控訴期限の10日までに控訴せず,確定,とネット上に大きなトピックスの一つとして流れている。なんともやりきれない気持でいっぱいである。いま,わたしのこころの内にざわめいている気持をことばにすることはほとんど不可能に近い。しかし,そのうちの比較的ことばにしやすいことがらを抜き出してみると以下のようになろうか。
一つは,「有罪確定」という表現。元同僚の教員,元校長・副校長,教育委員会,そして,直接指導を受けたOB,その保護者,その他関係者たちは,この「有罪確定」ということばをどのように受け止めているのだろうか。わたしのところに届いている情報は,質・量ともにとぼしいものにすぎないが,それでもこの「有罪確定」ということばから響いてくる思いは複雑である。元顧問がたった一人,すべての責任を背負って,それでおしまい。だとしたら,学校という組織,たとえば教員会議はなんのために存在するのか,そして,教育委員会はなんのために存在するのか。これらは存在するだけで,はたして組織・制度として「機能」していたのだろうか。OB会も保護者会も同じなのか。現行制度や組織が機能しなくなっている,いわゆる機能マヒは,いまこの国のいたるところにはびこっている重大事ではないのか。そこに蓋をしたまま,特定個人だけがやり玉に挙げられて,あとは知らぬ勘兵衛。ここにメスを入れてほしかった。
もう一つは,「懲役1年執行猶予3年」という表現。罪の数量化。わたしには理解できないが,おそらくは,これまでの判例に照らし合わせて,その罪の軽重がはじき出されてくるのだろう。しかし,罪を時間で量ることなど,いったい,どういう意味をもっているのだろうか。それで,はたして,尊い命は浮かばれるのであろうか。もっと重要で,必要なことは,罪の時間化ではなくて,もっと別のところにあるのではないのか。被告の家族は関西から関東に引っ越しをしたと聞く。しかも,被告と遺族は一度も接点がなかった,つまり,直接的な謝罪は一度もなかった,と聞く。あとに残ったものは,「懲役1年執行猶予3年」,ただ,これだけ。なんとむなしいことか。こんなことが人の世に行われていていいのだろうか。
三つ目は,「桜宮高体罰」という表現。つまり,「体罰」という表現。今回の問題は,わたしの考える体罰の範疇をはるかに超え出てしまった「暴力」そのものであった。しかし,世間ではいつのまにか「体罰」=「暴力」と同義語になってしまった。そして,それが定着してしまった。それが「桜宮高体罰」という表現。メディアも無反省にこのことばを多用・乱用している。こうして,いつしか人びとの共通認識となって,巷に広まっていく。もはや,体罰と暴力は違うのだ,と力説してもだれも見向きもしなくなってしまった。それで,問題が解決したのかといえば,そうではない。むしろ,その傷口はさらに大きくなって,こののち,とりわけ,広義の指導現場が砂漠化していくことは火をみるより明らかだ。
ひとつだけ例を挙げておく。
ごく最近,ある競技種目のナショナルチームのコーチから直接,聞いた話である。
もう,しばらく前から,選手のからだには一切手で触れることはしない,とのこと。競技種目の特性から,コーチが直接,選手たちのからだに触れてフォームを直すことが指導の中核をなしていたが,もう,いまでは一切しない,という。ことば遣いも,選手たちを「叱る」ことばは一切用いない,と。そして,いいところだけを褒めて,悪いところはできるだけ回避している,と。
それで指導は成立するのですか,選手たちは上達するのですか,とわたし。いいえ,まったく駄目です,とコーチ。では,意味ないではないですか,とわたし。そのとおりです,とコーチ。では,なぜコーチをつづけているのですか,とわたし。そうしたら,意外なことばが返ってきました。
選手たちの中には,自分から名乗り出て,以前のように厳しく指導してほしい,わたしは「セクハラ」とか「いじめ」とかと言って訴えたりはしません,その前に,限界を感じたときには自分で言いますので,そのときは勘弁してください,という選手がいる。だから,こういう選手にだけは,わかった,限界を感じたときは言ってくれ,と約束を交わしていままでどおりに指導をしています。もちろん,体罰も加えます。しかし,暴力は絶対に振るいません。これをやってしまったら,コーチとしての資格はありません。目一杯情熱をこめて指導するけれども,最後の一線は超えない冷静さは守りとおします。そうすることによって,選手とコーチの絶対的な信頼関係が築かれていきます。こういう選手はどんどん上達していきます。教えてもらうという心構えが違います。こちらも,それに応えられるように,必死で考え,工夫をします。
