いつものことですが,講演が終わった翌日はなんとも砂を噛む思いでいっぱいです。あそこはこのように話すべきだった,ここの部分はもっとふくらませて話すべきだった,などなど。後悔することばかり。もう二度と講演などは引き受けるものではない,と落ち込んでいます。でも,不思議なことに,しばらくすると忘れてしまいます。そして,また,依頼されるとさんざん迷いながらも,最終的には引き受けてしまいます。自分で自分がよくわかりません。
「オリンピックとはなにか,スポーツとはなにか」という大きなくくりの講演タイトルでしたので,どんな話をしてもそれなりに体裁は整うはずだと呑気に構えていました。ですから,一応の話の道筋だけメモをして,壇上に立ちました。主催者から4~50人程度と伺っていましたので,ゆっくり考えながらお話をさせてもらえれば・・・と考えていました。
フタを開けてみたら,なんと200人用の教室がほぼ満員。こんなに大勢の方を前にしての講演は久しぶりだったこともあり,壇上に立っていささかあわてました。よく見回してみますと,立派な業績を残された大先輩から,元同僚だった先生,それぞれの専門の世界で活躍されている顔見知りの人たち,出版社の編集者,とうとうの顔ぶれが眼に飛び込んできます。そのたびに,あれあれと思いながら,なかなか話の本筋に入ることができずに,序盤ですでに乱れはじめました。
もう,こうなると用意していったメモはほとんどなんの役にも立ちません。メモなど無視して,その場のアドリブで流していくしかありません。途中で何回も頭の中が真っ白になりながら,そのつど体勢を建て直そうと努力し,その瞬間に頭に浮かぶことを頼りに,とにもかくにも前に話を進めることに全力投球です。このあたりから冷えきっていたからだがかっかと熱くなりはじめ,わけのわからないことを必死になってしゃべっている自分の姿がみえてきます。なんともやり切れない思いがわたしの全身を覆います。どこかで壁穴をつくって一刻も早くそこから脱出しなければ・・・・と焦るばかり。
結局,最後まで中途半端な話ばかりで終わってしまいました。が,最後の質疑のところで,司会者からとてもありがたい質問があり,それへの応答でようやく気持が落ち着いてきて,いくらかまともなお話ができたのではないか,と自己弁護しつつ,みずからを慰めています。
講演が終わってから,何人かの人が集まってきて,あれこれ意見の交換がありました。ここでの話がとても面白かったのですが・・・・。また,いつか,別の機会に・・・ということで散会。そのあと,何人かの若い友人を誘って「打ち上げ」に。この会のおかげでなんとか荒んでいた気持も少し落ち着きました。が,気がつけば最終電車。
今朝になって,ああ,結論部分をもっと明確に言い切っておくべきだった,と気づきました。それは,「スポーツは政治・経済・メディアとの複合体である」ということです。わたしも含めてそうなのですが,東京体育学会の会員さんのほとんどは,スポーツの経験者です。そうすると,「スポーツとはなにか」と考えるときには,おのずから自分のスポーツ経験から考えはじめます。そこでの経験知が中心になってしまいます。そこから飛び出して,第三者的な広い視野に立ってスポーツを考えるという訓練が十分ではありません。ですから,スポーツについての思考もきわめて限られた範囲に終わってしまいがちです。しかし,時代はもはや「政治・経済・メディア」の力がきわめて強くなり,スポーツもまたそれらとの「複合体」になってしまった,というげです。
今回の東京五輪招致運動を考えてみればお分かりのとおり,スポーツは政治と無縁ではありません。それどころか,一国の総理大臣が先頭に立ってIOC総会でプレゼンテーションを行わなければならない,そういう時代に突入している,という事実がなによりもの証左でしょう。国会でもつい最近,オリンピックを成功させるための国会決議の採決がありました。山本太郎議員ただひとり反対で,あとの議員のすべてが賛成でした。これもまた不思議な異常現象だと考えています。
すでに,スポーツが経済のコントロール下にあるということはもはや説明するまでもないでしょう。その詳細については『世界』11月号に「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」と題して書いておきましたので,そちらをご覧ください(これのコピーは当日の会場で配布)。わたし自身こんな時代がやってくるとは夢にも思っていませんでした。
さらに大きな問題はメディアです。わたしたちのこんにちのスポーツに関するイメージのほとんどはメディアによって構成されています。つまり,直接,スタジアムやグラウンドでみるのではなく,圧倒的多数の国民はテレビの映像をとおして,日常的にスポーツと接しているということです。このことを今福龍太氏は「スポーツ・メディア共同体」と名付けています(『近代スポーツのミッションは終わったか』)。極論してしまいますと,わたしたちはメディアによって自由自在にコントロールされている,と言っても過言ではありません。
そんな意味で,もはや「スポーツは政治・経済・メディアとの複合体である」と結論づけておこうと考えていたわけです。しかしながら,壇上に立った瞬間から思考は千々に乱れ,あっちへよろよろ,こっちへふらりと,まあ,みっともないこと限りなし,でした。
そんなこともあろうか予測できていましたので,その穴埋めという意味で,『世界』11月号に投じた論考「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」を,あらかじめ配布させていただきました。会場にお出でくださった方々には,それを読んで,講演の至らなかったところを補填しておいていただけると幸いです。
