朝日新聞のスクープ記事が大きな話題になっています。わたしはネット情報をみてから,鷺沼の事務所に行く途中のコンビニで朝日新聞を購入しました。なるほど,証拠の手紙まで抑えて,詳細に日展の舞台裏を劈開してみせています。みごとな記事になっています。ネット情報によれば,茂木健一郎さんが絶賛しているとか。
しかし,わたしのような日展などにまったく縁のない素人でも,かなり以前から「入選事前配分」の話は知っていました。それも「篆刻」部門だけではない,ということも。ですから,美術界では公然の秘密なのだと思っていました。つまり,日展に入選するには「しかるべきルート」を通過することが必要なのだ,と。もっと言ってしまえば,どの先生のところに入門して弟子となるか,これがきわめて重要である,と。
しかし,よくよく考えてみますと,美術作品のできばえを比較してその優劣を決めるということはいったいどういうことなのか,という疑問がその背後にはあります。たとえば,近代オリンピック競技でも「芸術部門」を設けて,メダル競争をしたことがあります。1928年のアムステルダム大会(オランダ)です。このときに「文学部門」で金メダルをとった作品が,フランツ・メゾーの『古代オリンピックの歴史』です。日本でも翻訳されていますので,ご存じの方も少なくないとおもいます。わたしは,まだ翻訳がでる前でしたので,ドイツ語版で読み,自家用に翻訳もしてみました。ですから,この著作が「金メダル」を授与された作品だということをよく知っています。
「芸術部門」は,この作品のような文学(歴史書を文学として扱うことにも違和感がありましたが)もあれば,絵画,彫刻,音楽,など多岐にわたっていたように記憶します。これらがどのようにして審査されたのか,調べてみると面白いと,いまごろになって思っています。
なぜなら,陸上競技のように,速さは時間で,高さや距離は巻き尺で,という具合に「計測」ができ,客観的に「判定」することができます。が,美術作品を判定する客観的な方法というものはあるのだろうか,とその当時,大いに疑問におもいました。それと近いところで,いまも問題になっているのが,採点競技です。体操競技,フィギュアスケート,シンクロナイズド・スウィミング,など。これらは,いずれも「美」の基準を定めて,それを点数化して,比較しています。しかし,そこには問題が山積です。
ましてや,美術作品となったら,それは,もはや比較のしようがないのではないか,しかも,優劣を決めるなどということは,とんでもないことと言うしかありません。たとえば,ピカソの絵とゴッホの絵を比較して点数化する,という情景を思い描いてみてください。
それは,わたしの比較的よく知っている書道の世界でも同じです。流派の違う作品の優劣は決めようがありません。たとえば,同じ流派のなかでの優劣の比較なら,その流派の達人がみれば,たちどころに判定は可能でしょう。しかし,流派を越えたとたんに,それは比較の対象とはなりえない,とわたしはおもいます。
その結果,編み出された方法が,日展方式なのではないか,とわたしはむかしから思っていました。つまり,流派(あるいは,会派)ごとに入選作品の数を配分して,その中で競い合い,判定をしてもらう,というわけです。これは奇怪しいといって批判することはいとも簡単です。そして,多くの人たちが「そうだ,そうだ」といって声を大にして賛同することでしょう。では,それに代わる「判定」の方法を提案しろ,といわれたらどうするのでしょうか。よくも,悪くも,長年にわたって,苦労に苦労を重ねてゆきついた究極の「判定」方法が,おそらくこれだったのではないか,とわたしなどは,ひとまず弁護しておきたいとおもいます。
代案なしに批判することは簡単です。しかも,いかにも正義に満ちた,非の打ちどころのない立派な批判に聞こえます。では,それがいけないというのなら,それに代わる代案を提示してもらいたい。いったい,どうすればいいのか,メディアの側からの提案が可能なのか,わたしはしばらくの間,この様子を傍観してみたいと思っています。おそらく,まことに馬鹿げた「批判」「批難」「誹謗」「中傷」,これに類するありとあらゆる言説が飛び交うことだろうと思っています。
しかし,大山鳴動して鼠一匹・・・・・。
例題・その1。
ピカソ,ゴッホ,セザンヌ,モネ,ルソー,岡本太郎,横山大観,梅原龍三郎,以下,だれでもいいのですが,それぞれの代表作を並べて,その中から金メダル,銀メダル,銅メダルに相当する人を選べ,といわれたらあなたならどうしますか。