わたしは,思わず「立派!」と声を発していました。それにしても,やりにくくなったですね,とわたし。いやいや,以前よりもやりやすくなりました,とコーチ。なぜなら,やる気のない選手は別にどうでもいいのですから,と。ひたすら,褒めておけばいいのです,と。
ナショナル・チームに選抜されてくるような選手なら,これでいいのだろう,とわたしも同意する。しかし,もっと一般的な教育現場では,どうなるのか。もう,しばらく前から,子どもは「褒めて」伸ばすということが,まことしやかに語られ,それがあたかも正論であるかのように蔓延している。その教育の成果が,こんにちの若者たちの姿となって如実に表れている。つまり,叱られることを徹底的に忌避する若者たち。大人を大人とも思わない若者たち。その存在すら無視して平気な若者たち。自分のことしか考えない若者たち。そういう若者たちが年々,増え続けているのではないのか。もちろん,この体罰問題を回避するための放任主義だけが理由ではないだろう。しかし,少なくとも,誘因にはなっている,とわたしは考える。
「体罰」=「暴力」が蔓延していくと,もはや,先生たちは子どもたちがどんなに悪ふざけをしても,見て見ぬふりをする。その結果は,子どもたちの世界に悪質な「いじめ」が蔓延していく。すでに,そのような事例(事件にまでなっている)は枚挙にいとまがない。
つまり,広義の「教育」の根幹にかかわる問題が,ここには潜んでいる。この事実に,わたしは憂慮せずにはいられない。
腕白小僧で,学校の中でも外でも暴れ回っていたわたしは,そのつど,先生や周囲の大人たちから,こっぴどく「叱られた」。納得のいくみごとな「叱られ方」もあったし,不条理でどうしても納得のいかない「叱られ方」もあった。しかし,その両方を経験することによって,自分なりの「生き方」の指針をみつけることができた,といまにして思う。
「体罰」と「暴力」の線引きは,きわめてむつかしい。つまり,そのどちらとも言えない「グレーゾーン」の領域はあまりにも微妙であり,個人差があるからだ。しかし,それでもあえて言っておこう。この微妙な「グレーゾーン」こそ,教育のなんたるかを考える宝庫なのだ,と。そこを切り捨ててしまったら,もはや,教育は形骸化の一途をたどるのみである,と。いや,すでに,その陥穽に落ち込んでしまっている,というべきかもしれない。だとすれば,「体罰」を忌避するこの風潮はますます,教育を形骸化することに拍車をかけることになろう。
教師と子どもが,真剣勝負で向き合う場,これをどのようにして擁護していくか,それこそが,わたしたちに課せられた喫緊の課題であろう。
一つは,「有罪確定」という表現。元同僚の教員,元校長・副校長,教育委員会,そして,直接指導を受けたOB,その保護者,その他関係者たちは,この「有罪確定」ということばをどのように受け止めているのだろうか。わたしのところに届いている情報は,質・量ともにとぼしいものにすぎないが,それでもこの「有罪確定」ということばから響いてくる思いは複雑である。元顧問がたった一人,すべての責任を背負って,それでおしまい。だとしたら,学校という組織,たとえば教員会議はなんのために存在するのか,そして,教育委員会はなんのために存在するのか。これらは存在するだけで,はたして組織・制度として「機能」していたのだろうか。OB会も保護者会も同じなのか。現行制度や組織が機能しなくなっている,いわゆる機能マヒは,いまこの国のいたるところにはびこっている重大事ではないのか。そこに蓋をしたまま,特定個人だけがやり玉に挙げられて,あとは知らぬ勘兵衛。ここにメスを入れてほしかった。
もう一つは,「懲役1年執行猶予3年」という表現。罪の数量化。わたしには理解できないが,おそらくは,これまでの判例に照らし合わせて,その罪の軽重がはじき出されてくるのだろう。しかし,罪を時間で量ることなど,いったい,どういう意味をもっているのだろうか。それで,はたして,尊い命は浮かばれるのであろうか。もっと重要で,必要なことは,罪の時間化ではなくて,もっと別のところにあるのではないのか。被告の家族は関西から関東に引っ越しをしたと聞く。しかも,被告と遺族は一度も接点がなかった,つまり,直接的な謝罪は一度もなかった,と聞く。あとに残ったものは,「懲役1年執行猶予3年」,ただ,これだけ。なんとむなしいことか。こんなことが人の世に行われていていいのだろうか。
三つ目は,「桜宮高体罰」という表現。つまり,「体罰」という表現。今回の問題は,わたしの考える体罰の範疇をはるかに超え出てしまった「暴力」そのものであった。しかし,世間ではいつのまにか「体罰」=「暴力」と同義語になってしまった。そして,それが定着してしまった。それが「桜宮高体罰」という表現。メディアも無反省にこのことばを多用・乱用している。こうして,いつしか人びとの共通認識となって,巷に広まっていく。もはや,体罰と暴力は違うのだ,と力説してもだれも見向きもしなくなってしまった。それで,問題が解決したのかといえば,そうではない。むしろ,その傷口はさらに大きくなって,こののち,とりわけ,広義の指導現場が砂漠化していくことは火をみるより明らかだ。
