オリンピック・ベルリン大会の記録映画『オリンピア』(レニ・リーフェンシュタール監督作品)が,多木さんが初めてみた映画だという話から,このテクストははじまります。まだ,小学生だった,そうです。1938年。この年は,わたしが生まれた年でもあります。このときには,すでに日中戦争がはじまっていて,戦時色に塗り固められていたといいます。そして,1940年に開催が予定されていたオリンピック・東京大会も,返上するというような時代でした。
多木浩二さんといえば,わたしの頭のなかでは,映像批評の第一人者にして,哲学者という印象がつよくあります。その多木さんがみた最初の映画が『オリンピア』だった,というのはとても不思議なご縁のようなものを感じます。前にも書きましたが,多木さんが『スポーツを考える』(ちくま新書)という著作を残されたのも,こういうご縁があったからだろうと思います。と同時に,多木さんにとってはスポーツの問題は「20世紀」を考える上で不可欠のテーマであったことも見逃すことはできません。
少しオーバーに言えば,このテクストは『オリンピア』にはじまって『オリンピア』で終わる,多木浩二さんの渾身の著作と言ってもいいほどです。なぜなら,多木さんの持論である歴史についての考え方を,『オリンピア』を題材にして,縦横無尽に展開されているからです。言ってみれば,大文字の歴史にたいして,小文字の歴史の主張です。つまり,アカデミックなオーソライズドされた学問としての歴史ではなく,その隙間からこぼれ落ちてしまった日常生活のなかの歴史をすくい上げようというわけです。もちろん,この姿勢は,ウァルター・ベンヤミンの主張とも共振・共鳴するものです。つまり,多木少年がこの映画とどのように向き合ったのか,というところからはじまります。そして,興味深いのは,多木少年の眼には,どうして裸の人が多く登場するのかが不思議だったといいます。そこから,多木さん独特の「映像の歴史哲学」が展開されていくことになります。
第一章の「ルプレザンタシオン 世界を探求する」の冒頭から,『オリンピア』の話がはじまり,ここで,すでに相当に詳細にこの映画のもつ特異性について論じられているのですが,第五章の「オリンピア すべてが映像になるために作られた神話」として,さらに徹底した映像論が展開されています。言ってみれば,このテクストの中核をなす部分はここにある,とわたしは受け止めました。その意味で,スポーツ史・スポーツ文化論をやってきた人間としては,衝撃的な章になっています。なぜなら,映像をどのように読み取るのか,そのことと歴史とがどのようにクロスするのか,とりわけ,アカデミックな血も涙もない形式論理的な歴史を根底から突き崩し,血の通った真の人間の歴史をとりもどすための,具体的な事例として『オリンピア』が俎上に乗せられているからです。
そして,最後の章となる第六章では,「クンスト 日常の技芸を守る」を論じています。「クンスト」,これはカントのいう Kunst で,「芸術」でもあり,「技術」でもあり,「技」でもあります。それらを総称して,「日常の技芸」と言っているところに,わたしは大いに惹きつけられてしまいました。なぜなら,スポーツもまた,オリンピックのような Spitzensport から一般大衆のための Massensport にいたるまで,その守備範囲がきわめて広く,ともすれば,スポーツを語るときには Spitzensport の方に比重が傾いていきます。が,多木さんは,そうではなくて,日常生活のなかでの「技芸」としての Kunst こそが真の歴史を形成しているのだ,と主張します。
ですから,多木さんは,みずからのスポーツ経験を語るときに,この映画『オリンピア』をみたときの驚きからはじめるわけです。そこからはじめて,20世紀とはいったいどういう世紀だったのか,そして,その20世紀にとってスポーツ映像とはどのような役割を果たしてきたのか,という普遍の問題へと展開していきます。この視座は,わたしにはなかったものでした。ですから,とても新鮮で,ハッと気づかされました。その意味でも,このテクストは,いつか,わたしたちの研究会でも取り上げ,徹底的に議論する必要がある,と覚悟を決めています。
最後に,このテクストの冒頭に「歴史の天使」という多木さんの詩文が,エピグラフとして飾られています。この文章がとても美しく,しかも,深いところに触手が伸びていて,わたしは何回も何回も熟読玩味しています。できることなら,ここに全文を写しとりたいほどです。でも,そうもいきませんので,その一部だけ引いておきましょう。
フットワーク
「歴史」にも,乱丁,落丁がある。出来損ないの書物のなかの奇妙な迷路。そんな不思議なエアポケットが,写真の場である。歴史学者が見落とした隙間,瞬間をまた細分した瞬間,空虚をまた空っぽにした空虚。それがほんとうには,まだ見ぬ歴史がはじまる場所である。──以下,略。
この文章を読んで,ハッと気づかれた方もいらっしゃることと思います。そうです。『スポートロジイ』第2号(2013年7月刊)に掲載されている今福龍太さんの特別講演「身体,ある乱丁の歴史」(P.9~27.)です。
今福さんは,その種明かしをしてくださった上で,このテクストと講演とを重ね合わせて,一度,みんなで議論をしませんか,と誘ってくださっています。もちろん,願ってもないチャンスですので,かならず実現させたいと考えています。
なお,この『映像の歴史哲学』の刊行を記念して開催された,吉増剛造・今福龍太トークイベント(青山ブックセンター本店)の内容が『週刊読書人』(第3005号,9月6日)に掲載されていますので,そちらもぜひ読んでみてください。ありがたいことに「バタイユの『動物性』」についてもしっかりと論じてくださっています。また,ベンヤミンについても論じてくださっています。
