2013年10月19日土曜日

ロシア・ソチ五輪「聖火リレー なぜ北極点に」(『東京新聞』10月19日・朝刊より)。スポーツ批評・その14.

 「海底資源狙い 露骨な回り道」,対外アピール「政治利用が五輪汚す」という見出しの躍る今朝の『東京新聞』,「こちら特報部」。「ニュースの追跡」を旗印に,さらにニュースの真相・深層に迫ろうとする,いま人気の紙面。

 見開き2ページにわたって,いま,話題のニュースを追跡。日常的なニュースでは伝えきれない,ニュースの核心部分に触手を伸ばしていく。いずれも記名記事なので,記者の力量が問われる,待ったなしの記者魂が伝わってくる。言ってみれば,開かれた議論の場である。

 この「ソチ五輪聖火リレー」の記事と連動するかのように,その左側には,安倍首相が「積極的平和主義」をアメリカの保守系シンクタンク・ハドソン研究所でのスピーチで掲げたことをとりあげて,その真意を問いただしている。しかも,この発言は,アメリカでは「集団的自衛権行使」と解釈される可能性もある(英語表現のアヤ)という。

 〔積極的平和〕とは「戦争だけでなく,貧困や搾取,差別など暴力がない状態」という定義を確認した上で,その実現に向けての「日本の貢献は?」と,問いかけている。そうして,「核なき世界」を示せ,紛争の仲介役期待,という大きな見出しを掲げ,開発や医療・・・支援,多方面に,と主張している。

 要するに,オリンピックは「国際平和運動」を標榜していながら,その内実は「政治利用」の都合のいいツールとして弄ばれている,これでいいのか,ことばの「正しい」意味での「積極的平和」に向けて,東京五輪の基本コンセプトを構築すべきではないのか,と主張しているようにわたしは受け止めた。

 ブログの表題の話にもどそう。
 聖火リレーで,なぜ,北極点にまで行かなければならないのか,というのがこの特報記事の眼目だ。記事によると以下のような解説があり,眼を引く。

 「北極には陸地がなく,氷が解ければ海だ。他の海と同じように国連海洋法条約が適用される。北極点は,どの国の領海でも排他的経済水域でもないが,海底から陸地に続く大陸棚の延長であれば,一定範囲内で資源の開発権は認められる。ロシアは近年,北極点周辺の海底は自国の大陸棚であると主張している。日本国際問題研究所の小谷哲男研究員(海洋安全保障)は「ロシアの深海潜水艦が六年前,北極点の海底に国旗を打ち付け,周辺の海底資源の独占的な開発権があると訴えた。リレーにも同様の意図がある」とみる。──以下,省略。

 そして,記事の最後に,真田久・筑波大教授(スポーツ人類学)の談話が紹介されている。それによると「聖火リレーは清らかな火を素早く神殿に持って行く古代ギリシアの風習に由来する。政治利用される聖火は,聖火台にともされる前に汚れてしまっているのと同じだ」と嘆いた。

 たぶん,真田教授はもっと多くのことを語ったと思われるが,最終的には記者の都合のいい「落ち」の部分だけに利用されてしまったようだ。それは,わたしの経験からもよくわかる。取材にきた記者は自分の論理展開につごうのいい部分しか使わない。あとは,カットされてしまう。

 おそらくは,真田教授はつきのようにも語っていたはずだ。
 聖火リレーは,ナチスのオリンピックと言われた1936年のベルリン大会にはじまった。当時の組織委員会事務局長を務めていたカール・ディーム(のちに,ドイツ・スポーツ大学ケルンの学長になる)の発案になるものだ。ディームは,プラトンの『国家』の冒頭に描かれたアテネの「聖火競走」をヒントにして,近代オリンピックに応用したのだ。それは,古代オリンピックの聖地「オリンピア」で採火した「聖火」を,近代オリンピックの開催地「ベルリン」まで,リレーして運ぶというアイディアであった。このアイディアはヒトラーにも歓迎され,早速,採用されることになった。しかし,ヒトラーはこのアイディアを「政治利用」することを思いつき,ギリシアのオリンピアからベルリンまでの主要幹線道路をくまなく調べ上げ,どのコースを走るかも綿密に練り上げた。そのコースは,第二次世界大戦がはじまったときに,ドイツ軍が侵入していく上で大いに役立った。つまり,聖火リレーはその当初から「政治利用」される「汚れたイベント」だったのだ。プーチンは目ざとくそれを見習っただけのことだ,と。

 この話はとても有名な話なので,かなりの人たちには常識である。
 たとえば,多木浩二さんは,リーフェンシュタールの撮った映画『オリンピア』をみたときの記憶を頼りに,つぎのように語っている。(ちなみに,多木さんが映画を初めてみたのが,小学生のときで,それがこの映画だったという。)

 「そのときに自分のなかに残っていたイメージというのは,神話的な部分です。それは,いまは聖火リレーと言われている部分です。聖火リレーなるものは,じつはこのベルリン・オリンピックではじまったのでした。そこにはナチの戦略的で地政学的な問題が絡んでいます。だからこそバルカン半島からベルリンまですべての地域をランナーが踏破できるわけです。そういった地政学的条件が聖火リレーという儀式と重なっていました。この映画は,強烈な神話的世界を映しだしたものなのです。そうした側面は子供ながらに,鮮明に頭のなかに残っています。」(多木浩二『映像の歴史哲学』,今福龍太編,みすず書房,2013年6月刊,P.143.)

 結論:聖火リレーは「神話」を生みだすための絶好の文化装置である。したがって,よくも悪くも,いかようにも利用可能なまことに便利なツールなのだ。つまり,「神話的暴力」(ベンヤミン)をめぐるきわめて重要なテーマなのである。このことについては,いつか,もっと深く思考の根を下ろしてみたい。オリンピックとはなにか,を考えるための手がかりのひとつとして。
 

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