ひとつだけ例を挙げておく。
ごく最近,ある競技種目のナショナルチームのコーチから直接,聞いた話である。
もう,しばらく前から,選手のからだには一切手で触れることはしない,とのこと。競技種目の特性から,コーチが直接,選手たちのからだに触れてフォームを直すことが指導の中核をなしていたが,もう,いまでは一切しない,という。ことば遣いも,選手たちを「叱る」ことばは一切用いない,と。そして,いいところだけを褒めて,悪いところはできるだけ回避している,と。
それで指導は成立するのですか,選手たちは上達するのですか,とわたし。いいえ,まったく駄目です,とコーチ。では,意味ないではないですか,とわたし。そのとおりです,とコーチ。では,なぜコーチをつづけているのですか,とわたし。そうしたら,意外なことばが返ってきました。
選手たちの中には,自分から名乗り出て,以前のように厳しく指導してほしい,わたしは「セクハラ」とか「いじめ」とかと言って訴えたりはしません,その前に,限界を感じたときには自分で言いますので,そのときは勘弁してください,という選手がいる。だから,こういう選手にだけは,わかった,限界を感じたときは言ってくれ,と約束を交わしていままでどおりに指導をしています。もちろん,体罰も加えます。しかし,暴力は絶対に振るいません。これをやってしまったら,コーチとしての資格はありません。目一杯情熱をこめて指導するけれども,最後の一線は超えない冷静さは守りとおします。そうすることによって,選手とコーチの絶対的な信頼関係が築かれていきます。こういう選手はどんどん上達していきます。教えてもらうという心構えが違います。こちらも,それに応えられるように,必死で考え,工夫をします。
わたしは,思わず「立派!」と声を発していました。それにしても,やりにくくなったですね,とわたし。いやいや,以前よりもやりやすくなりました,とコーチ。なぜなら,やる気のない選手は別にどうでもいいのですから,と。ひたすら,褒めておけばいいのです,と。
ナショナル・チームに選抜されてくるような選手なら,これでいいのだろう,とわたしも同意する。しかし,もっと一般的な教育現場では,どうなるのか。もう,しばらく前から,子どもは「褒めて」伸ばすということが,まことしやかに語られ,それがあたかも正論であるかのように蔓延している。その教育の成果が,こんにちの若者たちの姿となって如実に表れている。つまり,叱られることを徹底的に忌避する若者たち。大人を大人とも思わない若者たち。その存在すら無視して平気な若者たち。自分のことしか考えない若者たち。そういう若者たちが年々,増え続けているのではないのか。もちろん,この体罰問題を回避するための放任主義だけが理由ではないだろう。しかし,少なくとも,誘因にはなっている,とわたしは考える。
「体罰」=「暴力」が蔓延していくと,もはや,先生たちは子どもたちがどんなに悪ふざけをしても,見て見ぬふりをする。その結果は,子どもたちの世界に悪質な「いじめ」が蔓延していく。すでに,そのような事例(事件にまでなっている)は枚挙にいとまがない。
つまり,広義の「教育」の根幹にかかわる問題が,ここには潜んでいる。この事実に,わたしは憂慮せずにはいられない。
腕白小僧で,学校の中でも外でも暴れ回っていたわたしは,そのつど,先生や周囲の大人たちから,こっぴどく「叱られた」。納得のいくみごとな「叱られ方」もあったし,不条理でどうしても納得のいかない「叱られ方」もあった。しかし,その両方を経験することによって,自分なりの「生き方」の指針をみつけることができた,といまにして思う。
「体罰」と「暴力」の線引きは,きわめてむつかしい。つまり,そのどちらとも言えない「グレーゾーン」の領域はあまりにも微妙であり,個人差があるからだ。しかし,それでもあえて言っておこう。この微妙な「グレーゾーン」こそ,教育のなんたるかを考える宝庫なのだ,と。そこを切り捨ててしまったら,もはや,教育は形骸化の一途をたどるのみである,と。いや,すでに,その陥穽に落ち込んでしまっている,というべきかもしれない。だとすれば,「体罰」を忌避するこの風潮はますます,教育を形骸化することに拍車をかけることになろう。
教師と子どもが,真剣勝負で向き合う場,これをどのようにして擁護していくか,それこそが,わたしたちに課せられた喫緊の課題であろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