ここまで読んだときに,ようやく,今福さんが『スポートロジイ』第2号の合評会の第二バージョンをやりましょう,と声をかけてくださったことの意味がこころの底から納得できました。ありがたいことです。大いに準備をして,その機会に臨みたいと考えています。
とりあえず,今日のところはここまで。
多木浩二さんといえば,わたしの頭のなかでは,映像批評の第一人者にして,哲学者という印象がつよくあります。その多木さんがみた最初の映画が『オリンピア』だった,というのはとても不思議なご縁のようなものを感じます。前にも書きましたが,多木さんが『スポーツを考える』(ちくま新書)という著作を残されたのも,こういうご縁があったからだろうと思います。と同時に,多木さんにとってはスポーツの問題は「20世紀」を考える上で不可欠のテーマであったことも見逃すことはできません。
少しオーバーに言えば,このテクストは『オリンピア』にはじまって『オリンピア』で終わる,多木浩二さんの渾身の著作と言ってもいいほどです。なぜなら,多木さんの持論である歴史についての考え方を,『オリンピア』を題材にして,縦横無尽に展開されているからです。言ってみれば,大文字の歴史にたいして,小文字の歴史の主張です。つまり,アカデミックなオーソライズドされた学問としての歴史ではなく,その隙間からこぼれ落ちてしまった日常生活のなかの歴史をすくい上げようというわけです。もちろん,この姿勢は,ウァルター・ベンヤミンの主張とも共振・共鳴するものです。つまり,多木少年がこの映画とどのように向き合ったのか,というところからはじまります。そして,興味深いのは,多木少年の眼には,どうして裸の人が多く登場するのかが不思議だったといいます。そこから,多木さん独特の「映像の歴史哲学」が展開されていくことになります。
第一章の「ルプレザンタシオン 世界を探求する」の冒頭から,『オリンピア』の話がはじまり,ここで,すでに相当に詳細にこの映画のもつ特異性について論じられているのですが,第五章の「オリンピア すべてが映像になるために作られた神話」として,さらに徹底した映像論が展開されています。言ってみれば,このテクストの中核をなす部分はここにある,とわたしは受け止めました。その意味で,スポーツ史・スポーツ文化論をやってきた人間としては,衝撃的な章になっています。なぜなら,映像をどのように読み取るのか,そのことと歴史とがどのようにクロスするのか,とりわけ,アカデミックな血も涙もない形式論理的な歴史を根底から突き崩し,血の通った真の人間の歴史をとりもどすための,具体的な事例として『オリンピア』が俎上に乗せられているからです。
そして,最後の章となる第六章では,「クンスト 日常の技芸を守る」を論じています。「クンスト」,これはカントのいう Kunst で,「芸術」でもあり,「技術」でもあり,「技」でもあります。それらを総称して,「日常の技芸」と言っているところに,わたしは大いに惹きつけられてしまいました。なぜなら,スポーツもまた,オリンピックのような Spitzensport から一般大衆のための Massensport にいたるまで,その守備範囲がきわめて広く,ともすれば,スポーツを語るときには Spitzensport の方に比重が傾いていきます。が,多木さんは,そうではなくて,日常生活のなかでの「技芸」としての Kunst こそが真の歴史を形成しているのだ,と主張します。
ですから,多木さんは,みずからのスポーツ経験を語るときに,この映画『オリンピア』をみたときの驚きからはじめるわけです。そこからはじめて,20世紀とはいったいどういう世紀だったのか,そして,その20世紀にとってスポーツ映像とはどのような役割を果たしてきたのか,という普遍の問題へと展開していきます。この視座は,わたしにはなかったものでした。ですから,とても新鮮で,ハッと気づかされました。その意味でも,このテクストは,いつか,わたしたちの研究会でも取り上げ,徹底的に議論する必要がある,と覚悟を決めています。
最後に,このテクストの冒頭に「歴史の天使」という多木さんの詩文が,エピグラフとして飾られています。この文章がとても美しく,しかも,深いところに触手が伸びていて,わたしは何回も何回も熟読玩味しています。できることなら,ここに全文を写しとりたいほどです。でも,そうもいきませんので,その一部だけ引いておきましょう。
フットワーク
「歴史」にも,乱丁,落丁がある。出来損ないの書物のなかの奇妙な迷路。そんな不思議なエアポケットが,写真の場である。歴史学者が見落とした隙間,瞬間をまた細分した瞬間,空虚をまた空っぽにした空虚。それがほんとうには,まだ見ぬ歴史がはじまる場所である。──以下,略。
この文章を読んで,ハッと気づかれた方もいらっしゃることと思います。そうです。『スポートロジイ』第2号(2013年7月刊)に掲載されている今福龍太さんの特別講演「身体,ある乱丁の歴史」(P.9~27.)です。
今福さんは,その種明かしをしてくださった上で,このテクストと講演とを重ね合わせて,一度,みんなで議論をしませんか,と誘ってくださっています。もちろん,願ってもないチャンスですので,かならず実現させたいと考えています。
なお,この『映像の歴史哲学』の刊行を記念して開催された,吉増剛造・今福龍太トークイベント(青山ブックセンター本店)の内容が『週刊読書人』(第3005号,9月6日)に掲載されていますので,そちらもぜひ読んでみてください。ありがたいことに「バタイユの『動物性』」についてもしっかりと論じてくださっています。また,ベンヤミンについても論じてくださっています。
ここまで読んだときに,ようやく,今福さんが『スポートロジイ』第2号の合評会の第二バージョンをやりましょう,と声をかけてくださったことの意味がこころの底から納得できました。ありがたいことです。大いに準備をして,その機会に臨みたいと考えています。
とりあえず,今日のところはここまで。
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