2013年10月25日金曜日

『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋著,文春新書,2013年7月刊)を読む。

 大阪・高槻市の郊外に今城塚(いましろつか)古墳がある。同じ高槻市にある上宮天満宮を二度目の訪問をするついでに,案内をしてくれる人があったので,今城塚古墳に足を伸ばしてみた。それが最初の訪問だった。2011年の秋だったと記憶する(あまり確かではない)。高槻市による大々的な発掘調査が終わって,古墳の周辺も整備され,そのすぐ近くに真新しいできたばかりの高槻市立今城塚古代歴史館がある。なにからなにまで,あまりに立派で,なにも知らないででかけたわたしをたじろがせた。

 予備知識がほとんどなにもないというのは恐ろしいものだ。ただ,とてつもなく大きな前方後円墳を目の前にして,その雄大な光景に圧倒され,しばし呆然と眺めるだけだった。そして,なによりわたしを興奮させたものは,古墳の外堤部に並んでいた大量の埴輪群だった。そこには,力士の埴輪が陳列してあって,なるほど,とわたしの胸の内に納得できるものがあった。

 主たる目的である上宮天満宮は,言うまでもなく菅原道真を祀った神社である。そこは,北野天満宮よりも古い天満宮である。だから,「上宮」というのだそうだ。そこには,古い古墳群の一角に野見宿禰を祀った「野身神社」(野身に注目)がある。その神社の正面左側の碑文に書いてあることを,再確認するのが,そのときの最大の目的だった。

 だから,今城塚古墳に力士の埴輪が埋められていた,という事実がことのほかわたしを喜ばせたのだ。しかも,今城塚古墳の南東の位置には,野見町があり,そこには野見神社がある。この野見神社は,ついこの間まで「牛頭天王社」と呼ばれていた,と神社のパンフレットに書いてある。なぜ,牛頭天王社が野見神社になったのか,社務所で尋ねてみたが「わからない」のひとことで応答を拒否されてしまった。なにかある,とわたしは直観した。

 だから,わたしの頭のなかは,今城塚古墳と野見宿禰とはどこかでつながっているのではないか,という思い入れで一杯になった。そんな頭で,完成したばかりの高槻市立今城塚古代歴史館を見学させてもらった。いま,考えてみると不思議なのだが,ここには継体天皇の墳墓である,という断定的な文言はどこにも見当たらなかった。それどころか,継体天皇という文言すら,ほとんど見当たらない。展示物の一番奥の裏側のショウ・ウィンドウのなかの解説文に,ひっそりと「継体天皇の陵ではないか,という説もある」と書かれてあるだけだった。ああ,そうなんだ,というのがわたしのそこでの認識だった。

 しかし,その後,日本古代に関する興味がますます大きくなってきて,その関連の本を何冊か読むことになった。すると,どういうわけか,継体天皇の存在がまことに異様であることがわかってきた。どうやら,雄略天皇と継体天皇との間には,おおきな断絶があるらしいということがわかってきた。では,継体天皇とはいかなる出自の,いかなる事跡をもった天皇なのか,という興味が一気に高まってきた。第一,天皇などと呼べる存在はまだなくて,せいぜい大王として君臨していただけの話ではないか,などと考えはじめていた。

 そして,ふらりと立ち寄った近くの本屋の新書コーナーで,この『継体天皇と朝鮮半島の謎』に出会った。文字通り「出会った」のである。もっと,正直に書いておけば,多木浩二さんの『天皇の肖像』(岩波新書)を探しにいったときのことだ。もっと言っておけば,すでに読んだことのある本なので家にあるはず,それが見つからずに,いらいらしながら探しに行ったときのことだ。

 このテクストには,なんの迷いもなく,今城塚古墳は継体天皇の御陵であると断定した上で論が展開されている。もっとも,「明治以来,政府によって継体天皇陵とされてきたのは,茨木市にある太田茶臼山古墳であった」と著者も断っているように,宮内庁でもその見解をとっているとしたら,高槻市としては,遠慮がちに「継体天皇陵ともいわれている」と書くのが精一杯だったのかもしれない。しかし,いまではほとんどの考古学者はこの今城塚古墳こそ継体天皇陵である,と考えていると著者の水谷千秋氏はいう。

 さて,前置きが長くなってしまって,本論に入る暇もなくなってしまったので,結論的な,わたしの印象だけを記しておきたいと思う。

 継体天皇の実像はほとんど,いまもって,わからないということだ。記録されているのは,出生にまつわる伝承と,57歳で天皇になってからのことだけで,あとのことはまったくわからない,まことに不思議な天皇である,ということだ。

 もっと言っておけば,生まれたときから渡来系の人たちが多く住む,いわゆる混住が当たり前の地域で育っている,ということだ。ということは,ごく当たり前のように混血しており,バイリンガルだったのではないか,と考えられる。だから,天皇になってからも,朝鮮半島との関係はきわめて深く,とりわけ百済王とは昵懇の仲だったことが,こちらは文献資料からも明らかだという。

 では,57歳で天皇になるまでの間,この人がなにをしていたのか,どのようにして力をつけたのか,つまり,地方の大王になったのか,おおよそのことは想像がつく。しかし,著者の水谷氏は,そこには深入りしないで,考古学上の発見(遺物)と文献資料とを突き合わせながら,慎重に歴史家としての推理を積み上げていく。これはこれでとても面白い。しかし,読めば読むほどに,「日本人とはいったいどういう存在の人のことをいうのか」という疑問がむくむくと頭をもたげてくる。

 そして,先住民が混血していることは棚にあげて(あるいは,記憶から消えていて),あとからやってきた人たちのことを渡来人として区別(差別)する,そういう Geisteshaltung (精神的姿勢)は,日本の古代からこんにちまで変わらずに一貫しているのではないか,というのが読後のもっとも大きな感想である。

 わたしたちの祖先は混血に混血を重ねた結果として,こんにちのわたしたちが存在しているのだ,そして,混血は,いまもつづいているのだ,という厳然たる事実を再認識した次第である。わたしのからだの中にも,朝鮮半島や中国大陸はおろか,ポリネシア系の血も流れているに違いない。椰子の実の流れ着いた愛知県・渥美半島(わたしの両親の出身地)には,朝鮮文化も多く残っているし,徐福がやってきたという伝承もあるほどだ。

 というところで,今日のところはおしまい。
 

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