取り急ぎ,お詫びと懺悔のブログまで。
「オリンピックとはなにか,スポーツとはなにか」という大きなくくりの講演タイトルでしたので,どんな話をしてもそれなりに体裁は整うはずだと呑気に構えていました。ですから,一応の話の道筋だけメモをして,壇上に立ちました。主催者から4~50人程度と伺っていましたので,ゆっくり考えながらお話をさせてもらえれば・・・と考えていました。
フタを開けてみたら,なんと200人用の教室がほぼ満員。こんなに大勢の方を前にしての講演は久しぶりだったこともあり,壇上に立っていささかあわてました。よく見回してみますと,立派な業績を残された大先輩から,元同僚だった先生,それぞれの専門の世界で活躍されている顔見知りの人たち,出版社の編集者,とうとうの顔ぶれが眼に飛び込んできます。そのたびに,あれあれと思いながら,なかなか話の本筋に入ることができずに,序盤ですでに乱れはじめました。
もう,こうなると用意していったメモはほとんどなんの役にも立ちません。メモなど無視して,その場のアドリブで流していくしかありません。途中で何回も頭の中が真っ白になりながら,そのつど体勢を建て直そうと努力し,その瞬間に頭に浮かぶことを頼りに,とにもかくにも前に話を進めることに全力投球です。このあたりから冷えきっていたからだがかっかと熱くなりはじめ,わけのわからないことを必死になってしゃべっている自分の姿がみえてきます。なんともやり切れない思いがわたしの全身を覆います。どこかで壁穴をつくって一刻も早くそこから脱出しなければ・・・・と焦るばかり。
結局,最後まで中途半端な話ばかりで終わってしまいました。が,最後の質疑のところで,司会者からとてもありがたい質問があり,それへの応答でようやく気持が落ち着いてきて,いくらかまともなお話ができたのではないか,と自己弁護しつつ,みずからを慰めています。
講演が終わってから,何人かの人が集まってきて,あれこれ意見の交換がありました。ここでの話がとても面白かったのですが・・・・。また,いつか,別の機会に・・・ということで散会。そのあと,何人かの若い友人を誘って「打ち上げ」に。この会のおかげでなんとか荒んでいた気持も少し落ち着きました。が,気がつけば最終電車。
今朝になって,ああ,結論部分をもっと明確に言い切っておくべきだった,と気づきました。それは,「スポーツは政治・経済・メディアとの複合体である」ということです。わたしも含めてそうなのですが,東京体育学会の会員さんのほとんどは,スポーツの経験者です。そうすると,「スポーツとはなにか」と考えるときには,おのずから自分のスポーツ経験から考えはじめます。そこでの経験知が中心になってしまいます。そこから飛び出して,第三者的な広い視野に立ってスポーツを考えるという訓練が十分ではありません。ですから,スポーツについての思考もきわめて限られた範囲に終わってしまいがちです。しかし,時代はもはや「政治・経済・メディア」の力がきわめて強くなり,スポーツもまたそれらとの「複合体」になってしまった,というげです。
今回の東京五輪招致運動を考えてみればお分かりのとおり,スポーツは政治と無縁ではありません。それどころか,一国の総理大臣が先頭に立ってIOC総会でプレゼンテーションを行わなければならない,そういう時代に突入している,という事実がなによりもの証左でしょう。国会でもつい最近,オリンピックを成功させるための国会決議の採決がありました。山本太郎議員ただひとり反対で,あとの議員のすべてが賛成でした。これもまた不思議な異常現象だと考えています。
すでに,スポーツが経済のコントロール下にあるということはもはや説明するまでもないでしょう。その詳細については『世界』11月号に「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」と題して書いておきましたので,そちらをご覧ください(これのコピーは当日の会場で配布)。わたし自身こんな時代がやってくるとは夢にも思っていませんでした。
さらに大きな問題はメディアです。わたしたちのこんにちのスポーツに関するイメージのほとんどはメディアによって構成されています。つまり,直接,スタジアムやグラウンドでみるのではなく,圧倒的多数の国民はテレビの映像をとおして,日常的にスポーツと接しているということです。このことを今福龍太氏は「スポーツ・メディア共同体」と名付けています(『近代スポーツのミッションは終わったか』)。極論してしまいますと,わたしたちはメディアによって自由自在にコントロールされている,と言っても過言ではありません。
そんな意味で,もはや「スポーツは政治・経済・メディアとの複合体である」と結論づけておこうと考えていたわけです。しかしながら,壇上に立った瞬間から思考は千々に乱れ,あっちへよろよろ,こっちへふらりと,まあ,みっともないこと限りなし,でした。
そんなこともあろうか予測できていましたので,その穴埋めという意味で,『世界』11月号に投じた論考「オリンピックはマネーゲームのアリーナか」を,あらかじめ配布させていただきました。会場にお出でくださった方々には,それを読んで,講演の至らなかったところを補填しておいていただけると幸いです。
取り急ぎ,お詫びと懺悔のブログまで。
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