しかし,わたしのような日展などにまったく縁のない素人でも,かなり以前から「入選事前配分」の話は知っていました。それも「篆刻」部門だけではない,ということも。ですから,美術界では公然の秘密なのだと思っていました。つまり,日展に入選するには「しかるべきルート」を通過することが必要なのだ,と。もっと言ってしまえば,どの先生のところに入門して弟子となるか,これがきわめて重要である,と。
しかし,よくよく考えてみますと,美術作品のできばえを比較してその優劣を決めるということはいったいどういうことなのか,という疑問がその背後にはあります。たとえば,近代オリンピック競技でも「芸術部門」を設けて,メダル競争をしたことがあります。1928年のアムステルダム大会(オランダ)です。このときに「文学部門」で金メダルをとった作品が,フランツ・メゾーの『古代オリンピックの歴史』です。日本でも翻訳されていますので,ご存じの方も少なくないとおもいます。わたしは,まだ翻訳がでる前でしたので,ドイツ語版で読み,自家用に翻訳もしてみました。ですから,この著作が「金メダル」を授与された作品だということをよく知っています。
「芸術部門」は,この作品のような文学(歴史書を文学として扱うことにも違和感がありましたが)もあれば,絵画,彫刻,音楽,など多岐にわたっていたように記憶します。これらがどのようにして審査されたのか,調べてみると面白いと,いまごろになって思っています。
なぜなら,陸上競技のように,速さは時間で,高さや距離は巻き尺で,という具合に「計測」ができ,客観的に「判定」することができます。が,美術作品を判定する客観的な方法というものはあるのだろうか,とその当時,大いに疑問におもいました。それと近いところで,いまも問題になっているのが,採点競技です。体操競技,フィギュアスケート,シンクロナイズド・スウィミング,など。これらは,いずれも「美」の基準を定めて,それを点数化して,比較しています。しかし,そこには問題が山積です。
ましてや,美術作品となったら,それは,もはや比較のしようがないのではないか,しかも,優劣を決めるなどということは,とんでもないことと言うしかありません。たとえば,ピカソの絵とゴッホの絵を比較して点数化する,という情景を思い描いてみてください。
それは,わたしの比較的よく知っている書道の世界でも同じです。流派の違う作品の優劣は決めようがありません。たとえば,同じ流派のなかでの優劣の比較なら,その流派の達人がみれば,たちどころに判定は可能でしょう。しかし,流派を越えたとたんに,それは比較の対象とはなりえない,とわたしはおもいます。
その結果,編み出された方法が,日展方式なのではないか,とわたしはむかしから思っていました。つまり,流派(あるいは,会派)ごとに入選作品の数を配分して,その中で競い合い,判定をしてもらう,というわけです。これは奇怪しいといって批判することはいとも簡単です。そして,多くの人たちが「そうだ,そうだ」といって声を大にして賛同することでしょう。では,それに代わる「判定」の方法を提案しろ,といわれたらどうするのでしょうか。よくも,悪くも,長年にわたって,苦労に苦労を重ねてゆきついた究極の「判定」方法が,おそらくこれだったのではないか,とわたしなどは,ひとまず弁護しておきたいとおもいます。
代案なしに批判することは簡単です。しかも,いかにも正義に満ちた,非の打ちどころのない立派な批判に聞こえます。では,それがいけないというのなら,それに代わる代案を提示してもらいたい。いったい,どうすればいいのか,メディアの側からの提案が可能なのか,わたしはしばらくの間,この様子を傍観してみたいと思っています。おそらく,まことに馬鹿げた「批判」「批難」「誹謗」「中傷」,これに類するありとあらゆる言説が飛び交うことだろうと思っています。
しかし,大山鳴動して鼠一匹・・・・・。
例題・その1。
ピカソ,ゴッホ,セザンヌ,モネ,ルソー,岡本太郎,横山大観,梅原龍三郎,以下,だれでもいいのですが,それぞれの代表作を並べて,その中から金メダル,銀メダル,銅メダルに相当する人を選べ,といわれたらあなたならどうしますか。
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