抜けていくのを,とても心地よく感じている。
「優勝より正しい生き方」の「優勝」のところに別のことばを置き換えてみれば,こんにちのわたしたちがいかに見すぼらしい「生き方」をしているかが透けてみえてくる。
「優勝より正しい生き方をすること。それを胸に刻んでいる。」
このことばを書にして,しばらくは神棚に飾っておきたい,そんな気持ちでいっぱいである。
日馬富士よ,ありがとう。こころから,ありがとう。
2 件のコメント:
日馬富士の仕切りは横綱・照國、大関・清國を生んだ旧伊勢ヶ濱部屋(初代は第五代伊勢ヶ濱の関脇清瀬川、第八代伊勢ヶ濱の前頭筆頭の蒲郡出身の和晃が2007年に閉鎖)所属の小兵力士(173cm 86kg)関脇幡瀬川 (1904~1974)が行っていたものと同じです。
幡瀬川は相撲の神様の異名をもっていたわけですし、「品格欠く?変則仕切り」ということはありません。
単に鵜瀬浄記者が相撲の神様の異名を持っていた幡瀬川の「平蜘蛛型」の仕切りを存じてなかったということでしょう。
まず仕切りというのは呼吸が合えばいつでも立って良いというルールがあります。
日馬富士はその仕切りの際に相手を見ず立つ気のない仕切りをするから批判されているのです。
幡瀬川や照國の平蜘蛛型は相手を見、立つことの出来る仕切りであり日馬富士とは違います。
それと祈りを捧げるなら四股その他所作で行われているので仕切りの際にやる必要はありません。相手に失礼です。
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